第16話 招待
エリザの教育を始めて一週間、ソリドゥスはみっちりと読み書きや礼儀作法を教え込んだ。
書き取りは筆達者なデナリが教えていたため、見違えるほどに奇麗になり、文法もしっかりとしたものに変わっていた。
読書の方も、ゆっくりではあるが、簡素な書物であれば、一人で読めるまでに成長していた。
元々、真面目で努力家であっただけに、一度火が着いたらなかなか熱心に勉学に励み、読み書きの方はまあ人前で披露してもどうにか取り繕えるまでにはなった。
問題は礼儀作法の方であった。
「本日はお日柄もよく、こうしてお会いできましたること、お、嬉しい、嬉しく存じ上げます」
「まだちょっと硬いかな~」
やはりこちらは一朝一夕で身に付くものではないなと、ソリドゥスも半ば諦めていた。
読み書きが苦手、というのは上流階級のご令嬢でも存在するので、その水準には到達しており、誤魔化すことは難しくない。
しかし、所作となるとそうはいかない。これは素が出てしまうのだ。
それを隠すのには演技もいるが、その演技力がエリザにはなかった。
ソリドゥスは猫を被るのに慣れっこであるが、普段は農園で働き、たまに屋敷に人手がない時に出仕して、家に帰って夫と口論、というのがエリザの日常だ。
礼儀正しく振る舞う、という場面が限定的であり、これを身に付けるのは時間がかかるというものであった。
さて、どうしたものかと悩んでいると、そこへまたしてもバナージュがやって来た。
この気紛れな王子様は、時折エリザの姿を見ては良くこれを観察し、あるときは唸り、ある時は笑い、そして、いつの間にか消えてしまう。そんな時間をここ最近過ごしていた。
今日もエリザの
ソリドゥス、エリザ、デナリ、アルジャンは恭しくお辞儀をして、これを出迎えた。
「今日も熱心なことだな。どれどれ」
そう言って、バナージュが手に取ったのは、机の上に置かれていた紙を掴んだ。エリザが練習として色々と書き綴った文章が書き記されており、それを丹念に眺めた。
「というか、あれだな。デナリと言ったか。お前、字が上手すぎる。これなら王宮付きの
祐筆とは、貴人の側に仕え、手紙を書く際に代わりに書く専属の代筆屋である。
王宮に仕える祐筆ともなると、その格は高く、文官としてもかなり上位に位置する。何しろ、王族の代筆を行うわけであるから、自然と機密情報に触れる機会もあるため、相当な筆達者で信頼のおける者でなければ任せることはできない。
祐筆に選ばれることは、それだけでも大変な栄誉と信頼を得ることを意味する。
「ソル姉様に字の練習を勧められて、必死に覚えました!」
「お~、そうかそうか。なんなら、私が口利きして、仕官の口を紹介してやろうか?」
「お断りします」
デナリの返答は即答であった。
残念なことに、この愛くるしい赤毛の少女は、姉の役に立つという価値観以外持ち合わせておらず、宮仕えと言う仕官の価値を考えもしなかった。
なお、平静を装てはいるが、ソリドゥスは心臓がバクバクであった。
(殿下ぁ! うちの可愛い妹、
さすがに芸術家相手に色々とやっているバナージュで、デナリの価値をすんなり見出してしまった。実際、貴重な“
「では、アルジャンよ、お前は私の元で働く気がないか?」
「魅力的なお誘いですが、今の職場に愛着もありますので、お断りいたします」
アルジャンも誘いをすんなり断ってしまった。
なお、ここではソリドゥスも首を傾げた。
(え? なんで? デナリは有益な“
人間社会において、“嘘を付けない”と言うのは、何かと生きにくい。誰かを助けるための嘘もつけないし、おべっかでご機嫌を取ることもできない。
アルジャンの“
しかし、ソリドゥスは自身の能力を過信しすぎて、アルジャンの能力を計り間違えていた。
目利きとは、見た目でその物質の持つ価値を調べる技能であるが、目で見る表面的な性質しか分からないのだ。表面だけ見て分かった気でいるソリドゥスの危うさを、危ういアルジャンだけが洞察しているという皮肉である。
それを悟らせないために、
これはまだまだ“お互いに”修行が足りていない証拠であった。
だからこそ、“有能”なアルジャンを引き抜こうとしたバナージュの真意を、理解することができなかった。
「やれやれ。ソリドゥスよ、お前は若くして、店すら持たない駆け出しの商人とすら言えない存在だが、すでに優秀な
「お褒めいただき光栄でございます」
二人の従者が褒められて、ソリドゥスはなんともこそばゆい感覚に襲われた。破天荒な行動ゆえに、上から褒められることはあまりないので、どうにも新鮮な感じであったのだ。
「まあ、ほんの挨拶はこの程度にしておこうか」
「殿下、
「まあ、そう言うな。その侘びと言っては何だが、お前にとって興味深い話をしてやろう」
バナージュはそう言うと、先程から会話について行けず、黙したままであったエリザの肩に手を置いた。いきなりの不意討ちであり、エリザはびっくりして肩を跳ね上げてしまった。
「明日な、王宮で宴の席が設けられる。父の六十の誕生祝いの席だ。で、その宴において、エリザを
「うぇぇぇ!?」
折角覚えた作法のことなどどこ吹く風か。エリザはいきなりの突拍子もない申し出に、大絶叫と言うみっともない醜態を晒すことになってしまった。
すぐに正気に戻り、落ち着いた雰囲気に戻ったが、しっかりバナージュに見られた後であり、誘ってきた王子も苦笑いするよりなかった。
「今の姿はよろしくないが、ちゃんと身に付ける者は身に付けているしな。口数を少なくして帯同すれば、まあ何事もなくやり過ごせるだろうて」
「はい、お引き受けします」
なお、答えたのはソリドゥスであり、エリザの意志など完全無視であった。
「ちょっ、ソリドゥスお嬢様!?」
「好機以外の何物でもないわよ。しっかり殿下のご期待に添えるよう、しおらしい淑女として側近くに侍ってきなさい」
慌て深めくエリザに対して、ソリドゥスは頑張ってきなさいと言わんばかりにポンポンと肩を叩いた。なにしろ、王子から直々に宴の席に帯同して良いと許可が出たのだ。
これ以上にない好機であり、存在をアピールするのに適していた。
だが、ここで思わぬ一撃が入った。
「何を言っている。ソリドゥス、お前も同行するのだぞ」
「うぇっ!?」
無慈悲な一撃がバナージュから入れられた。
宴の席にお前も同行するんだぞと、きっぱりと言いつけられたのだ。
「私も、ですか!?」
「ああ、さすがにエリザ一人では心もとないところもあるからな。そうさな、私の
「まあ、そうなりますわね」
ソリドゥスはチラリとエリザを見やった。
読み書きは大分マシになったとは言え、礼儀作法の方はまだまだ不安が多い。同行して、しくじった際の補助をしてやらねば、何もかもが台無しになりかねない。
特に、バナージュの顔に泥を塗るような真似だけは避けねばならなかった。
(そうなると、むしろ同行する方がいいか)
上流階級の宴に出席するのは気が引けたが、計画を進める上では避けては通れない道だと覚悟をして、これを引き受けることにした。
なお、“道連れ”を増やして。
「アルジャン、デナリ、あなた達も同行するのよ。荷物持ちとお針子として」
「「ぶえ゛ぇ゛!?」」
二人から同時に悲鳴のような呻き声が上がった。
何しろ、社交界とは無縁の二人だ。片方は庭師の息子であり、もう片方は庶子という日陰者。上流階級の宴席に出るなど、今までの人生でなかったことだ。
臆するのも当然と言えた。
「何を勝手に決められているのですか! お一人で行ってきてください」
「王様の誕生パーティーなんて、それこそ上流階級の中でも最上位の方々ばかりの席ですよ!? 絶対腰抜かしちゃいます!」
「異論は認めない。同じ労苦を味わいなさい」
「「そんなぁ!?」」
もう一度悲鳴を上げる二人であったが、ソリドゥスは容赦なかった。
「面白そうだから、許可しよう。一緒に王宮に行くぞ」
バナージュはノリノリでソリドゥスの道連れ作戦を了承した。
王宮、と聞いた途端、エリザ、デナリ、アルジャンは眩暈を覚えてフラリと倒れかけ、それを見ながらバナージュはまた大笑いした。
ノリのいい庶民の感覚を持つ王子だとは聞いていたが、よもやここまで破天荒であったとは、ふらつく三人は考えもしていなかった。
「よし、では明日のために、全員で作法の練習でもしておこうか。なぁに、付け焼刃でも構わん。面白い物が見れれば、私は満足なのだから」
バナージュの笑い声が悪魔の高笑いにも聞こえてきた。少なくとも、頭を抱える三人にはそう思えた。
しかし、ソリドゥスにとっては儲けものの提案でもあった。
(そう、これはまさに渡りに船。王族主催のパーティーに紛れ込んで、殿下とエリザの中を既成事実化させられる機会に恵まれるかもしれない。殿下はあくまでエリザを“女性避け”のための小道具くらいにしか考えてないかもしれないけど、それでも一緒に出席できる程度には親密であることの証! フフッ、これは面白くなってきたわ!)
早くも巡って来た幸運の機会に、ソリドゥスは困惑しながらのたうつ三人を笑い飛ばしつつ、心の中では諸手を上げて喜ぶのであった。
~ 第十七話に続く ~
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