「 」
この文章を途中で削除せず完成させていて、しかもそれを誰かが読んでいるということは、たぶん私はもうこの世にいません。
失敗していたら恥ずかしいので、未遂で終わらないことを願います。
これは遺書なんだと思います。正式な知識はありませんが、遺書と呼ぶのが適切な気がするのでここでは遺書と呼びます。
まず初めに言っておきたいのですが、この遺書は、特定の誰かに向けて書かれたものではありません。これを今読んでいるあなたに読んでもらえればそれで満足です。
中学生の頃、ただとにかく死にたくて、死ぬために生きて、死ぬために学校に行っていました。毎日学校に行っていれば、ある日突然いなくなってもしばらくは大ごとにならないと思ったからです。うまくやれば、学校側は私を家にいると思い、家族は私を学校にいると思ったまま、私が死ぬ瞬間まで干渉されず全て終わらせられると考えました。だから学校にも行っていた。
でも臆病で愚図で馬鹿な私は、死ぬことすらできませんでした。
高校生の頃、この希死念慮について某おじさんに話しました。家族も友達も知らないと思います。私と彼だけの秘密でした。
彼も私と同じように死にたかったそうです。彼は言いました。「多分それ、なくならないよ」と。「僕は今でもずっと死にたい。毎日心のどこかで死にたいなあと思ってる。なくそうとしないで、うまく付き合っていくのがいいよ。そのうち気にならなくなるよ」と。
私は少しだけ安心しました。死にたいという思いを肯定してもらえた気がして。死にたくてもいいんだと思ったら、楽になりました。
名前は出しませんが、今でも私の恩人です。ありがとう。
高卒で就職したあと、私はそれまでほど強く死にたいと思わなくなりました。きっと思春期特有の一過性のものだったのだと思いました。
別に生きるのは嫌じゃない。わざわざ自殺しようとも思わない。でもふとしたときに「死にたいな」と考えている自分がいる。そんな状態が続きます。このまま希死念慮を抱かなくなるかもしれないと、当時の私は今より前向きでした。
その六年後、二十四歳。思春期特有の希死念慮とは、とっくにお別れしているはずの年齢です。でも私はまだ死にたい。
明日で二十五歳になります。明日で、というか、もうあと十秒ほどで二十五歳になります。いいタイミングですね。
今、通知が何件も届いています。十二時を過ぎたみたいです。まるで私の終わりを祝っているようで心地良さを感じます。
生まれてくることができてよかった。
私はたくさんの「おめでとう」に囲まれて死ぬことができる。幸せ者です。
ありがとう。さようなら。
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