第13話 風呂場にて
「あー……、…………」
風呂に浸かりながら千彰は風呂の縁に後頭部を乗せ、からだを大の字に湯に浮かべた。
鶻業はあのあとすぐに帰ったが、千彰の脳には彼との対話がこびり付いて離れないでいる。
──それにな千彰、本気出せば勝てるってのは、負け犬の遠吠えにもならねぇよ。
お前が言ってるのは、自分の手を汚したくないって甘えだ。ガキじゃねえんだ。試合だろうがなんだろうが、殺意ぶちまけないで闘おうって魂胆が許せねえ。
「わかってるよ、そんなこと」
自分が人の姿をした相手に気後れしてしまう理由に、千彰は心当たりがある。
十年ほど前、祖父から剣術の稽古をつけてもらっている時に、祖父に酷いケガを負わせてしまった。
よくあることだと祖父は豪快に笑っていたが、退院して間もなく千彰の前から姿を消した。
百恵がしてくれた話によると遠方で強い妖魔が現れたから、その討伐の手伝いに行ったと聞かされている。が、十年経ったいまでも帰ってきていない。
『あのひとのことだから、そのうちふらっと帰ってきます。きっと』
百恵は気丈に言うが、千彰は、自分がケガをさせたことが帰ってこない遠因になっているのではという思いが消えない。
鶻業や百恵にこの思いを話せばきっと、お前の驕りだと一喝されるだろうが。
「こんばんは千彰くん」
足下からの声に、まだ思考の海をさまよっていた千彰の脳はうつろな返答をする。
「お悩みのようですが、わたしでよければお力添えしますよ」
女だ。
そしていま自分がどこでどんな格好をしているのかを、思考の海から上昇し始めた脳が思い出していく。
「っ?!」
ざばっ、と音を立てて千彰はからだを起こす。
「やっと見てくれましたね」
斑目トワ子が、そこにいた。
「お、おまえ、な、なんで」
千彰が動揺するのも無理からぬこと。
トワ子は一糸まとわぬ姿でそこに立っているからだ。
「だってお風呂ですよ? 服を着ているほうがおかしいでしょう?」
あごに手を当ててくすくすと笑う。空いている手はからだを隠そうともせず、からだの横に添えられているだけ。
「あ、あ、あほか!」
なにか言わなければ、と思いつつも動揺でうまく回らない頭は一番手近にあった単語を投げつけ、千彰は背を向けて湯船の中で正座してしまう。
「あほとはなんですか。当たり前の格好をしているだけだというのに」
「羞恥心とかはないのか!」
「衣服を脱げば裸になる。そんな当たり前のことになにを恥じらうというのです」
腰に手を当てて鼻息を荒くするトワ子だが、背を向けている千彰には気配ぐらいしか感じ取れない。
隠す気がないというのなら、もうそのことへの説得は諦めて、湯船に座り直して背を向ける。
「もういい。なんの、用だ」
「ああ、いけません。失念していました」
殺気。
針のように研ぎ澄まされた殺気が千彰の背中を貫く。考えるよりはやく湯船から飛び出し、浴槽のすぐ脇の床を思いっきり踏みつける。その反動で床板が持ち上がり、その奥から細長いなにかが飛び出してくる。
脇差しだ。
右手を伸ばして柄を逆手で掴み、振り返りながら抜刀。そのまま首筋へ刃を押し当てる当てる。
すっ、と薄皮が切れ、赤い筋がトワ子の柔肌を伝って落ちる。
「何の用だ」
殺気を受けたからだろう。全裸の女性に密着しても、自身の全裸を晒しても恥ずかしさはもう感じない。
「お優しいこと」
壁や柱に背中を押しつけることもせず、足を踏みつけることもしていない、ただ刃を当てただけのトワ子は流れ落ちる血も厭わずそっと千彰を抱きしめる。
「ではこれより、我が主の御前に招待します」
「な、ちょっと待て」
「此度はすぐ連れてくるよう厳命されています。ご容赦を」
自らの腰に回るのは女の細腕、それなのに振りほどけない。
「あまり動かないでください。生き帰りの道しか知らされていないので」
ささやかれた直後、千彰は浮遊感に似た感覚を味わい、意識を失った。
「手合わせ? なんでさ」
話題はいつの間にか明香梨が千彰と試合をやりたいという話しに変わっていた。
すずめに遅れて風呂を終えた明香梨も、おそろいの水玉模様のパジャマに着替え、木製のボウルに煎餅やクッキーやらの菓子を山盛りに詰め込んで談義に彩りを添えている。
「だって、すずめが言うみたいに本当に強いのか確かめたいし」
「……剣士のひとって見ただけで強さが分かるんじゃないの?」
訝しむすずめに、明香梨はあははと笑う。
「そんなのもっと達人クラスのひとがやれることよ。そりゃ剣術やり始めたひととかなら分かるけどね」
ふうん、と返して勉強机からスマホを取り、
「いちおう連絡してみるね。……たぶん嫌がると思うけど」
苦笑しつつ千彰の番号を、と思った直後、着信が入る。画面には「百恵さま」の文字。
居住まいを正し、こほんと咳払いをして通話ボタンを押す。
「はい、すず、」
『ああ、わたくしです。よかった。すずめさんは無事なのね』
名乗りに割り込まれ、しかも狼狽した声音の百恵に、すずめは気を張り詰める。
「どういうことですか」
『千彰さんが、千彰さんがいなくなったのです』
千彰は無口な方だが、出かけるときぐらいは百恵にひと声かけていく。
それがなかったということは。
「そんな。だって」
『ええ。妖魔避けの結界は破られていません。なのに、お風呂場から、いなくなっているのです』
意味が分からない。
桜狩邸に張られている結界は、未熟な自分が組んだものではなく、祖母のひばりが組んだもの。妖魔の侵入や攻撃にも耐えられる頑強な構造だ。
「ひばりさまの結界をすり抜けるほどの妖魔……?」
あり得ない。
あってはならないことだ。
深く深く考えて、そうか、と思い至る。
「一度そちらへお伺いします。警察は妖魔相手にはアテにできませんが、人間相手ならば別です。連絡をお願いします」
『そ、そうね。相手が人間の可能性だってあるものね』
「はい。結界は人間相手には効力がありませんから」
それは事実だ。
だがすずめも百恵も、犯人がただの人間だと本気では考えていない。
いくら入浴中だとはいえ、鬼と間違えられることもある体格と、妖魔を相手取る体術を持つ千彰を、なんの痕跡もなく連れ去れるような連中などどこにいるというのか。
警察云々は百恵を落ち着かせるためについた方便のようなもの。
「では、一旦切ります。なにかあったらすぐ連絡してください」
百恵の返事を待って通話を終え、長い息をひとつ。
「いなくなったの?」
「うん。聞く限り連れ去られたみたい」
「……わたしも、行っていい?」
「行っても千彰くんはいないよ?」
「でも、あの女が絡んでると思うから」
言われ、何度か瞬きし、
「うん。そうだね」
一瞬で狩衣に着替えた。
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