掌編小説・『BOOKSTAND』
夢美瑠瑠
掌編小説・『BOOKSTAND』
<…アーネスト・ヘミングウェイ風に>
私がその<MOCHA>というパリのモンマルトルにある珈琲スタンドに隣接した古ぼけた本屋<le Rouge et le Noir>に毎日通い詰めて、羊皮紙のノートに短編小説を書いていたのは1924年の春のことだった。
軒先から雪解け水のしずくが垂れて、キラキラと陽の光が反射する、あの美しい時節だった。
パリに居を構えて、詩人や画学生、正体不明のディレッタントたちと呑んだり騒いだりして、そうした一種特別な昂奮状態を創作のためのインスピレーションの源泉としようとしたのだ。
ちょうどゲーテがイタリアに旅行して、そのロマンチックな雰囲気から「ファウスト」の構想を得た場合のような按配を願っていたのだった。アイリッシュ・ウィスキーの生一本の焦げ臭い刺激臭と貴腐ワインの芳醇な濃厚な味わいがいつも翌日の昼頃まで舌に残っていたものだ。
「日はまた昇る」の印税がニューっヨークの出版社から振り込まれたばかりで、その金で私は情婦を囲っていた。パリジャンという人種、世界でも随一の芸術の都の申し子の典型ような、派手で美しい女だった。魅力的な瞳をしている、と思い込んでいたが、化粧を落とした顔はむしろ瞼がはれぼったい感じだった。
秋のパリはそれこそ「枯葉」というシャンソンが似つかわしい、独特の古雅な哀愁を纏っているが、春のパリは清新で、うきうきするような明朗さと華やかさに満ちている。ビバルディやストラビンスキーの交響曲「春」のレコードのジャケットに使えそうな優艶で柔媚な、匂いやかな風情だ。
ここで私は、愛人の不思議な癖のことを短編小説に書いた。
彼女はいつも夜明けの珈琲に蜂蜜とシナモンと、そして少量のコカインを混ぜるのだった。そうして覚醒作用と酩酊感のブレンドを楽しむのだと言っていた…
彼女の”酔い心地”を詳しくルポルタージュして、それを小説の中で実存主義風にまとめてみた。タイトルは「書肆『赤と黒』の片隅にて」にした。そうしてはしがきに「…J・P・サルトル風に」と添えた。
赤ら顔の本屋のおやじは「出版の暁には記念としてその小説を収録した短編集を『嘔吐』の隣に置いてほしい。…」という私の望みを快諾してくれたのだった…
<了>
掌編小説・『BOOKSTAND』 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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