フォークボール(ウチの三姉妹外伝)

@sakura-nene

第1話 プロローグ 終わりの暴投

 どれだけ暑い夏だっただろうか。八月に入り、夏の甲子園大会予選も終わり、県営の野球場は高校生の場から中学生の場へ移っていた。


 行われているのは県大会の準決勝二試合目。真昼を過ぎたあたりから太陽は頂点に達し、気温は三十度を優に超えていた。グラウンドでは中学生たちが滝から落ちるような汗をかきながら、その試合を続けていた。


 スコアボードを見るとゲームは六回の裏。点数は○対二。今攻撃のチームが勝っていた。


 県大会とはいえ、中学生の試合なので観客席は見事に空いている。いるのは選手の家族と惜しくもベンチには入れなかった部員の応援団。あとは一部の新聞記者やスカウトに来ていた高校の監督くらいだった。


 それでも、高校の監督は十校近く来ていた。決勝戦ではなく、準決勝であるのに、だ。その理由としては今勝っているチーム。彼らは去年の秋大会で関東大会準優勝をし、今年の春の大会では全国大会に出場し、ベスト八。一躍千葉県のトップに躍り出たチームだったからだ。


 彼らの中学校は私立というわけでもない。ただの市立中学校だった。三年生は五人、二年生が七人、一年生がその成績を知ってようやく十二人入ったぐらいだ。去年まではベンチ入り枠が余っているほどの、普通の野球部だった。


 そこまで強くなった理由は何よりもバッテリーの存在だった。三番・四番を任される打力もさながら、彼らバッテリーは本当に点を与えない。


 防御率一点台。完封試合も十一回。ノーヒット・ノーランも記録していた。いくら中学校野球が一試合七回までとはいえ、これは驚異的な数字だった。二点取ってしまえば、ほぼ勝てるのだ。


 球速は最速134km/h。球種もスライダーにスローカーブ、フォークボールと揃っていて、隙のない投手だった。


 捕手も勘が良いのか相手への観察眼が秀でているのか。相手が嫌うコースを的確に指示し、その通りに打ち取る。盗塁阻止率も七割と、かなり高水準だった。


 彼らの打力も全国クラスだった。三番で投手の少年は全国大会で打率四割。四番で捕手の少年は打率ほぼ五割で三ホームラン。確実にこのチームの要だった。


 今、三番の少年が打席に立っていたが、相手投手の制球が乱れており一球もストライクが入らなかった。暑さからの疲れか、先発していた相手投手は結局コントロールが安定せず、四球で歩かせていた。


 二点を取っているとはいえ、点が多いに越したことはない。そして次は全国大会で打率ほぼ五割を残した四番の少年だ。追加点のチャンスである。


 四番の少年は左打席に立つ。この暑さの中で一切集中力が途切れていなかった。ストライクゾーンに入って来れば長打が期待できる。それくらいのベストコンディションだった。


 初球。そんな打者の少年の気迫に負けたのか、大きくボールが逸れた。捕手がボールをこぼすことはなく、そのまま返される。


 それを見た走者の少年は、少しでも逸れたら走れるようにリードを大きく取ることに決める。今の一球を見る限り、チャンスを広げる隙だったからだ。


 次の一球に移るためにセットポジションに入り、一塁走者を見て一秒待ったかどうかのタイミングで牽制が入った。プレートから右足を外すのが遅かったため、走者は帰るのが数コンマ遅れた。


 そのため、ヘッドスライディングで戻っていた。まだそんなにリードしていなかったのだが、間に合わないと判断したのだ。


 その判断はある意味正しかったが、ある意味では悪かった。牽制のボールも逸れて、走者一直線に飛んできたのだ。それが背中の上を通過していくため、直撃はなかった。


 だが、そのボールを取りに行った一塁手が跳んで着地しようとした先に滑り込んでいた走者がいた。足は走者の右肩に乗り、そこでバランスを崩して倒れていた。


「がっ⁉」


 中学野球で用いられるスパイクの裏は金属製である。そんなもので踏まれて、無事で済むはずがなかった。


 だが乗られたことなんて気にしなかった走者の少年はボールが逸れて外野を転々としているのを見て起き上がった。のだが、塁審が大きく手を広げていた。


「ボーク!」


 ボークが宣言された。投手の過失ということで無条件に進塁が認められる。今回の場合はセットポジションになって一秒以上の待機がなかったことによるボークの通達だ。だが、塁審は走者の少年を見てルールに則る前に進塁しようとするのを引き留める。


「君!肩から血が出ているじゃないか⁉」


 少年は気付いていなかったようだ。言われてから踏まれた肩へ目線を送ると、ユニフォームに血が滲んでいるのが見て取れた。


 監督と選手が一人飛び出してくる。その手には救急箱が持たれている。


「え、あ……」


「痛みは?ちょっと上脱いで!」


「いや、あの……。痛みはないので止血すれば大丈夫です。たぶん……」


「痛みがない⁉佐竹さん!担架と救急車要請して!」


 塁審は主審の人へそう叫ぶ。主審はすぐにバックネットへ行き、電話を取り出してどこかへかけていた。


 そして野球部の顧問である芦屋監督がようやく着く。


「市原!痛みがないっていうのはホントか⁉」


「はい……。だから大したことないと思うんですけど……」


「バカヤロウ!神経が痛んでるかもしれない!すぐに下がれ!止血するぞ!お前はこんなたかだか県大会ぐらいで潰れる選手じゃないんだよ!甲子園出たり、プロになる選手なんだ!取り返しつかなくなる前に病院に行くぞ!」


「神経……?」


 産まれてこの方、市原と呼ばれた少年は怪我をしたことがなかった。それだけの健康良児だったのだ。だから神経を痛めているということが理解できなかった。


 血を出すのも久しぶり。そして成長痛やちょっとした痛みを感じることは日常的にもあったが、同じ中学生の、しかも背が高い人物に乗られても痛みを感じなかったために大したことがないと思い込んでしまった。


 その健康さこそを、芦屋監督は嘆いた。


「鈴原!次の回投げるから準備急げ!市原、歩けるか?ひとまずベンチに下がるぞ」


「……はい」


 痛みが全くない。だというのに試合に出られない。これ以上投げられない。それが気に喰わなかった。まだ投げられそうなのに、自分のスタミナやチーム事情などではなくあのマウンドから降りなくてはいけないだなんて。


 一緒に来ていた後輩の北泉と一緒にベンチへ戻る。その前に監督はベンチの上にいる市原の両親に事情を伝え、病院へ連れていくために一度球場の外に出てほしいと告げていた。


 そこで一人の少女、高校生くらいの女の子が観客席のネットにしがみついて打席に入らず様子を見ていた打者の少年へ叫んでいた。


「涼介!ここでできるだけ点取りなさい!そんで全国まで残ってもう一度、ヒロ君をあんたらのチームのマウンドに立たせなさいっ‼」


 その言葉に涼介と呼ばれた打者の少年は力強く頷く。


 市原はベンチに来ていた球場専属のメディカルトレーナーに止血してもらい、球場まで来ていた救急車に家族と一緒に乗って病院へ運ばれていく。


 ドアが閉まる瞬間。心地の良い金属音が球場で響いた。その打球がどうなったかはわからない。


 だが、結果としてその試合は六対五で敗れた。市原がその中学校のチームで、マウンドへ立つことは二度となかった。


 そして、それ以降彼は、中学を卒業するまでボールを投げることも叶わなかった。

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