怖がり乾くんと死に損ないの霞さん

織夜

かくれんぼ

第1話怖いものは怖い

【怖いものは怖い】


 子供の頃、神社でかくれんぼをしていたら倉庫みたいなところに潜り込んで閉じ込められたことがある。暗くて、ひとりぼっちで、寂しくて、そういう時に限って誰にも見つけてもらえなくて、俺は開かない扉を叩きながら泣いた。


 子供が隠れるのにちょうどいいと思える倉庫だからそんなに大きくなかったはずだ。奥行きは三歩も歩けば荷物が積まれた棚で、神社の倉庫だからなにやら見慣れないものばかりだったのを覚えてる。なにかがいたらすぐわかるそんな空間でうずくまる俺の耳に、カタカタと物音が聞こえた。背後の棚から鳴っているとわかると血の気が引いて涙まで引っ込んだ。息をのんで固まり物音に意識を向ける。そこそこ田舎に住んでいるから、ネズミや小動物のたてる物音には慣れていた。そのどれとも違うとわかる。そのうちズルズルと床を何かが這う音が混じった。


 来るなくるなくるなくるな! 必死に念じるがやたらゆっくりと音は近づいてくる。蛇みたいな長い何かがうねって移動しているようだがそんな空間はないはずだ。


 絶対ムリ。耐えられない。怖い。両耳を塞いで早く誰か見つけてくれってそればかり考えていた。見つけて欲しいのに声を出したら近づいてくる何かに絞め殺されそうで悲鳴すら突っかかっている。


 俺の周りを音がグルグルと取り囲んでいる気がした瞬間。


「もういいかぁーい?」


 耳元で男の声がした。


「うああああああああっ」


 なりふり構わずめちゃくちゃ叫んで扉を叩いたらすんなり開いて誰かに手を握られた。


「み~つけた、のじゃ。なんじゃ坊、泣いておるのかや? もうなにも怖いことはないのじゃ。ワシがお歌をうたってやるのじゃ」


 じいちゃんでもしないようなしゃべり方をする女の人だったと思う。どんな顔をしていたのかとか、どんな格好をしていたのかとかは覚えていなくて、俺を泣き止ますために歌ってくれた童謡みたいな歌もすっかり忘れた。けれど、その歌はすごく優しくて、俺のために歌ってくれているんだってなんとなくわかったし、その感情だけは覚えている。


 母親が生きていたら、慣れていた感情だったのかもしれない。


 手を引かれ歩いて行くと、付き添ってくれていた礼兄れいにいと、一緒に遊んでいた羽智はちの姿を見つけて安心し、女の人の手を離して駆け出した。途中まで走って振り返ったら誰もいなかった。

 立派な社の横から山の奥に伸びる細い道は薄暗くて、そこからまたあのズルズルした何かが追ってきそうで、怖くなった俺は礼兄に抱きついてまた泣いた。


 それからだ。おかしなものが見えるようになったのは。



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 朝、学校近くのでかい交差点を、同じ制服を着た奴らに混じって歩く。平静でいようと思うのに体は勝手に早足になる。


 ムリムリムリ! なんで頭半分潰れてんだよ! 絶対生きてねぇじゃん! こっちみんなよ! ああああああっめっちゃこぇぇええええ!


 渡る先の歩道に血まみれの女が立っていた。ほかの奴らは素通りしているし、なにより体があちこち崩れている。それでも立っている。どう考えても普通じゃないし、何万歩譲っても正常な人間じゃない。見たくもないしわかりたくもないが、あれがきっと幽霊って奴なんだろう。俺にははっきりと見えるが、普通は見えない存在だ。今すれ違った奴、確実に肩がぶつかっていたのに女の体を素通りしたしな。


 気持ち悪い! ムリムリムリ! 


 ここの交差点を逃すと交通量の多い道を渡るのが難しくなる。難しくなっても渡れるなら女の幽霊を避けるべきだ、とは、考えるが、人が多い方が怖くないってのも正直なところで、俺は人混みに紛れてやり過ごす選択をした。


 信号が青になった途端飛び抜けて目立たない程度に急ぐ。目の前の奴らが勝手に避けてくれるのがありがたいっちゃありがたい。それが、俺がギターを背負ってるからなのか、ヘッドホンでガンガンにロックを聴いているからなのか、着崩した制服のせいか、身につけたピアスとか指輪とかブレスレットのせいなのか、アッシュグレイに染めた髪のせいなのかはわからない。もしかしたらビビっているのを隠すために目つきが悪くなっているからかもしれないがそんなことは今の俺には知ったこっちゃない。


 とにかく女の幽霊をやりすごす。昨日まではいなかったのになんで突然現れてるんだよ。訳わかんねぇよ。


 車道を渡りきって高校方面に曲がる。悪いことに幽霊は進行方向側に立っている。どんなに避けても歩道分しか離れられない。こういうのは見えてるってバレてもビビってるってバレても都合がよくないっていうし、できるだけ普通に通り過ぎるしかない。歩道のど真ん中をうつむき加減で歩く。

 怖すぎて逆に幽霊の様子が気になって目線をあげたら、かろうじて残っている片目と目が合った。


 いや、嘘だろ? 視線ってあるの? 物理的に存在してるってことか? 


 咄嗟に顔ごと逸らした。横を通り過ぎてさらに足を速める。ヘッドホンのボリュームを上げる。礼兄にロックを教えてもらってから聴いてたりギターを弾いてたりすると、おかしなものが気にならなくなることに気づいて、俺の生活はロック一色になった。バイトができるようになってからは金を貯めてギターを買い自分でも演奏する。音楽に浸っている間は恐怖を忘れることができる。幽霊が見える、なんて他人に言ったところで嘘つき呼ばわりされるだけだ。音楽だけが頼りだ。

 なのに、震えが止まらなかった。頭に響いているはずの音楽も遠くに聞こえ、冷や汗が背中を伝う。


 なんでついてくるんだよおおおおお!!


 一歩と空けない距離で女が付いてくる。異様に寒かった。


 聴くのがダメなら演奏するしかない。俺は平静を装うのをやめて走り出し校門をくぐる。投げ捨てるように下駄箱に靴を突っ込み、廊下を走る。ここでも人は俺を避けてくれる。マジでありがたい。渡り廊下を越えて部室棟に駆け込み『軽音部』と、張り紙してあるドアを開けた。本来鍵がかかっているが、俺は緊急事態に備えてひっそりと合鍵を作っている。

 

 学校に入ってからは幽霊の動きが鈍くなったようで背中に張り付くような距離ではなくなったが付いてきていることには変わりない。


 部室の隅に座り込み背負っていたギターを取り出す。小型のアンプを直接取り付け無線でスピーカーに接続して弦を弾く。


「くんなくんなくんなくんな」


 見た目がどうとか男のプライドとかはどうでもいい。怖いもんは怖いんだよ。

 とにかく女の幽霊を追い払いたくて、できるだけ強気の曲を演奏する。ルールなんてぶっ壊して突き進めって歌詞だが歌えるような状態じゃなかった。


 部室のドアは上半分が磨りガラスになっている。廊下が見えるところはそのガラス以外にはない。右から左に影が動いてガラスの正面で覗き込むように止まった。


 ムリムリムリムリ! あの女がいる! 入ってくるなよ!? どっかいけ!


 震える指が弦を押さえきれなくて無様な音が鳴った。隙ができたとばかりにドアがガラッと開けられる。


 ひぃぃぃぃぃぃっ!


 悲鳴が声にならない。演奏する指も完全に止まった。


「なんじゃ坊、こんなところで丸まって、泣いておるのかや?」


「は?」


 何かが記憶に引っかかったが、一言に対するツッコミ所の多さに意識が持って行かれた。

 ドアを開けたのは三年の証である赤いリボンをつけた女子生徒だ。色白の肌に黒い髪。細い首筋にそうようにカットされた髪は毛先がカールしている。釣り気味の猫みたいな目は光の加減なのか赤く見える。ブレザーの内側にカーディガンを着込み膝上丈スカートの制服姿は学校中どこでも目にするが、人形めいた独特の雰囲気がいやに印象に残った。しかも変なしゃべり方をする。あとたぶん、すごく不名誉な呼ばれ方をされた気がする。


「んだよアンタ――――っ!?」


 売られたケンカは買う主義だが、先輩の後ろに立つ女とまた目が合って固まった。先輩の華奢な肩越しに崩れた頭を傾け片目だけでこっちを見てくる。睨んでるわけじゃない。ただこっちをじっと見ていた。


 言葉を失った俺に首を傾げた先輩は後ろを振り向き、俺を見て、今度は逆向きに首を傾げる。


「もしかして、このご婦人に怯えているのかや?」


 しゃべり方が独特すぎて気が抜けた。


「見えてんのか? むしろなんで平気なんだよ」


 先輩は「このご婦人」と、言って、確実に背後の女を指さしている。今まで、「霊感がある」と、言う人間は何人か見てきたが俺が見えているものを直接指さして当てて見せた奴は初めてだった。


 先輩は俺の質問には答えずドアを開けたまま部室に入ってきた。

 とりあえず閉めてくれよ! 姿が見えないだけでも保たれる心の平穏があるんだよ!

 ビビりまくってる内心を悟られないように俺は先輩を睨んだ。睨んだところで、ギターを抱えて座り込む姿は格好悪い以外のなにものでもない。

 猫のような足取りで音もなく近づいてきた先輩は、俺の目の前でしゃがんだ。見える見える! むき出しの太ももから目を逸らしたらボタンを外しすぎているブラウスから素肌がチラ見えした。揺れたリボンが隠してくれたからセーフ……たぶん。そこを避けると顔を見るしかなくなる。頭が小さい。目がでかい。やっぱり瞳は赤くて、炎を閉じ込めた石みたいだ。近くで見ても人形みたいな美しい造形の印象はかわらないが、瞳だけは生命力を感じて、肌の白さも相まってウサギを正面から覗き込んでいる気分にもなった。


「な、なんだよ」


 この角度あざといだろ。絶対自分の美人度理解してるよな? やめろ、顔を近づけてくるな! 胸! 胸をしまえ! いろいろ見える! でかいのはわかったから! 

 長いまつげがパチパチと鳴る。


「そんなに怖いかや?」


 心底不思議そうに首を傾げられ、可愛さがありあまって逆にイラッとした。なんでここまでバカにされなきゃなんねぇんだよ。


「あんなん見えて平気な奴とかいんの? なんでいんのかわかんねぇし、なに考えてるかわかんねぇし、こっちの話聞いてんのかもわかんねぇし、とにかく気持ち悪いんだよ!」


 人の姿をして出てくるクセに人の理屈が通用しない。勝手に付いてくるし家の中にいるし、それなのに誰にも責められないどころか一方的にこっちを不快にしてくる。そんな理不尽にビビって逃げるしかない自分が情けなさ過ぎて叫びたくなってくる。

 見えているのに平気な先輩にこっちが首を傾げたいくらいだ。


「ならば聞いてみればいいのじゃ」


「は?」


 真顔で言われてうっかり考えてしまった。幽霊と会話する自分。あ、ムリ。直視できないのに会話が成り立つとは思えない。てか、理解できる言語でコミュニケーションとれるわけ?


「ご婦人に、なんでそこに立っておるのか尋ねてみればいいのじゃ」


「ど、どうやって?」


「どうして立っておるのかや? と、訊けばいいじゃろ?」


 さも当然のことのように言われるから実は今までもそうすればよかったんじゃないかと思えてきた。

 先輩が可愛いキョトン顔で子供に言い聞かせるみたいに言うのも悪い。

 え? 本当に? そんなんでいいの?


「坊はできんのかや?」


 え!? 見えてる奴って普通にできんの!? 常識なの!? どこの世界の常識!?

 

 先輩は「しかたないのう」とか言いながら立ち上がった。

 いきなり立つな! マジで見えるから! 勢いつけて振り返るな! スカート翻ってマジでギリギリだったからな!?

 一挙手一投足にヒヤヒヤしている俺を置いて先輩は入り口を塞ぐように立つ女に向かっていった。その動きに一切の迷いがない。格好良すぎだろ。

 

「ご婦人、なにゆえここに立っておるのかや? この坊に付いてきたのはどんな理由じゃ?」


 ダイレクトに話しかけんのかよ!! 対応ってそれでいいの? それで答え返ってくんの?

 俺は先輩の小さな背中だけを見るようにしてじっと様子を窺った。遠くから始業前の学校のざわめきが聞こえる以外は物音一つしない。沈黙が一呼吸分、二呼吸分と続き数秒、数十秒と続いていく。

 突然先輩が振り返ってこちらに戻ってきた。息すら潜めて固まっていた俺の横にストンと膝を抱えて座る。小さいなこの人。ウサギの妖精って言われてもそれなりに信じるぞ。

 白い頬が膨れた。赤い唇が尖る。


「だめじゃ。無視されてしまったのじゃ」


 全然だめじゃん! 出来ない俺を小馬鹿にするような言動で向かっていって拗ねるってどういうこと!?


「幽霊と話すとかムリだろ」


「ワシには向かんのじゃ。上手にできる奴を知っておるからやってみたのじゃ」


 見よう見まねだったのか。てか出来る奴いるのかよ。そいつ呼ぼう?


「そういうの出来る奴本当にいるんだな。やっぱりそいつも見えんの?」


 訊けば先輩は抱えた膝の上に頭を乗せてこっちを見てきた。仕草がいちいちあざといな。


「見えていたんじゃないかや? 訊いたことはないから確かには知らぬが、歌も楽器も上手にこなす器用なお人じゃったよ」


 あ、これ彼氏だな。

 大きな目を細めて唇を緩める笑い方がすごくキレイだった。相手も、先輩のことだってなんにも知らないのに、うらやましいと思ってしまうぐらい感情が溢れている。彼女をこんなにキレイに笑わせられるなら悪い奴じゃないんだろう。楽器が得意っていうならセッションしてみたい。

 無意識に、俺は弦を弾いていた。

 音量は控えめにしていたが突然響いたエレキギターの音に先輩は目をまん丸にした。


「ご――」


 謝ろうと口を開いた瞬間、先輩は飛び上がって体を起こし俺の二の腕を掴んだ。今のぴょんぴょんしたの最高にウサギっぽかった。


「よい音じゃ」


 キラッキラの赤に見つめられて頭の先まで熱くなった。変な汗が出て唇がむずむずしてきてむりやり噛みしめる。


「お、おう……」


 ただのCメジャーだ。なにも褒められることはしてない。ま、まあ、褒めてくれるんならやぶさかではない……。


「その音が鳴らせるならきっとワシより坊の方が才能があるのじゃ」


「な、なんの?」


 詰め寄られて背を反らした。腹筋が死ぬ。脇腹が吊る。

 あんまり寄るな。む、胸が当たるから。自分のでかさ把握してる?


「なんと言ったかのう。祓い? 禊ぎ? 鎮魂おおみたまふり? 帰神きしん? とにかく穢れを清めることじゃ」


「アンタ、なんで自分がやろうとすることそんなに曖昧なんだよ」


「ワシは知っておるだけじゃ。というか、やってみたがワシにはできなかったのじゃ。だから坊がやるんじゃよ」


 腰に手を当てて胸を張る。やめろ。ボタンが一つでもはじけ飛んだらモロ見えだぞ。あと、なんでアンタが威張るんだよ。


「俺がやんの? その、祓い? あの幽霊をどうこうするって?」


「そうじゃ。だって怖いんじゃろ?」


 じゃろ? って。怖いですけど。そりゃ怖いですけど。だからって俺がやるの? できんの?


「俺だってきっとムリだぞ? お経とか厄除けのおまじないとか試してみたことあるけど全然効果なかったし」


 幽霊(仮)が見え始めた当初はガキ過ぎてなにがなんだかわからなくて、変な人、と、認識していた。突如目の前に意思疎通ができないおかしな人が現れて、怖くて怖くて礼兄に泣きついたのを今でも覚えている。礼兄は、見えない何かを指さして泣きじゃくる俺を困った顔で慰めてくれた。ガキながら、「ああ、これは人に言っちゃいけないやつなんだな」と、察した。それからは、「変なのがいる」なんて言えず、けれど怖いから泣き出して逃げ出して、じいちゃんばあちゃんや幼なじみの羽智に抱きついて泣いて恐怖が過ぎ去るのを待っていた。相当面倒なガキだったはずだ。病院に突っ込まれなかったのが奇跡だとすら思える。

 見えるものが幽霊なんじゃないかと気づいてからは自分なりに色々調べたのだ。身につけているピアスも指輪もブレスレットも厄除けの効果があるというパワーストーンが入っている。効果があったためしはないけどな。退魔法とか呼ばれるものも調べて試してみたがやっぱり効果がなかった。退魔法自体がでたらめなのか俺に才能がないのかわからないが、結局のところ俺が平穏を取り戻せるものは音楽しかなかった。


「そういうのは霊能力者ってのが使わないとダメなんだろ?」


「坊は霊能力がなにか知っているのかや?」


 嫌味でもなんでもなくすごく純粋な目で問われて言葉に詰まった。幽霊について調べるとよく見る言葉だからなんとなくで使っていたが、詳細を説明しろと言われると困る。ギタリストはギターを弾く人間だ。霊能力者は霊能力を持っている人間だろ? 霊能力?


「霊を見る能力?」


「それなら坊もワシも霊能力者じゃろ?」


「あ、そっか」

 

 そもそも霊ってなんだよ。本当にいるわけ? いや、それっぽいのが部室の入り口に立ってるけど、あれだって幻覚じゃない証拠はないだろ。


「信じていないものにすがっても無意味じゃよ。坊は何を信じるのじゃ?」


 そんなものは決まっている。


「これ」


 俺は抱えていたギターを突き出す。バイト代を貯金してようやく手に入れた俺の大事な相棒でお守り。こいつをかき鳴らせば怖いものから守ってくれる。さっきはあんまり効果なかったけど、それは俺がこいつをちゃんと鳴らせなかったせいだ。たぶん。


 先輩が笑っていた。なにがそんなに嬉しいのか、目を細めて、頬をほんのりと色づけた笑顔に不意を打たれる。


「ならば坊が唱えるべきは意味がわからぬ呪文なんぞではなく音楽なのじゃ。紙と筆を用意するのじゃ」


「筆なんてねぇよ」


 書道部にならいくらでもあるだろうが、ここは軽音部だ。しかもお堅い真面目系の生徒と顧問の書道部は軽音部を毛嫌いしている。しかも俺は見た目が派手なので蛇蝎のごとく嫌われている。羽智か後輩の風波ならワンチャンありそうだが、断られるのがオチだろう。

 ここにあるのは譜面とシャーペンぐらいだ。とりあえずある物を差し出してみた。


「ふむ。結界の札の文字も覚えておるのじゃが、きっとそのまま書き写しても効果がないのじゃろうなぁ。あのお人も気持ちを込めて書くのが大事と言っておったからのう」


 俺がテキトーに引き寄せたテーブルには白紙の五線譜が散らばっていた。先輩は腕を組んでそれを覗き込み首を傾げる。


「なあ、先輩が知ってるっていう出来る奴呼べないの? そのほうが早くね?」


「呼べないのじゃ」


「なんで? 別れた?」


 彼氏かと思ったが、よくよく思い返してみれば元彼みたいな話し方してたな。地雷だったか?


「大昔に死んだのじゃ」


 地雷じゃん!!


「ご、ごめん」


 勢い込んで謝ったが、先輩は五線譜を見つめる姿勢のまま、表情すら変えていなかった。

 父親と母親の位牌を前にしてぼんやりと座っているだけだった過去を思い出す。幽霊が見えるようになる前、記憶に残るギリギリの頃だ。事故だったと説明された気がするが、俺にとっては突然いなくなったと同じだ。ある日突然いなくなって、みんなが泣きながら寄り集まってお経を上げて、小さな白い箱になって、黒い位牌になった。悲しくなる暇もなくいろんなものが変わって、毎朝線香を上げて手を合わせるのが日課になった頃に唐突に悲しくなる。それすら慣れて、遊んで、バカみたいに笑って、音楽に浸って、悲しみなんて忘れて暮らすほんの隙間に「そういえば死んだんだった」と、懐かしさを込めて思い出す。

 先輩のキレイな笑顔は、懐古の表情だったんだな。

 勝手に後悔に浸る俺の頭にぬるい体温が寄り添った。


「坊は優しいのじゃな」


 小さな手が頭を撫でている。なんで俺が慰められてんだよ。片手が両手になって抱き寄せられた。俺と先輩は頭一つ分くらいの身長差があるから強制的に屈ませられる。

 ちょっ! まて! これ――――!?

 たどり着いた先は柔らかい谷間だった。この人なに考えてんだよ!? さっき会ったばっかりの男にやることじゃないだろ!? 痴女!?

 しかも逃げだそうと頭を起こすが思わぬ力で抱き寄せられて鼻先が埋まる。柔らけえ。ぬくい。すげぇいい匂いする。甘ったるい匂いじゃなくて、森の中の小川で新鮮な空気を吸った時のような気分だ。


「もう大昔のことじゃから気にすることはないのじゃ。泣き疲れるほど泣いて飽きるほど悲しんだあとじゃ。ワシなりの弔いも済ませたのじゃ。思い出しても懐かしさしかないのじゃよ」


「……アンタ、そいつのこと大好きじゃん」


 柔らかく耳に触れる声に笑顔と同じくらいの感情が溢れていた。音楽をのせればきっと切なくてキレイなラブソングになる。


「そうじゃな、大好きじゃよ」


 一つしか歳は違わないはずなのに、ひどく大人っぽくて悟りきった言い方だった。こんな風に過去の好意を語れる人だから俺を子供扱いするんだろうな。抱き寄せたのだってきっと母性でしかないんだろう。

 本当に赤ん坊だったころには母親に抱っこされていたんだろうけど、いなくなってからは女の人に抱きしめられた記憶はない。ばあちゃんはいつも傍にいてくれたが頭を撫でてくれる程度の接触だった。

 男としてのプライドとかどうでもよくなって、俺は先輩に頭を預ける。


「それでも、ごめん。無神経なこと言った」


 柔らかな肉を通して潜めた笑い声が響いてくる。


「よいのじゃよ。久しぶりに思い出したのじゃ。たまには思い出してやらないと彼のお人も拗ねてしまうのじゃ」


 そういうもんかもな。父親と母親も、俺に思い出されるのを待っていたりするんだろうか。

 体を起こす。今度はムリに抱き寄せられることもなく、凶悪で優しい谷間から離れられた。せめてもう一つボタンを留めていてほしかった。顔を見合わせられる角度になっても先輩の両手は俺の頭に掛かっていて、耳の辺りやら後頭部辺りの髪を撫でつけている。セットしたのが崩れるだろうが。


「坊も、彼岸のお人を思う気持ちを知っておるのじゃな」


 ふんわりと微笑まれて赤に釘付けになった。陽だまりみたいに優しい色がまぶしそうに俺を見ている。まぶしいのはこっちなのに、この表情を見られるなら、それならそれでいいか、とすごく肯定的な気分になる。


「俺は――――」


 無意識に浮かんできた言葉を口走りそうになった瞬間、ブレザーのポケットに入れていたスマホが震えた。

 条件反射で取り出すと画面には後輩の風波伊音かぜなみいおんからの着信が表示されている。大概はメッセージで済ませる奴からの珍しさになにも考えず通話を許可する。


「先輩、とりあえずカーテン閉めたほうがいいと思います」


 もしもし、すらなく告げられた言葉に一瞬思考が停止する。次の瞬間でなにかに引っ張られるように窓を見た。正確には、窓の向こうにある対岸の本校舎を見た。

 こちら側から見えるのは本校舎の廊下だ。いつの間にか朝のホームルームが終わって移動教室の連中が歩いている。中庭を挟んでいるとはいえほぼ同じ構造の本校舎はそこにいる人物の判別がつくくらいの距離だ。要するに、本校舎の廊下を歩く風波から部室にいる俺が見えているということだ。軽音部は一年の階と同じ階にある。

 スマホを構えた奴と視線がしっかりあう。癖の強い長い前髪に黒縁眼鏡という野暮ったさ全開で顔の半分が隠れているというのに、視線が! あった!

 風波は教科書類を抱えてこっちを見ている。周りの奴らは風波を素通りしていく。初対面のときにいじめられてたけど、まだ友達いないのか? いや、そうじゃなくて。

 対する俺は、部室で女子の先輩と二人きり。しかも先輩は俺の頭を撫でている。でもそんなこと、本校舎から見たらキスでもしそうな構図に見えるんじゃないか?


 咄嗟に俺はカーテンを引いて通話を切った。

 しまったあああああああ! 言い訳すら出来ない! ってかこれじゃやましいことしてますよって肯定してるようなもんじゃねえか!


 間髪入れずにスマホの画面に通知が出る。軽音部のグループ宛に風波からのメッセージだ。曰く、「部室で先輩が彼女とイチャついてます!」やめろおおおおおおお! 風波! てめえなんてことしてくれてんだ!


「逃げよう」


「はや?」


 先輩の腕を掴み入り口に向かいかけるがそこには女の幽霊がいる。


「ひいっ!」


 早くここから逃げ出したい。でも怖い。入り口からはなぜか入ってこないがただただ佇む女が怖い。顔の半分は崩れているし手足は捩れていて絶対立っていられる形じゃないのに立っている。現実ならあり得ないのに視界にはいる。状況の異常さと自分への不信感で二重に怖い。


「なにをしておるんじゃ坊。話しかける気になったかや?」


「ならねえよ! でもここから逃げないとヤバいんだよ!」


 風波のメッセージから沈黙を保っているスマホも怖い。正確に言うと、メッセージを返信せずにいる他のメンバーがなにをしでかすかが怖い。軽音部だけにやたらノリはいいのだ。そして行動力もある。


「なにやらわからぬが、出たいのならば楽譜を書くのじゃ」


「なんで!?」


「問答しておる場合かや? ほれ、とにかく弾き飛ばすような音がいいのじゃ。誰も近寄らせぬ感じの強烈なやつじゃ」


 言われて最初に頭に浮かんだのは、初めて行ったライブで吹き飛ばされそうになった曲だ。海外のロックバンドの日本公演チケットを礼兄が手に入れてくれて、俺は体を芯から震わせるサウンドに興奮して、感動して、狂ったようにリピートして練習もした曲。初心者向けじゃなくて、できなさすぎて泣いた思い出もある。


「コード譜でいいのか!?」


「坊が理解できて勢いが伝わればなんでもいいのじゃ」


 五線譜にコード名だけを書き付ける。別にこれを見て誰かと共有する訳じゃないから一番強烈なフレーズを抜き出した。

 書いている途中で足音が聞こえる。確実に走って近づいてくる。


「おらあ! いぬい! 授業サボってなにやってんだてめえ!」


 響いてきたのはドスの利いた部長の声だ。やっぱりこうなるのかよ! おとなしく授業に出ててくれよ受験生!


「まずいのう、ご婦人と接触してしまうのじゃ」


 本人に見えていなくてもそれは俺が嫌だ。気分的になんか嫌だ!


「書けた!」


 横から先輩がコード譜を抜き取る。


「弾くのじゃ!」


 こうなれば先輩に従うまでだ。俺はギターを構える。先輩はコード譜を持って走り出した。


「止まるのじゃ! 近づいてはいかんのじゃ!」


 先輩が叫ぶのと俺が最初のコードを鳴らしたのは同時だった。女に突っ込んでいった先輩は崩れた顔面にコード譜を押しつける。女の体が仰け反って、先輩の体も勢いのまま廊下に飛び出した。床に倒れ込む寸前で女の姿は煙みたいに形を失って消え、コード譜は空中で突然燃え上がり塵も残さず燃え尽きた。


「おわっ!? あ、朝香さん!?」


 書き付けたコードを弾き終わると全てがキレイさっぱりなくなっていた。呆然と先輩を見る。翻ったスカートを直し廊下に悠然と立つ姿が格好良すぎてもう一フレーズ弾きそうだったが、部長の姿が見えて一気に熱が冷めた。


 坊主頭のしかめ面。やたらいいがたいが威圧的なドラム担当の軽音部部長。三年の松本法弦まつもとのりつる先輩だ。元野球部で声もでかい。俺と並べば十中八九不良認定されてケンカを売られる人相だが、タバコもケンカもしなければ校則違反もしていない。真面目な部長がポカンと先輩を見ている。

 二人が並ぶと先輩が余計小さく見える。


「おはようなのじゃ、松本くん」


 先輩が何事もなかったかのように挨拶を繰り出す。


「お、おはよう。朝香さん」


 部長のしかめ面が力をなくしてデレている。ほ~ん、部長はそういう感じですか。美人で小動物系。まあ、気持ちはわかる。

 脅威であった部長は先輩というバリケードに阻まれて部室に入ってこられない。これはチャンス! 俺はギターケースと鞄を放棄して走り出した。廊下に飛び出し先輩の腕を掴む。


「今のうちに逃げるぞ先輩」


「およよよよよ!?」


 先輩の体勢が崩れるが細っこい体は軽いから半分抱きかかえるように走った。部長から逃げて廊下の奥に向かう。本校舎とは部長が走ってきた側の渡り廊下でしか繋がっていないが、廊下の奥には中庭に出られる外階段がある。


「くっふふふふふっ」


 体勢を立て直して半歩後ろを走り出した先輩が笑っている。振り返ってその顔を見たい気もするが、見たら足が止まりそうなので引っ張る手に力を込めて耐える。


「なに笑ってんだよ」


「なにやら楽しいのじゃ」


「全然楽しくねえよ!」


 いや、正直ちょっと楽しい。さっきまではこの世の終わりぐらいに怖かったけれど、なにがなにやらわからないうちに会ったばかりの先輩と部長から逃げている構図は案外悪くない。

 ぶつかる勢いで外階段への扉を開けて駆け下りる。このまま中庭に出られれば裏門から外に出ちまえばいい。その先は何も考えていないけれど、まあなんとかなるだろう。

 けれど、そうはうまくいかなかった。


志紀しき~、み~つけたっ」


 外階段の下から幼なじみの吾妻羽智あずまはちが昇ってきた。高身長の男前、ベース担当、軽音部の屋台骨。同じ歳で実家は隣同士。小さい頃からほぼ同じ物を食べてきたのにやたら縦にでかくなり、そのくせ表情はおっとりとした笑顔がデフォルトの穏やかで気の優しいモテ男だ。なにより俺を俺よりよく知っている。口数は多くないが周りをよく見ているから、部長の突撃から俺がどう逃げるのか読んで先回りしたんだろう。こいつは俺が幽霊を見て逃げ込んだ先にもちゃんと迎えに来てくれる。羽智が俺を見つけられなかったのは神社でのかくれんぼの時だけだ。


「乾っ、神聖な部室に、よりにもよって、あ、あ、朝香さんを連れ込むとはどういう了見だ? ああ? きっちり説明しろや」


 口調が俺よりヤンキーなんだよな~。

 それなのに先輩を呼ぶところだけどもるから可愛く思えてくる。先輩って朝香って名前なのか。そういやお互い名前も知らないままじゃね?


「連れ込んでねえし、ただの部室が神聖なわけあるか」


「オレは志紀の彼女を見に来たんだけど、紹介してくれる?」


 風波が、「吾妻先輩って属性がオカンですよね」って言っていたのが今ならわかる気がする。なんで授業サボってまで俺の彼女見に来てんだよ。あと彼女じゃねえよ。俺の代わりに先輩の死んだ彼氏に謝れ。


「ワシは坊の彼女になったのかや?」


 うん。先輩はちょっと黙ってて。あと腕に抱きつかないでください。当たってるから。すっごく柔らかいものが当たってるから。


「お、お、お、おまっ! 乾! てめえ――」


「こら軽音部! もう授業始まってるのになにやってんだ!!」


 中庭を貫通した怒声が耳をつんざいた。先輩が「はわわっ」と奇声を発してびくついている。背後から舌打ちが聞こえ、階段下の羽智は苦笑して「あらら~」と、おっとり困っていた。本校舎の廊下の窓から顔を出した教育指導の男性教師は片手に風波の首根っこを捕まえている。物の見事に軽音部が全員捕まったようだ。

 そこでふと思う。

 外階段には壁がある。転落防止なのか風よけなのかまっすぐ立てば俺の胸ぐらいの高さの壁だ。俺に引っ張られて姿勢を低くし、今は腕に抱きついている先輩の姿は教師からは見えないんじゃなかろうか。


「先輩、このまま隠れて教室行けよ」


「はや? でもあそこに先生がいたのではどこに行っても見つかってしまうのじゃ」


「あれは俺たちを追いかけるんだから大丈夫だろ」


 羽智は俺を見上げてにっこり笑った。階段を駆け上がる。部長も出てきたばかりのドアに飛び込んだ。


「逃げるんじゃない軽音部! 活動休止にするぞ!!」


 教師が「軽音部」と、連呼すればするだけ先輩の存在は薄くなるだろう。好都合だ。


「じゃあな、見つかるなよ!」


 俺たち三人は元の廊下に戻り部室の前を素通りして渡り廊下に向かう。


 部室の入り口に陣取っていた女の姿はやはりどこにもなかった。


 正面から教師が走ってくる。まあ当然だわな。三人揃って回れ右して来た廊下を引き返し部室に飛び込む。ドアに鍵を掛けて籠城だ。


「乾、てめえあとできっちり聞かせてもらうからな?」


 なんやかんや籠城にまで協力してくれて、いい部長だよ本当。人を殺しそうな人相の悪ささえなけりゃ惚れていたかもしれない。


「なんかこういうの楽しいね~」


 俺の奇行に慣れきっている羽智は教師が叩いて揺れるドアもどこ吹く風で笑っている。強い。俺の幼なじみマジで強い。


「あ~まあ、俺もちょっと整理できてないんで、一旦持ち帰って検討します」


「出てこい軽音部! なんの悪巧みしているんだ!」


 授業サボってるのはこっちの非だがそれイコール悪巧みなのかよ。そういやこの教師、軽音部は遊んでいるだけで部活動とは認めないとか言ってた気がするな。もうちょっと閉じこもってるか。俺はワイヤレスのアンプを引っこ抜き部室に設置してあるアンプにシールドを使ってギターを繋ぐ。ドアを押さえていた部長と羽智が揃って悪い顔をした。


 部室は、ホワイトボードがある前半分と使わないテーブルと机、椅子を積み上げた後ろ半分に分かれている。ホワイトボードの前にはドラムセットを始め、キーボードやらベースやら各種アンプ、スピーカー類がいつでも演奏できるようにセットされている。ちなみに、俺が逃げ込む定位置は入り口から一番遠い、テーブル類が積み上がったすぐ横、実質部屋の端っこである。いつもは俺の代わりにギタースタンドがそこにいる。ホワイトボードの前にもギタースタンドがあるので俺の普段の導線が察せられるというものだ。

 部長と羽智はドアを離れてホワイトボード前にやってくる。ドラムセットに座り、ベースを構える。演目も決まっていなければチューニングも出来ていないのに一斉に音を出した。爆音だ。ドアの外で一層怒声がヒートアップする。構わずでたらめな演奏を続けお互いの顔を見て爆笑した。


 その後、マスターキーでドアを開けられ捕獲された俺たちは教育指導室でみっちり絞られ、反省文を書かされ、三時限までの単位をまるっと落とした。こうなったきっかけは風波の余計なメッセージだったが、説教と反省文は完全にとばっちりだ。それでも風波は黙々と反省文を書いていた。文末に、「ボクも先輩達と演奏したかったです」と、書いて、それを褒めた俺たちは四人揃って反省文の書き直しを命じられた。


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