隣の席のゆるふわ女子は仕事ができない。

霜月このは

1. ゆるふわは仕事ができない

第1話

 キラキラの長い爪が、黒いキーボードをカタ、カタと不規則に鳴らす。綺麗に巻かれた茶色のロングヘアが揺れる。


 左隣の彼女が真っ直ぐに見つめる画面には、びっしりとデータの入ったExcelのファイルが開かれている。それを横目でチラリと見ると、私は自分の端末に視線を戻した。


「あっ……」


 突然、そんな不穏な声を発したかと思うと、次の瞬間、彼女は恐ろしい言葉を口にした。


「消しちゃった……」

「ちょ、ちょっと!!」


 慌てて画面を覗き込むと、真っ白になったExcelファイルがそこにあった。


「……戻せない? Ctrl+Zで」


 新卒でもない彼女に、どうしてこんなことを教えないといけないんだろう。


 だけど大丈夫、まだ一つ前に戻ることができれば、すぐに直るはず。そう思って言ったのだけど。


「え、戻らない、なんで……?」

「もしかして、ファイル一回閉じた?」

「……たぶん」

「多分って……」


 泣きそうな顔の彼女を、これ以上問い詰めても無駄だろう。


 私は深くため息をついたのだった。




 *




 私の左隣の席の円城寺莉乃は、本当に仕事ができない。


 先ほど、うちの課のとある共有ファイルのデータを全消ししたうえで上書き保存するという、今どき新卒社員でもやらないミスをやらかしたのがいい例だ。


 幸い、今回は私が、バックアップしておいたデータを探してきて復旧したから良かったけれど、いつかとんでもないことをやらかしそうで、ヒヤヒヤする。


「あの……山本さん」


 ため息をつきながら自分の仕事に戻った私のところへ、彼女がひょっこりと顔を出してくる。


「どうしたんですか? 円城寺さん、また何かありました?」

「い、いえ! 今は何もやってないです! ……あの、さっきはすみませんでした。もし良かったらこれ、どうぞ」


 円城寺は申し訳なさそうに頭を下げて、私に赤いパッケージのお菓子の袋を手渡してくる。何かと思ったら、チーズおかきだった。


「いいんですか? ありがとうございます」


 それは私の大好物のお菓子であった。


 せっかくなので、早速袋を開けさせてもらって、ぱりぱり言わせながらかじる。向かいの席の先輩女子社員から視線を感じたけど、気にしない。


 ああ、チーズと醤油味のバランスが絶妙で、ほんと好き。このままチーズと結婚してしまいたい。


 そんなことを思っている間に、先ほどまでの円城寺へのイライラはいつのまにか消え失せていた。


 まったく、餌付けとは、恐ろしい女だ。



 円城寺はうちの会社に一年前に入社してきた社員だ。転職歴は1回。これでも二十六歳で、私と同い年だった。


 私たちの会社は関東圏内に数店舗を持ち、主にメガネやコンタクトレンズの販売を行っている中小企業だ。私や円城寺はそこの経理課に所属していた。


 会計システムを入れる予算もケチるような会社で、いまだに仕訳はExcelで手打ちだし、大量にやりとりする帳票類は紙管理だ。


 その膨大な紙の帳票類のファイリングだとか整理だとかを、パソコン仕事の苦手な円城寺が行っている。他にもお茶出しや掃除なんかを担当しているようだった。


 一方、私の立ち位置は経理課の中では特殊で、いわゆる業務効率化のために新たに配置された人間だ。具体的にはみんなの事務仕事のためのツールの開発やメンテナンスを行っている。ExcelのVBAという言語でプログラミングをしていて、若干エンジニアっぽさもなくもない。


 だけど、IT企業でがっつり銀行システムのプログラミングをしていた前職に比べると、天国のようなぬるさだ。


 毎日深夜のタクシー帰宅を余儀なくされ、ブラック企業で馬車馬のように働いてボロボロになっていた私が、死んだ目をしながら転職活動をして、なんとか拾ってもらったのが今の会社で。前職よりも楽になるなら、年収が大きく下がろうが、キャリアダウンと言われようがどうでも良かった。


 だから文句など言える筋合いはないのだけれど。


 ……だけど、よりによってこんな女の、お守りを任されることになるなんて、思いもしなかった。


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