第7話 鋏臈

 明香梨とすずめがかしましく下校の準備をしていたその頃、千彰は通学鞄片手に帰路についていた。

 妖魔討伐の仕事をやっている千彰だが、普段はただの高校生。鬼と見紛うほどの体躯の彼が帰路で思うことと言えばきょうの夕飯のことやコンビニで買い食いをしていこうかどうか、という程度。


「もうじきコンビニも閉まるしな……」


 陽が暮れれば妖魔が跋扈する野穂の地で、夜間営業を行う店舗はまずない。

 平均すれば十八時に閉店するため、剣士でも陰陽師でもない生徒が放課後に買い食いするのは命がけだ。


「まあいいか。きょうはカレーだって言ってたし」


 自他共に認める料理百般の百恵が作る料理はどれも絶品だ。隠し味にヨーグルトが入っているあの味を思い出し、千彰はこのまま帰宅することを決めた。

 一歩踏み出したその視線の先に、ひとりの女性が佇んでいた。

 灰色を基調とした生地は朱で斑点がいくつも打たれていて、どこか妖艶な雰囲気を醸し出している。

 両手をそっと前で重ね、ややうつむき、まぶたも艶っぽい唇も閉じている。黒髪を後ろでお団子にまとめ、ヒマワリのかんざしが通されている。

 年齢は大学生ぐらいに見えた。

 知らない女性だった。

 なにより、なんでこんな時間帯にこんな路地に、と疑問に感じた。


「あの、もうすぐ妖魔が出始めます。よその町から来られたのでしたら、はやく帰っ

たほうがいいですよ」


 親切心からそう伝えるも、女性は目を閉じたまま薄く微笑むばかり。

 まさか盲いているのか、あるいは聾しているのか、とも思ったが白杖などは見当たらない。

 そうこう考えているうちに太陽はもう夕陽へと変わりつつある。


「ええと、ぼくは剣士です。なので安全な場所まで護衛しましょう」


 腰の刀を鳴らして剣士であることを示し、優しく声をかける。


「うふふ。本当にお優しいこと」


 微笑みながら顔をあげ、開いた瞳は暗灰色。ちり、と千彰の記憶の断片がうずいたが、いまはそれどころではない。


「ですがご安心を。わたくしの身を案じていただけで十分にございますから」


 上品に。

 百恵とはまた違った品の良さで女性は微笑み、会釈する。


「でも、あなたは見たところ剣士でも陰陽師でもなさそうですし、」

「ええ。ですが、妖魔に対抗できるのはそれだけではないでしょう?」

「……妖、なのですか? あなたは」


 うふふ、ともう一度上品に微笑んで、


「そのようなものです」


 言われれば確かにこの女性が纏う空気のようなものは、鶻業や馬籠に近しいものがある。


「……ほんとうに、だいじょうぶなんですか」

「ええ。それよりも、千彰さまこそお早く帰られたほうがよろしいかと。ご家族さまも心配なさっていますでしょう」


 無論、百恵のことは気にかけている。それでも彼女なら、困っている女性を放っておくとは何事ですか、と叱るだろうし、千彰も小言がなくとも夕暮れ時にひとり佇む女性を放っておくことなんかできない。


「家族のことなら大丈夫です。むしろ、なぜお連れしなかったのですか、と叱られてしまうと思いますから」


 冗談めかして言うと、女性は口元に手をやってくすくすと笑む。


「ああ、やはり千彰さまは変わらずお優しいこと。この鋏臈キョウロウ、とても嬉しく思います」


 鋏臈、と口の中で繰り返してみても、千彰の記憶にはない名前だ。きっと馬籠のように桜狩の家の古くから知っている妖なのだろうと、それ以上の詮索をやめた。


 そうだ、と学生服の内ポケットからスマートフォンを取り出し、自分の番号を表示させる。


「あ、これ、ぼくの番号です。なにかあったらこれにかけてください」


 鋏臈は目を丸くし、右手でそっと千彰のスマホを押す。


「初対面の相手にこんな大切なものを見せてはいけません。わたくしのことなら本当にご心配なさらずに」


 そこまで固辞されて、ようやく千彰は折れた。


「……では、ぼくはこれで失礼します。長々と引き留めてすいませんでした」


 スマートフォンをしまって深くお辞儀をし、千彰は道を譲る鋏臈の前を通り過ぎる。


「それではまたお目にかかりましょう」


 振り返ったそこに、鋏臈の姿はなかった。


「ほんとうに、大丈夫だったんだな」


 世話を焼きすぎたかもしれない。気を悪くしてなければいいけれど。

 千彰はそんなことを思いながら、改めて帰路についた。


     *     *     *


「んー、ごめん。鋏臈って名前、聞いたことないよ」


 翌日。学校ですずめを見かけると開口一番鋏臈のことを問いかけた。 

 思惑外れたすずめの拍子抜けした返答に、千彰はなんだそりゃ、と眉根を寄せる。

 鋏臈と別れた夜、せっかくのカレーもろくに堪能できないほどに千彰は鋏臈のことを考えていた。心配そうな百恵には申し訳なかったが、思い返せば思い返すほど気になってろくに寝付けなかった。


「だってしょうがないじゃない。いまは馬籠さまがまとめてくださってるけど、人と関わりたくないって妖のひとたちもいっぱいいるんだから」


 すずめが言うには、野穂の町に暮らしていて御堂の家が把握している妖の数は三十程度。馬籠が把握している妖の数は百を超えると言う。

 それだけの数がどこに、と問われれば野穂の町の南に広がる森に暮らし、あるいは明香梨たち鬼の一族のように人とともに暮らしていたりと様々だ。千彰たちの学校にも何人か通学している。

 すずめのふくれっ面に、そういうもんか、と返して明香梨を見る。


「わたしも知らない。……でも、千彰が言う特徴は、知ってるような気が、うっすらする」

「お前もか」


 うん。と喉に小骨が刺さったような顔で明香梨は頷く。


「なになにふたりとも。通じ合ってるみたいな空気出しちゃって」


 茶化すすずめの声も届かないほどふたりは頭を捻っていた。


「なによもう」


 膨れるすずめのスマートフォンが着信を告げる。取り出して相手を確認し、聞こえていないだろうけど、と思いつつもふたりに「ごめんね」と断ってから通話に切り替える。


「……え? 鋏臈さんから?」


 驚きと共に零れた名に、ふたりは寝違えそうなほどの勢いですずめを振り返った。


     *     *     *


「お待ちしておりました」


 深々と頭を垂れたのは、野穂高校指定のセーラー服を身につけた少女。


「わたくしは斑目トワ子。主、鋏臈の従者にございます」


 千彰たち三人が立つのは野穂高校の校舎裏。コンクリートの壁には妖魔除けの呪符が幾重にも練り込められており、並の妖魔では近づくこともできない。

 道路を挟んで反対側には民家が点在しており、ちらほらと夕飯の香りが漂ってくる、何の変哲もない夕暮れ時だ。

 変哲も無いと言えば、トワ子の外見は灰色のフレームの分厚いメガネを身につけている。どこにでもいる、と言えば弊害はあるのだろうが、その制服姿も相まって本当にメガネ以外の特徴が見当たらない少女だ。


「んで、鋏臈さんはどこです? わざわざ放課後まで待ってくれたのは助かりますけど、呼び出した本人がいないっていうのは、いささか礼を失すると思いますけど」


 授業が終わると同時にすずめはいつもの狩衣に着替え、校舎を出ると顔を陰陽図の描かれた半紙で隠し、腕を組んでふんぞり返りながら依頼者の到着を待っていた。


「ずいぶんとおむずがりのようですが、なにか無礼でも働きましたでしょうか」


 ふん、と鼻を鳴らし、すずめは指を突きつけて言う。


「まずひとつは組合を通さずに直接、しかも御堂の当代統領のあたしに直接試合の申し込みをしたこと。もうひとつは、その申し込みをしたのが組合に加入していない妖がやったこと。三つ目はその試合会場をそちらから指定してきたこと。これだけ重ねられて無礼だと感じないのは、よほどのお人好しだと思いますけど」


 半紙越しにもわかるほどするどく睨み付けられ、しかしトワ子は涼しい顔でゆったりと返す。


「あらあら。いつから御堂の家はそんなにえらくなったんです?」


 皮肉めいた言い回しに、すずめは冷淡に返す。


「どういう意味です」

「だってそうでしょう? たかが陰陽師が大きな顔をしていることを、快く思っていない妖は当然いるのですよ?」

「たかが、って!」


 いまにも噛みつこうとするすずめを、千彰は片手で制し、一歩前へ。


「それは、あんたの個人的な意見か? それともさっき言った主人に教えられたものか?」


 うふふ、と制服姿に似つかわしくない笑みを浮かべ、


「逃げ、と思われても構いませんが、わたくし個人の考えなど些末なこと。それに今回の試合は我ら妖が主催するものです。そちらの主張は通りません」

「妖が、試合を? あたしに知られることもなく?」


 怒気は完全に消え失せ、すずめにあるのは疑問符のみ。


「ええ。知らないのはあなたぐらいですよ?」

「御堂の家は知っているというの?」

「さて、どうでしょう」


 くすくすと笑うトワ子に、すずめは一転、小さく嘆息する。


「残念だけどあたしは家のひとたちを信用しています。あたしに報告してこないってことは、重要な案件じゃないってことです」

「あらそう。まあ用があるのは千彰さんだけですから」


 千彰に向き直り、そっと右手を差し出す。


「さ、参りましょう。主がお待ちですわ」


 千彰は静かに手を取った。

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