第6話 胃が痛いサラリーマンとミックスサンド①

「はぁ……」


 竹下昇たけしたのぼるは皇居の塀に体重を預け、堀の中を見た。雨が降りしきるこんな天気では、中で泳ぐ鯉など見えるはずもない。

 いっそのこと自分も鯉に生まれたかった。もしくは堀に飛び込んで、鯉の餌になろうか。皇居の堀を囲むのは腰までの鉄パイプ二本のみであり、飛び込むのは容易だ。

 いやだめだ。皇居の堀に飛び込んだって、通報されてしまい死ぬ前に救助されるのが目に見えている。警察に叱られ、会社には呆れられる未来がありありと想像でき、竹下はゆっくりと体重を移動させるとガードレールから身を起こし、歩き出した。ずっと握っていたせいで、両手が鉄臭くなってしまった。


 竹下昇(三十二歳独身)は日本橋にオフィスを構えるIT企業に勤めているシステムエンジニアだ。作っているのは通販サイトのパッケージシステム。

 好きなものは平穏。嫌いなものは上司と理不尽な取引先。趣味は道端のねこを鑑賞すること。しかしこの東京都中央区にはねこはおろか虫さえも生息していない、不毛のコンクリートの塊である。


 なんということもない人生。

 朝起きて出勤。

 山のようにきているメールや、ひっきりなしにかかってくる取引先からの電話。無茶な要望、突然の仕様変更、「やっぱりこの機能必要ないから削って、その分予算を減らして」なんて要求は日常茶飯事である。

 それらに対応するべく開発課の連中に連絡を取れば、「出勤は午後から」「あ、それ、システムの基幹に関わる部分なんで変更無理です」「もう作っちゃいましたよ」などと言われる。色良い返事をもらえることなどほぼない。

 そうこうしているうちに、竹下の上司がぬっと背後から忍び寄ってきて、「昇ちゃーん、ちゃんとやってる?」「このお客さん、お得意さんなんだから機嫌損ねないでよね」と猫撫で声で言ってくるのだ。

 ぶん殴ってやりたいと思ったのは一度や二度ではない。

 竹下は日々、理不尽な顧客からの要望と、開発課からの消極的な態度と、面倒臭い上司の間に挟まれて立たされて押しつぶされそうになっているのである。

 日々を忙殺されて過ごしているうちに気がつけば三十二歳。彼女はいない。最後に彼女がいたのがいつだったのか、思い出せもしない。

 ただ起きて、仕事して、寝ているだけの人生だ。


「はぁ……」


 竹下はため息をつきながらトボトボと歩き出した。今日は思い切って二時間の昼休みをとってある。そうでもしないとやっていけないのだ。このところ、竹下の胃は連日シクシクと痛みを訴えていた。胃炎になる一歩手前である。なんとかしないと、このままでは胃に穴が開いて仕事どころではなくなるだろう。

 皇居は緑に溢れているが、一歩踏み出せば周囲はビルだらけだ。

 コンクリートジャングルは、来るべき夏になると太陽の夏を照り返し、恐るべき暑さとなる。熱波で景色が揺らいで見えるのだから相当なものだ。

 そんな暑い最中にエアコンの効いた快適なオフィスで働けるだけ、マシと思わなければ。

 竹下は自分にそんな風に言い聞かせながら、真っ黒な傘を片手に当てもなく歩く。

 とにかく昼食だ。飯を食おう。

 正直何かを食べたい気分ではないのだが、胃に何か入れなければ夜までもたない。一旦オフィスに戻ってしまえば、怒涛の仕事攻めで、いつ帰れるかわからないのだ。

 何を食べようかな。何も食べなくない。せめてゆっくり落ち着ける場所がいい。しかしこの街にそんな場所はない。


 東京というのは、不思議な場所だ。

 ここは日本の中心地でなんでも揃うはずなのに、その癖なにもないと竹下は思う。

 空っぽだ。

 軒を連ねるのは上辺ばかりが綺麗な店ばかりであり、個性を見せて勝負しているように見せかけて、個性などありはしないのだ。ほとんど全てがどこかの会社がプロデュースした「個性派な店」であり、実際に働いている店員の想いが反映されている店などありはしない。銭ゲバな経営者が儲けるためだけに生み出しただけの場所に過ぎない。

 竹下はそんな店に何の魅力も感じなかった。

 ただただ歩いていたら、オフィスのある日本橋まで帰って来てしまった。飲食店の看板を見ながらぶらぶらしても食欲など湧きはしない。

 やっぱりコンビニでサンドイッチでも買って、オフィスに戻って食べようかなと思い始めたその時、ふと竹下の目に、喫茶店の看板が目に留まった。

 今どき珍しいレトロな看板は、日本橋という街に不似合いな代物だ。

 この地域は何度も通ったはずだが、こんな店あったっけか。というかこんな道あったっけ。

 看板に惹かれて近寄ると、小さな道に面した雑居ビルの一階に時代遅れの喫茶店が存在している。

 赤茶色の煉瓦風の建物、扉の上には半円形の赤い庇。店の前にはショーケースがあり、食品サンプルが並んでいる。

 凄まじいまでの昭和感である。


 最近は「昭和レトロ」をウリにして、あえてこういう古風な雰囲気を作っている店もあるが、この店の年季の入りようからしてそういう類の流行りに即した店ではあるまい。

 竹下は俄然、小さな喫茶店に興味を持った。こんなにオフィスに近いのに、なぜ今の今まで店の存在に気がつかなかったのだろう。

 扉を押して、店の中に入る。からんからんといい音がした。

 周囲の雑然とした音がシャットアウトされる。車も電車も工事音も、聞こえない。

 薄暗い店内、並ぶ古ぼけたテーブルと椅子、漂うコーヒーの香りとタバコの臭い。今どき喫煙可の飲食店は珍しい。分煙すらされていないのか。行政にお叱りを受けなければいいのだが。

 BGMすらかかっていない店内を、竹下は非常に好ましく思った。そうそう、こういう店を探していたんだ。

 ウキウキする気持ちを表に出さないようにしながら扉の前で突っ立っていると、奥から店員が出てきた。そして直後、メガネのレンズ越しに見える光景に、竹下は我が目を疑った。

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