第2話 マスターピース
黒衣の女性は手に持っていた大きな鞄を地面に置き、身を屈めてフランカに目線を合わせた。美しい黒髪だ。フランカは安堵した。小説に登場する黄昏の魔女は髪色が赤みがかった橙色と描写されていたから。黒であるのならむしろ主人公の魔女の髪色であった。
「やあ。少し道を聞いていいかな」
気さくな口調にフランカは肩透かしを食ったような気持ちとなった。顔立ちには気品があるが、少なくともどこかの貴族令嬢ではなさそうだ。
フランカは立ち上がる。足元のおぼつかない幼児ならともかく、十一歳にもなってわざわざ大人に目線を合わせて話をされるというのは不本意であった。フランカの動きに合わせて相手もまっすぐ立ち直した。
「ええ、いいですよ」
フランカは了承してから、不躾にならぬ程度に、改めて女性の外貌をうかがった。黒いローブには風塵や土埃が付着しており、それは下にいくほど多かった。靴は街の若い女性が好んで履くような造りではない。まさしく旅人らしい、しっかりとしたものである。ここまでを馬車に揺られ、すぐ近くで降りたばかりという風体ではない。それなりに長い道のりを彼女自身の足で歩いてきた様子である。とはいえ、野宿で幾夜も過ごしてきたにしては荷物は少ない。
どこを故郷とするかはわからないが、隣村を今朝早く出て、時間をかけて歩いてきたと考えるのが自然だろう。
「お姉さんはもしかして、演奏家の方ですか?」
トリゼツィアに、誰か名の有る演奏家を頼って修行をしに来た無名の演奏家。女性の雰囲気から、フランカはそう予想した。鞄の寸法からすると小型の楽器であれば収まるだろうし、ピアノのような大型であれば携帯しては来れまい。画家や彫刻家の線もあるが、ちらりと覗かせている手首、その先のほっそりとした長い指先には絵の具や塗料の跡は少しもない。そして父ダリオの手ともまるで違う。ようするに物作りの手ではなかった。だとすれば楽器職人でもないだろう。
「うん? いや、何者でもないよ」
女性はあっけらかんと答えた。
「つまり?」
「そのままの意味さ。己が進む道を定められず、彷徨っている」
「それはたとえば……恋人を若いチェロ弾きにとられてしまって、夜ごとヤケ酒を呷る日々を過ごしているパン屋の次男坊と似たような境遇ですか」
女性は物珍しげにまじまじとフランカを見やった。そしてくすっと品よく笑う。フランカは羞恥心で顔に熱が帯びるのがわかった。
(しまった。ついうっかり、何も考えなしに最近聞いた噂話をありのままに伝えちゃった)
フランカは自分の予想を、女性にひらりと躱されたことで、あるべき彼女のペースを乱したのだった。淑女を理想とする少女が、今のは初対面の相手に話す内容としては適当ではないのはわかっていたはずだった。
「君、面白いね。名前は? ああ、待った。こちらから名乗ろう。私は……そうだな、アリアとでも呼んでくれるかな」
どうにも偽名くさい。フランカはそう思ったが今度こそ口にはせずに、名乗りを上げた相手に倣って自分の名前を告げた。
「ねぇ、フランカ。ここから一番近い宿を案内してくれるかな」
「わかりました。ただ、もし差支えなければアリアさんが何をされている方なのか、もう少し詳しく聞いてもいいですか。その、後で父に旅の人を道案内したと話すときに、いったい全体、得体のしれぬ人物であったと言うのは忍びないので」
アリアはまたフランカをじっと見つめた。拒絶の色はそこになかったが、あたかも心の奥深くを覗き込まれている心地がして、フランカは落ち着かなかった。
「ひょっとしてトリゼッタの女の子はみんな、そんな話し方をするの?」
「トリゼツィアですよ、アリアさん。ええと、変でしょうか。もしお望みなら、普段の話し方をしますが」
「そうして。私が知っている君ぐらいの年の女の子たちってのは、『もしお望みなら』なんて言わないよ。うん。アリアと呼び捨てでかまわないから」
フランカとしては先の無礼を省みての丁寧を心掛けた話し方であったが、アリアはお気に召さなかったようだ。難しいな、とフランカは内心思った。
「それで結局、アリアは何の仕事をしているの? 何もせずには生きていけないでしょう?」
花畑を後にして、最寄りの宿へと並んで歩きだすと、フランカはさっそくいつもの調子で訊ねた。並んで歩くと、アリアが長身であるのを実感する。トリゼツィアの街に住む大人の男性とそう変わらない。それでいて細身だ。
「うーん……休業中というか療養中ではあるんだけど」
「どこか病気や怪我をしているの?」
「見えないところをね」
そう言ってアリアは彼女の左胸のあたりをさする。陽気な口ぶりに、フランカは冗談だと受け取った。いわゆる傷心旅行で、トリゼツィアに絵画を観に来たり、音楽を聴きに来たりというのは話に聞くが、アリアからはそんな印象がしないのだ。
「どうしても言いたくないならいい」
「その言い方はずるいよ、フランカ。まぁ、隠すほどでもないか。実は
そよぐ夕風のようにさらりとアリアが言って、口許を緩めた。
「それって、舞双姫で生計を立てている人のことだよね? 大きな街にたくさんいるって聞いたことがある」
「トリゼツィアにはいないの?」
「舞双姫を飽きもせず毎日している人なら、山ほどいる」
学校で駒の使い方を学ぶぐらいだ。教育的価値があると先生は話していたが多分に主観的かつ個人的趣味が入っているものだとフランカはみなしている。
「でも、勝負をしてお金のやりとりをするのは賭け事として禁止されているの」
「なるほど。芸術の街だと、そういう勝負事は行儀よくないのか」
「ただね、本当のところは違うって私みたいな子供でも知っている。みんなが舞双姫に夢中だもの。それこそ絵や音楽と同じぐらいに。だから、そこにはお金の動きと流れが生まれている」
そうしてフランカは父が腕利きの造駒師であるのをアリアに明かした。具体的な顧客についてはフランカの知るところは多くないが、その業績に胸が張れるのは、父が直接語らずとも街の人たちの反応で理解している。
「それはそれは。立派なお父様だね」
「うん。駒造りに熱心になり過ぎて、私にかまってくれないときがあるのは不満だけれどね。食事だってろくにしないときがあるの」
「そっか。他の家族は……」
「いないの。そんなことより、聞かせてくれる? 姫士のこと」
「いいよ。なんだったら、手ほどきしてあげてもいい。君はいかにも賢そうで、教えがいがありそうだ」
率直に褒められてこそばゆくなるフランカだったが、肩を竦める。
「ありがとう。でもね、友達からは『優れた造駒師の一人娘が、舞双姫の腕がからっきしってのは恰好がつかないなぁ』って言われているの」
「あれ、フランカは舞双姫がそんなに得意ではないんだ」
「えっと、ほら、身近にある駒がとてもいいものだから、そこらへんにある駒じゃ満足に力を発揮できない。そういうことにしている」
舌をちろっと出して笑うフランカに、アリアは微笑みを返してから手に持っていた鞄をぐいっと掲げた。
「君が私のを気に入ってくれるといいな」
「そこに、駒が入っているの?」
「そう。舞双姫盤ごとね。いちおう特注品なんだよ、こいつも。見たい?」
フランカは前方を確認した。もう少し歩くと、街外れから抜けて市街地の入口に到着する。そうすると宿はすぐだ。
(まだ時間はあるよね。せっかくだから見せてもらおうかな。姫士が使っている駒がどんなものか知らないもの)
父ダリオが造駒をする上で何かヒントになる可能性だってある、そう考えたフランカはアリアの駒を見せてもらうことにした。二人は道から逸れて、鞄の中身を取り出すのに適した場所に移った。
ごそごそとアリアが鞄の中の生活用品をかき分けて取り出したのは、四角い金属製の箱だった。ダリオはケースも含めて近年は専ら石を彫って駒を造る。ダリオが石の扱いに長けているのが最たる理由であるが、トリゼツィアには木彫り全般の名工がいて、その歴史ある工房と競合しないためでもあった。
「さぁ、これだよ」
フランカは目を見張った。駒も盤も金属製である。高級というよりも、厳かで神秘的な気配をフランカはそれらに感じ取った。
舞双姫は通常、白と黒に塗り分けられた十二種類の駒を用いる。たとえば前後非対称で、向きがはっきりしていれば塗り分けされていない種類もあり、また板状のものに名称を記してある簡略化されたタイプも存在する。
駒を置く舞双姫盤は縦横ともに十一マスに分けられており、手前から一列目の中央に「姫」を配置する。
その両隣に「賢者」を。
その隣には「魔女」を。自分から見て左側を陽の魔女、右側を月の魔女とも言う。
そしてその隣には「守護塔」が配され、単に塔とも呼ばれる。
塔の横に「鋼馬」それから列の両端に「飛槍」を置いて一列目は完成する。
二列目には四大精霊の駒すなわち「地精」「水精」「風精」「火精」が、「姫」と「賢者」の正面三マスを避けて一マスおきに並ぶ。
三列目には「勇士」がずらりと並ぶ。四列目には二つの駒だけ。両端から三マス目、つまりはそれぞれの塔の前方に「灯」の駒だ。
駒の呼称それぞれは地域差が多少あり、それによって駒の造形も変わってくるものだとダリオが話していたのをフランカは覚えている。
「駒に触れてもいい?」
「もちろんだよ、お嬢様」
アリアが片目を瞑ってみせる。
フランカは慎重に、まずは白の勇士の一つを手に取った。勇士の駒は舞双姫において最も数の多い駒であり、多くのプレイヤーが第一手に動かす駒だ。円錐に球体を突き刺した形状というのが最も普及している勇士の駒だが、人の胸像めいた形であったり、人ではなく勇猛そうな鶏や狗、甲虫なんて形の駒もある。依頼主の意向に沿うのは当然としても、他の造駒師たちにはできない表現、作り手特有の舞双姫の世界を盤上に描き出すために造駒師は工夫を凝らすのである。一列を占領して十一体並ぶ勇士の駒はその点において最重要だと言える。作り手の世界観がすぐにわかるものであるから。
アリアの勇士はつるりとした手触りのいい球を正五角錐の台に乗せたような形だった。球を頭部として角錐を胴体とするなら、その首にあたるつなぎ目に襟が巻かれている。表面に何か特別な意匠が刻まれてはいない。
ようするに、ぱっと見ただけでは普通の勇士がなんだか角ばっている、という感じしかしない。そのはずなのに、手に触れてその重みを知り、試しに盤上に立たせてみると、不思議と惹きつけられる。
(比率だ。頭の大きさと胴体の大きさの比率。それが絶妙……だと思う。少なくともありふれた勇士のそれとは違う。きっとお父さんなら、この駒がどんな計算によってできているかわかるだろうに)
それから、フランカは黒色も含めて駒を一つずつ確かめていった。途中で、アリアが「まるで鑑定士だ」とからかってきたのを黙殺した。フランカはそれらの駒を特異たらしめている、技巧を読み取ろうとした。
結果的には、彼女の知識と経験ではその駒と盤というのが、アリアが言ったように「特注品」であるのを確信するにとどまった。フランカは、なにも父の後を継いで造駒師になりたがってはいないが、しかしこうも謎の魅力に包まれた駒を目の前にするとそわそわするものだった。
「――――これらは皆、生きた駒だわ」
黒の姫の駒を最後に、すべてを手に取り観察し終えたフランカはそう言った。それはかつてダリオが納得のいく駒を造ることができた際に口にした「命を宿すことができた」という言葉に由来している。
「喜んでもらえてなにより」
アリアはフランカの賛辞を素直に受け入れ、彼女自身も白の姫の駒をひょいっと手に取ると、指先で撫でていた。
「どんな人がこれを造ったの?」
「ええ? うーん……ただの堅物じいさんだよ。けど、君のその表情を見るに、評価を変えないといけないのかもね。実を言うと、私は造駒には詳しくなくて。これは餞別のように渡されたものだから」
「そっか。大事にしたほうがいい、なんて私が言うのは生意気かな」
「いいや。そうするよ、私からすれば商売道具だからね」
アリアが盤と駒とを元の箱に収めて、鞄にしまう。
そして二人は市街地へと再び進み始めた。やがて、路銀をそれほど持っていない旅行者がよく利用する宿の前までくる。フランカはアリアに、もしも金銭的余裕があるのなら、ここから五分も歩けばもっといい宿があると話す。するとアリアは首を横に振って「安くて長く泊まれるに越したことはないよ」と返事をするのだった。
「あのね、アリア。さっき話してくれた、舞双姫を教えてくれるって話だけれど」
「そうだなぁ。今日のところは遅いし、私も疲れているから、よければ明日にでも訪ねてくれる?」
「えっとね、授業料を払うだけのお金はないの。この本に使っちゃったから。お父さんに相談しても、たぶん出してくれない」
一冊の本だけが入った小さな鞄を大事そうに抱きしめるフランカ。その頭をアリアが軽く撫でる。子供扱いされるのは嫌だが、しかしアリアの優しい撫で方にフランカは気をよくした。
「もとから、そんなのとるつもりないって」
「アリアは姫士なんでしょう?」
「休業中のね。それに、道案内をしてもらって何も返さないというのは不義理だ。そう思わない?」
「わかった。子供らしく甘えることにする。ありがとう」
「ふふっ。まぁ、君が私の力量に幻滅して、レッスンを早々に辞退しないことを祈っているよ」
「……実は、あまり強くないの?」
「さてね。明日になればわかるさ」
そうして二人は明日の昼過ぎに花畑で落ち合う約束をして別れた。
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