本の虫への処方箋

卯月 絢華

スランプに効く本

 西宮にしのみや夙川しゅくがわ沿いに、苦楽園くらくえんという高級住宅街がある。春は桜の見物で賑わうが、基本的にはとても静かな場所で、北に甲陽園こうようえん甲山かぶとやまが見える。

 そんな苦楽園の片隅かたすみに、小さな書店があった。看板には色せた文字で「さくら書房」と書かれており、店の前では野良猫が気持ちよさそうな顔をして眠っている。


 ある日、さくら書房に、ある男性が訪れてきた。

「あのー、ここが『さくら書房』でしょうか? 僕の名前は朝倉十三あさくらじゅうそうと申します。あなたが清荒神澄子きよしこうじんすみこでしょうか?」

 中には、赤縁あかぶち眼鏡めがねをかけた若い女性が店番をしていた。恐らく、さくら書房の店主なのだろう。

「はい。私が清荒神澄子です。この店に何の用でしょうか?」

「僕、小説家なんですよ。でも、最近スランプに陥っちゃって……。スランプに効く本って、無いんでしょうか?」

「ありますよ」

「そうですか! いやぁ、ありがたい。それで、どんな本なんですか?」

「その前に、あなたに確かめたいことがあります。あなたは『正気しょうき』を保てていますか?」

「正気ですか? 僕は至って正気ですけど」

「この本を読んでも、正気を保てる覚悟はありますでしょうか?」

「?」

「今からあなたに処方する本は、スランプには効くかもしれませんが、読んだ後に正気を保てる保証はありません」

「なるほど……」

「薬には副作用があります。それは本でも同じです。『良薬りょうやく口に苦し』っていう言葉はご存知ですよね」

「知っていますけど……何か関係があるのですか?」

「恐らく、関係あると思います。本をお出ししますので、少しお待ち下さい」

 そう言って、店主は本棚の奥へと入っていった。それにしても、この書店にはありとあらゆる本がみっしりと詰まっている。とある妖怪小説家は資料集めのために大量の本を蒐集しゅうしゅうしており、本棚にまとめていると聞いていた。さくら書房には、その妖怪小説家にも負けないぐらいの本が本棚にみっしりと詰まっていたのだ。そして、本棚の中央には柱時計が掛けてあった。カチコチと鳴り響く柱時計の秒針びょうしんの音。その音は、心臓の鼓動と同調するように落ち着いて聞こえた。

 棚の奥では、店主の声が聞こえる。恐らく本を捜しているのだろう。

「えーっと、確か……これか。随分と古い本だけど、読んでもらえるかしら」

 数分後、店主は客の元へと戻ってきた。そして、骸骨がいこつのイラストが描かれた表紙の本を客に手渡した。

「スランプに効く本といえば、これでしょうか」

 表紙には「説小偵探奇怪魔幻 ラグマ・ラグド」と書かれていた。

「これは……」

「これは、夢野久作ゆめのきゅうさくの奇書、『ドグラ・マグラ』です。名前ぐらいは知っているでしょう?」

「し、知っていますけど……これがスランプに効くのですか?」

「はい、恐らくスランプに効きます。しかし、読んだ後に正気を失うかもしれないという副作用も持っています」

「分かりました。それで、いくらで譲ってもらえるんでしょうか」

「そうですね……一応、無償で差し上げましょう」

「良いんですか? こんな貴重な本」

「良いんですよ。ただし、私に約束してください」

「約束?」

「もしかして、僕の作品を読んでくれているんですか!?」

「ええ。あなた、インターネット上で推理小説を連載しているでしょう?」

「はい! 確かに連載しています」

「面白いですよ、『嘲笑う死体』」

「僕の小説を読んでくれる人なんて、いないと思っていました」

「あなたには、伸びしろがあります。その伸びしろを、どこでも良いので出版社にぶつけるのです。そうしたら、きっとあなたを認めてくれる存在がいるかもしれないですよ?」

「そうですか。僕、あなたから勇気をもらっちゃいました。なんだか頑張れそうな気がします」

「それは結構。そろそろ閉店の時間ですので、私はこれでおいとまいたします。新人賞、頑張ってくださいね」

「ありがとうございます!」


 それから、朝倉十三は見事溝淡社の「ファウスト賞」を受賞。そしてプロの小説家としてデビューすることになった。今では売れっ子小説家で、「本屋大賞」にもノミネートされることが多くなった。その努力の裏にさくら書房が関わっていたかどうかは分からないが、少なくとも彼の支えになったのは事実だろう。(了)

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本の虫への処方箋 卯月 絢華 @uduki_ayaka

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