第二場 泉のみそぎと森の鬼
ゆるやかに流れる大河は湖と見まごうほど広大で、向こう岸がかすんで見えない。
高々とそびえる山麓は雲と混じり合い、天空から地上を睥睨している。
樹木すらも、人が五人集まってようやく囲えるくらい幹太く、青々とした枝葉も扇のようだ。
見える景色全てのスケールが大きく、ゆったりしている。
雄大な自然の情景に比べてあまりにもか細く、みすぼらしい街道跡を一人の少女がてくてくと歩いていた。
元々は小石を敷き詰め、きちんと舗装された様子がうかがわれる道路だが、人に使われなくなって久しいようで、なかば草むらに覆われ消えかかっていた。
少女が身にまとうのは白い小袖と緋の袴。いわゆる巫女装束である。
それに白い足袋をはき、わらじをつっかけていた。
少女といっても、もう大人の女性といってもさしつかえなく、武家の娘であれば子どもを産んでいてもおかしくない年頃だった。
しかし、その瞳は快活に輝き、表情のどこかに幼さが残り、少女、と見るものに呼ばせたくなる雰囲気があった。
そのかたわらには、紅い着物をまとい、鳥の羽根のような銀のかんざしを差した、てのひらにのれそうなほど小さな女の子がふわふわと浮いていた。
「ねーねー、サチ。まだつかないのかなぁ」
「ん、まだ。ミコ、それきくのごかいめ」
「んー、おかしいなぁ、もうすぐ街に着く頃だと思ったんだけどな。全然景色が動かないよぉ」
「だらだらしゃべりながらあるいてるのがわるい」
「んー、なぁんか遠近感くるうんだよなぁ、この国。すごいよねぇ、こんなにおっきな河も山もはじめてみたよぉ」
「それいうのはじゅうごかいめくらい」
ふわふわ浮いている女の子―――サチミタマは「だらだら」というが、実際の巫女装束の少女―――天城ミコトの足取りは旅慣れているふうで、素早く無駄がなかった。
なかば草むらに覆われかけた道の上を、常人ならほとんど駆けているのと変わらない速さでひょいひょいと進む。
が、その足取りが不意に止まった。
「ミコ、どうした」
急ブレーキを踏まれ、サチミタマはけげんそうにミコトを振り返る。
振り向いて見たミコトの目は、お菓子を目の前にさしだされた幼子のように輝いていた。
「サチ、泉があるよー」
声を弾ませ、ミコトは街道脇の森の中を指さした。
その指し示す奥、高い木々の向こうに、たしかに澄んだ水のきらめきが見えた。
「まちまで、まだある。はやくしないとひがしずむ」
ミコトの意図を察したサチミタマは、呆れ声で言う。
が、ミコトはまったく聞く耳をもたなかった。
サチミタマの手をつかむと、道を外れて、森の中につっこむ。
「そしたら野宿すればいいよ。いこ、サチ」
「わっ、ぷ。み、ミコ、やめ」
枝葉が顔にぶつかり、サチミタマが抗議の声をあげるが、ミコトは気づかない。
「わぁ」
森の中の泉に辿り着いたミコトは感嘆の声を上げた。
自然のなにもかもが雄大でスケールの大きなこの国にあっては、こぢんまりとした印象の泉だった。が、それが良質の湧水であることはすぐに分かった。
清らかで新鮮なだけでなく、森の霊気が溶けこみ、厳かで神秘的な空気を宿していた。
「よし、さっそくみそぎをしよう!」
ミコトは周囲をさっと見回して誰もいないことを確かめると、白衣と緋袴を脱いで木の枝にかけ、下着も脱ぎすてて一糸まとわぬ姿になる。
青月籠る国でもう一人の歩き巫女と別れてから二年、東風出ずる国を発ってからは七年もの月日が流れていた。
少年のようだったミコトの四肢は、すっかり円熟して女性らしくなり、胸元も腰も柔らかな丸みを帯びていた。
旅の間に鍛えられた健康的な肌が、白く輝く。
けれども、全身から発する無邪気な気配は十歳の頃とほとんど変わりなかった。
「ひとりですればいい」
そんな裸のミコトを、サチミタマは半眼で見下ろしていた。
「サチもするのッ!」
言うが早いか、ミコトはぴょんと跳びあがり、サチミタマに腕を伸ばしてその着物をつかむ。まるで猿のような跳躍だった。
これにはサチミタマも不意を突かれた。
空中に逃れるよりもはやくミコトに抱きつかれ、着物の帯をぐいぐい引っ張られる。
「サチの刀身もだいぶ穢れを吸ってるでしょ。ちゃんとみそぎしなきゃ」
「わかった。わかったから。らんぼうするな。バカミコ」
サチミタマは降参の意をまじえ、ふーっとため息をついた。
と、その全身が紅く輝く。
一瞬後には、赤い着物は消え失せ、サチミタマもまた裸身になっていた。
「うむ。素直でよろしい」
「バカミコにきものをぐちゃぐちゃにされるよりかはマシ」
満足げにうなずくミコトとは対照的に、サチミタマはぶすっとしてそっぽを向いた。
ミコトを警戒するように、泉の反対淵まで泳ぎ、髪を泉につけみそぎの儀を一人はじめる。
ミコトもそれにならい、冷たい水の中に全身浸かり、みそぎを執り行なった。
歩き巫女にとっての水行はただの水浴びではない。
鬼を斬り、穢れを吸ったその身を清める必要があった。
穢れは「気枯れ」にも通じる。
穢れを蓄積することで霊力を失い、鬼と対峙できなくなる。
だから、神気溢れる泉は、貴重な存在なのだ。
そのままに行き過ごしてしまうのは惜しかった。
が、その神秘的な空気を乱す気配が、幾つも泉の周囲に現れ始めた。
「む……」
ミコトの顔に緊張が走り、眉根を寄せた。
サチミタマもそっとうなずく。
「かこまれてる」
「うん。ちょっとめんどいかな、これ」
ミコトは素早く泉から上がり、木の枝にかけた巫女装束を大慌てで着直す。ずぶぬれの身体に下着が貼りついて気持ち悪かったが、そうも言ってられない状況だった。
「べつにおにはミコのはだかなんてきょうみないとおもう」
「もー、うっさいなぁ。自分はぱっと光ればいいからってー」
そのミコトの言葉に応じるように、再びサチミタマは紅い光をまとった。
一瞬のちには、その姿は一振りの剣へと変じていた。
そしてまた、ミコトの巫女装束も大きく変形した。
小袖も緋袴も丈短くぴたりと肌に吸いつく戦闘用のものに変わり、ミコトの成熟した身体の稜線をくっきりとうつす。
くせっ毛の短髪だった黒髪が豊かに腰まで伸び、いずこから生じたのかは不明だがコチドリの羽根を思わせる髪留めがそれを結ぶ。
変身を終えたミコトはサチミタマの柄をしかと握り、周囲に警戒の目を走らせた。
街道外れた森の中。
そこにも鬼は出没するらしい。
それも、泉の周囲に現れた鬼たちは、いままでミコトが見たことない姿をしていた。
大雑把にいえば、雄山羊が直立しているかのようだったが、その全身は赤黒く、牙は研ぎ澄まされ、なにより節くれだった手足が醜悪だった。その数は五体ほど。
―――ルオオオオン。
鬼どもが一斉に吠えた。それはいかなる獣の声とも似つかなかった。
それが合図であったかのように、ミコトの表情からも先程までの油断が消えた。
すっと目を細め、鬼を一体ずつ静かに睨む。
「……いくよ」
一瞬、ミコトの姿が空気に溶けるようにかき消えた。
かと思うと、次の瞬間にはサチミタマの刀身が鬼の喉を刺し貫いていた。
数瞬遅れて、仲間を斬り殺されたことを知った鬼達が、一斉にミコトに躍りかかった。
いずれも人外の膂力と体格をほこる悪鬼達である。
だが、ミコトの動きはそれ以上に人並みはずれていた。
振り下ろされる腕を最小限の動きでよけ、かわし、銀光を閃かせてはすぐに次の鬼に向かう。
五体の鬼全てが地に伏すまで、ミコトはかすり傷一つ負うことがなかった。
ミコトの圧勝に見えたが、戦い終わるとミコトは荒く肩で息を吐く。
決して余裕のそぶりではなかった。
「みそぎやったすぐ後で調子よかったからいいけど、けっこう手強かったなぁ」
ミコトは自らがほふった鬼たちの傍にかがみこむと、黙祷を捧げるように瞑目した。
いままで鬼の死骸をかえりみることなどほとんどなく、すぐに魂送りの儀を執り行っていた。が、この頃は鬼を倒すことに言いしれない虚しさを感じるようになっていた。
―――全ての生命はつながりあい、支えあって生きている。
コチドリのひなを救った時、師匠から言われた言葉をミコトは思い出す。
鬼だけが、生命の輪の範疇におさまらない、その外にある存在なのだろうか。
歩き巫女になってすぐの頃は、そう信じて疑っていなかった。全ての鬼を倒すことが、生きとし生けるもの全てを救うことになるのだ、と。
疑いようなく鬼は邪悪な存在だ。
獣にはない、明確な悪意と憎悪の念を持っている。
その姿もまさしく化物としか呼びようのない異形のものだ。
けれど、その憎しみの念はどこからやってくるのか。破壊だけしかもたらさないとすれば、彼らはなんのためにこの世に生を受けたのか。自分は鬼のことを知らなすぎるのではないか。
鬼を滅ぼせば世界を救う薄明の巫女になれる、とはもう無邪気に信じてはいなかった。
この頃のミコトは自分や誰かが襲われた時か、人に依頼された時でなければ積極的に鬼と戦おうとはしなくなっていた。
ミコトは目を開き、地に横たわるその巨体をもう一度見やる。
その瞳はいずれも天を睨みつけるように見開かれ、慟哭するように口は歪んでいた。
―――なにがそんなに憎いの。どうしてそんなに悲しそうなの。
ミコトは物言わない死骸に、心の内でそっと呼びかけた。
「ミコ」
剣から女の子の姿に戻ったサチミタマに呼びかけられ、ミコトは我に返った。
己の内の迷いを払うように首をふり、ため息をつく。
「はぁ―――、魂送りしたら、みそぎ、やりなおさなくちゃだよ」
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