盤上のシンフォニスト
よなが
第1話 黄昏の邂逅
盤上に対峙する二人の姫君が一方の陣営を滅ぼす遊戯こそが、公国においてここ半世紀で最も流行している娯楽であった。その起源は公国の統一以前、長らく続いた戦乱の世よりもさらに昔にあると言われている。古代帝国時代に暗躍した魔術師たちの儀式が祖なのだと、まことしやかに囁かれているのだった。
それを今の時代に合った形で甦らせ、国中に広めた立役者というのが先代の大公の腹心である。その最期は件の盤上遊戯の魔性に憑りつかれて我を失い、自ら命を絶ったという。
自分と相手、双姫の駒の価値を最上として、原則的にどちらかが盤上からいなくなるまで争い続けるこの盤上遊戯は、
大公領から馬車で片道半月足らず、公国の東部に位置する小都市トリゼツィア。
エッジワース子爵家が統治する領地であり、他の子爵領と比較すると商業や農業の面ではやや劣るも、絵画や彫刻といった美術分野、そして音楽分野においては公国内でも指折りである。その文化的発展は、二百年と少し前に時の大公が視察でこの地を訪れた際に、兄弟の天才画家を見出した史実に起因している。また百年ほど前には、絶世の美人であり才女と謳われた大公爵令嬢が領内南部に広がる豊かな森林を散策した折、強烈なインスピレーションを受けて公国の音楽史に残る名曲を作った。
現大公家の治世になって間もなく三百年。ほんの一部を除けば領主の圧政に民が喘いでいる領地はなく、そして近隣国の侵略の気配もない平穏ゆえに芸術文化が育まれている領地も多い。
そんな、色彩と響きあるトリゼツィアで少女フランカは父ダリオと二人で暮らしていた。今は亡き母親譲りの栗色のまっすぐな髪は肩にかからない程度に切り揃えられており、その淡褐色の瞳は大きく、好奇心に満ちている。そのいたいけな口許、形の整った唇が寡黙な父親を前にしてよく開かれ、とめどなく言葉を紡いだ。週に四日、街にある庶民向けの小さな学校で字の読み書きや計算、図工や裁縫を教わっている彼女だが、そこにいる同年代の子供たちともおしゃべりに興じたものだった。
少女の様子に変化があったのは、十一歳の誕生日にダリオが彼女に一冊の本を贈ってからだった。舞双姫の駒を造るのを生業にしているダリオはその職人気質のせいか、娘にさほど器用に愛情を注いでやれていない。駒の造形に頭を抱えている時でも容赦なく話しかけてくるフランカを疎んじてしまうこともあった。それでもフランカが物心つくまえに、妻を不慮の事故で亡くして以来、男手ひとつで育ててきた自負もあり、愛情そのものは限りなく大きい。
そんな彼が愛娘の誕生日に、選んだ贈り物である本は街で流行の小説であった。実際のところ、選んだというより偶然に得たものである。それはフランカの誕生日の直前にダリオが駒を納品した大商家の主人から追加の報酬として貰ったのだ。
一般に「造駒師」というのは、庶民を相手に安価で丈夫さを売りとする駒を造る人間を示さない。洗練された造形美を有する、つまりは芸術的価値のある代物を生み出せる職人を指して言う役職である。そしてその依頼相手は造駒師としての評価が高まるにつれ、自然と社会的地位の高い人間になっていった。ちなみにダリオのようにほとんどを独りでこなすのは珍しく、たいていは複数人で工房を持つか、弟子の一人か二人はついている。そうした造駒師たちに仕事を奪われずに、注文が絶えないのはひとえにダリオの腕が確かなものであるからだ。加えて言うなら、それだけこの舞双姫というのが単なる娯楽以上の意味を持ち始めている背景もうかがえる。
話を戻すと、ダリオの贈った小説というのはフランカにとって最初の小説であったと言える。フランカがそれまで知っていた物語というのは、学校で読まされる、専ら識字と道徳的規範を学ぶための、作品というより教育装置でしかなかった。彼女が仲良くしている同年代の子供たちのうちには、街の図書館通いの子もいたが、フランカは作られた物語というのには関心が持てずにいたので、その子といっしょに図書館へ行くこともなかった。フランカが好み、周囲に話し聞かせたのは現実に起こった出来事が中心であり、そこから予想される未来や過去についてだった。
そのフランカが、父から与えられた小説に夢中になった。
小説の内容は、魔女とその使い魔が登場して世界を旅していくというもの。一見すると非現実的なおとぎ話なのだが、しかし魔女は直面した状況を冷静に見極めて、その裏にある真実を丹念な調査と論理的思考によって導き出す。そこには魔法というよりも現実に根差した展開があり、真理がある。それを探究する過程で行き詰まると、使い魔の黒猫が決まって魔女になぜ魔法を使ってしまわないのかと問う。すると魔女は「それだとつまらないから」と得意げに応じるのであった。
フランカはその魔女の在り方に魅了された。美しく強かに、そしてなにより聡明に描かれる魔女はフランカにとって憧憬するに足る存在となった。それまで友人が遠い国のお姫様であったり、貴族たちの煌びやかな舞踏会であったりを夢想してやまないのを、否定こそしないが半ば呆れて、冷めた態度をとることもあったフランカだ。その彼女からすると、架空の人物に心奪われるのは驚きの体験だった。
その経験を発端に、フランカは例の図書館通いの子と連れ立って、暇を見つけては図書館へと足を運んで本を読むようになった。残念ながら、フランカが期待したような刺激的な経験はなかなかできなかったものの、気に入る小説は日に日に増えていった。
それに伴って、フランカは自分が思いついたままに話をしていたことを愚者の語り口だと恥じて、最初の一言を口にする前に一考するようになった。また、魔女が作中で実践している淑女の振る舞いというのも意識し始めた。それまでは同い年の男の子となんら変わりない言動をとることも多かったのである。
フランカの口数が減り、その態度もお淑やかになったのを、ダリオは心配して何があったんだと問い詰めた。フランカが事情を話すと、わかったようなわからないような顔をして首をかしげたダリオであったが、娘なりに成長しようとしているのだと捉えると、あまり干渉せずに事のしだいを見守ると決めたのだった。
その頃、領主たるエッジワース子爵が何人かの造駒師を候補として選出し、一年後の子爵令嬢の成人の贈り物に相応しい駒を造るのを彼らに依頼した。そのうちの一人がダリオであり、選出されるだけでも名誉なのは間違いなく、もしも令嬢の正式な祝いの品に選ばれたのであれば、その後の仕事の成功が確約されたと同義であった。言い換えればトリゼツィアの造駒師としてこれ以上腕の見せどころがない役目で、フランカには悪いが、ダリオとしては造駒に集中したかった経緯もある。
子爵令嬢の成人の儀が半年後に近づいたある日。
フランカは例の小説の続編を手に入れて、心を浮き立たせて街を歩いていた。街の図書館で古典的作品をあらかた読み終わってしまったフランカは近頃、ダリオに小説をくれた大商家が営む店の一つである、流行の本を中心に売り出している書店に足繁く通っていた。そこで仲良くなった若い店員から続編の噂を聞いてから実に二カ月。ようやくその続編を手に入れることができたのだった。作者は遠方の伯爵領に暮らす伯爵家お抱えの作家とのことで、トリゼツィアへの流通には時間がかかった。それに新刊はけっこうな値がついており、友人といっしょにお金を貯めて共同財産として購入したものであった。
こんなにもいい天気なのだから、外で読んでもいいかもしれない。
フランカはそう思って街はずれの小さな花畑へと赴いた。街はずれと言ってもフランカたちの家からは近い。もとより、フランカたちが住む家というのは街の中心部からは遠くにあるのだ。それはダリオが造駒の作業をするのに静寂な空間を必要としており、喧騒と常に無縁でありたいと考えていたからだ。まだ造駒師として高く評価されていなかった頃は、市街地に部屋を借りることもままならなかったというのも事実である。
この時季、花畑にひときわ見事に咲いているのは亡き母が好きだった白い花であった。ダリオはフランカが求めても、母の思い出話をそれほど多くしてくれなかったが、この花にまつわるエピソードは明かした。
かつてダリオが造駒師として初めて納得のいく作品を依頼主に納品できたその翌日に、三人で訪れた花畑。まだフランカは母親の胸に抱かれていた赤ん坊だった。ダリオは妻のために
フランカは花畑が一望できる場所に堂々と生えている樹木の根本を背もたれにして、ゆっくりと腰を下ろすと一息ついた。気持ちを落ち着けて、本の頁を開く。まだ昼を過ぎたばかりで木陰でも充分に本の字が読める。
フランカが本を読み終える頃、空模様は青と白を溶け込ませたものから、薄紫や橙が境目を曖昧にして塗られたものへと移り変わっていた。時間の経過はフランカに空腹感を抱かせていたはずであるが、それ以上に満足感が少女にあった。いっしょに本を買った女の子は読みかけの長編小説があるから、とフランカが先にこの続編を読むのを許してくれ、何日かかけて楽しめばいいとも言ってくれた。けれど、フランカの頁をめくる手はついぞめくる先がなくなるまで止まることはなかったのだ。至上の読書の余韻に浸りながら、涼しげな夕風を受ける。すっかり熱くなった心を冷ましていたフランカは茜色の光を浴びる花々を眺める。
ふと、視界の端に黒色が映った。
「えっ?」
思わず息を呑むフランカ。見知らぬ黒衣の人物が少し離れたところに立っていた。光の当たり具合のせいで、その顔はうかがえない。シルエットからして、女性だと思われる。
身に纏う服よりもずっと夕の色に染まっている髪は、胸元まで長さがある。
(嘘――――黄昏の魔女!?)
フランカはたった今読み終えたばかりの小説の中で、主人公である魔女と敵対していた悪役の魔女をその黒衣の女性に重ねた。たしかに作中で、その黄昏の魔女は深き漆黒のドレスを着こみ、落日の如く色合いをした髪をなびかせていたのだった。
女性は大きな鞄を持っている。そこには何が入っているのだろう。もしかして、魔法の道具かもしれない。たとえば、子供を生け捕りにして人形に変えてしまうような。そのときのフランカはそんな現実離れした空想を本気で頭の中に描いた。いつものフランカであれば、いくら小説が好きになったとは言っても、現実とその物語を混同することはないのだが。閉じたばかりの本が彼女に与えた影響というのは大きかった。
黒衣の女性がフランカに近づいてくる。
フランカはまるで束縛の魔法をかけられたように動けなくなり、そして心なしか息苦しくさえ感じてきた。一歩、また一歩と女性が近づくごとに恐怖心が増していく。
しかしフランカは彼女から目が離せない。
「綺麗……」
そうして女性の顔がはっきりと見える距離まできたとき、フランカは呟いていた。恐れが瞬く間に霧散する。
ああ、魔女って本当にこんなにも美しいんだ。少女の呟きを受けた女性が微笑む。それは魔女というよりも、お姫様や女神様を思わせる笑みであった。
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