あの日を超えて
香坂 壱霧
一・においと記憶
苦手な場所があった。
そこには嫌な記憶がある。その場所のにおいや空気が、私にはある意味、特別なものに感じていたんだろう。それは、嫌な経験のせいでもあった。
それを思い出したのは、あのショッピングモールに来たからかもしれない。
長い間、ここを避けてきた。避けるようにと言われてきたから。
* * * *
小学四年生の夏、家族でショッピングモールに買い物に行った。そのとき、私だけはぐれてしまった。
両親は、歳の離れた四歳の弟に気を取られていたんだと思う。弟は、活発で甘えん坊で、とても手のかかる子どもだった。私は、お姉ちゃんなんだからと我慢するのがあたりまえになっていた。
はぐれた瞬間、私がいないほうが両親は楽になるかもしれないと考えた。
『もしも迷子になったなら、一階のサービスセンターに行くのよ』と、教えられていたはずだった。すぐにそうしなかったのは、ショッピングモールに一人で居る事が、まるで冒険のように感じたからだった。好奇心もあったんだろう。
ポケットには、五百円玉が一枚あった。ゲームセンターに向かおうとした時、目の前に本屋が見えた。友達とのあいだで話題になっていた漫画を思い出し、私はコミックコーナーに向かう。その漫画の最新刊は見当たらない。しかたなく、ひと通りコミックコーナーを見たあと、少女漫画の月刊誌のコーナーを見てみようと思った。そこは本屋の角にあって、レジからは見えにくい場所になっていた。
棚の反対側には、少年誌の週刊コーナーがある。そこでは、何人か立ち読みをしている人がいた。気になる少女漫画の月刊誌が平積みされているのを見つけ、他の人と同じように立ち読みをしてみた。
いくつか話を読んでいると、隣に男の人が立っていた。その人も同じ少女漫画を手にしていたけど、特に何も思わずにいた。
読んでいたものを棚に戻してそこを離れようとしとき、「どの漫画が好き?」と、その人から話しかけられた。
「え?」
私は驚いて、その人の顔を見る。
「甲斐さんだよね。覚えてる? 甲斐さんが通ってる小学校で、去年まで音楽の授業と五年二組の担任していた石井。あと、甲斐さんがいた音楽クラブも受け持っていた
「はい、覚えてます」
石井先生は、学校の先生を辞めたと聞いていた。家庭の事情? だったかな?
「甲斐さん、一人で本屋に来たの?」
「親とはぐれてしまったんです。探そうと思ってたんだけど、漫画が気になってしまって、つい本屋に」
怒られると思って、ドキドキしながらそう言うと、先生は笑った。
「サービスセンター行かずに本屋かあ。親御さんを心配させるのは良くないけど、気持ちはわかるなあ。漫画、読みたくなるよね」
今は学校の先生じゃないから、大人らしい事が言えないんだよねとも言った。
「僕も漫画好きだからわかるよ。でも、サービスセンター、早く行かないとね。途中までついていってあげるよ」
先生の手にある雑誌の本のにおいが、鼻をツンとさせる。あの独特なにおいが、私は好きだったんだろうか。どうだったろう?
「大丈夫です。場所わかりますから」
なんとなく、先生の笑顔が気持ち悪く感じて、私はいそいでそこを離れようとした。
突然、先生の手が私の腕を掴む。
「大丈夫じゃないだろう? 顔色悪いじゃないか。先生がついててあげるから」
それまでの小声とは違って、大きな声だった。掴まれた腕は痛くて、目がうるんでしまう。
「どうかしましたか?」
何事かと、店員が声をかけてくれた。助かった、と思ったのも束の間──。
「大丈夫です。私は、この子の学校の担任なんです。親御さんが探しているので、連れて行くところです」
「ああ、そうなんですね。それなら良かったです。よろしくお願いします」
周りにいる人たちの注目を浴びながら、私は先生に腕を掴まれたまま歩く。先生に引っ張られながら、私は震えて声が出せないままだった。
気持ち悪くなりながら、先生に連れて行かれたのはサービスセンターではなく、駐車場だった。
私は先生の車の後部座席に乗せられ、腕をビニールテープできつく縛られてしまった。車の中には、ビニールテープや、はさみ、ガムテープ、ゴミ袋、大きめの箱があった。涙で滲んではいたけど、しっかり何があるかを見ていたのは、お母さんが見ていた刑事ドラマの影響かもしれない。大きめの箱は、お父さんが持っている工具セットに似ていると思った。
「先生、どこにいくんですか」
恐怖を押し殺して、私は聞いた。
「どこだろうね」
そう言われてすぐに、目隠しされたせいでどこに向かったのかわからない。それまでの経過の記憶も、曖昧な部分がある。
車から降りて着いた時、先生の部屋には私より年上の女の子がいた。年齢は十四歳。名前はアヤメさん。家出して、先生と暮らしてるんだと言った。
先生の家は、三つ部屋があって、トイレとお風呂は別になっている。
私とアヤメさんの着替えは、先生とアヤメさんが買いに行くと言った。アヤメさんが大人っぽいメイクをして、子どもに見えないようにするらしい。
メイクをしたアヤメさんは、ドラマに出てくる女優さんみたいに綺麗だった。先生の家は、先生とアヤメさんが使う香水のにおいの記憶が強い。
どうやら、私はアヤメさんの話し相手として連れてこられたようだった。
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