5-10
船尾の柵に下腹を深く持たせ掛けたバルタの眼前で突如として海面が津波のように盛り上がった。その水面下には黒々とした巨大な影。
ソルトの帆舟はなす術もなくその隆起に高々と持ち上げられたかと思うと次の瞬間、噴き出した水煙に包まれた。
まさか!
バルタが絶句すると同時に水煙が掻き消え、巨大ドラグイの黒い肌が露わになる。
そこに怪物の左眼が覗いた。
禍々しいほどに紅く染まった瞳。
ギラギラとした冷たい怒りを備えた眼光。
その悍ましさにバルタの背筋が一瞬にして凍りついた。
刹那、メリメリという不気味な音が鳴り響き、その巨大な顎門とソルトの舟は造作もなく真っ二つに破られてしまった。
そのときソルトは空を飛んでいた。
少なくともバルタの網膜にはそう映った。
二つ折りにひしゃげていく舟の舳先から勢いよく跳ね上がった彼は空中でなおも握り締めた銛の刃先を足許に迫り昇ってくる怪物の鼻先へと向けていた。
その表情に絶望の色はなく、奥歯を食い縛りながらも見開いた目に活力が満ち満ちていた。
波飛沫とともに徐々に落下し始めたソルトの肢体と銛の刃先。
舟を粉砕して、さらに突き上がっていくドラグイの顎門。
その双方がまるで引き寄せられるようにして重なっていく。
知らずバルタは心のうちで祈りを捧げていた。
女神ラティス様、どうか勇者ソルトに幸運を与えてください。
けれど……。
その願いが聞き届けられることはなかった。
血飛沫が飛び散った。
ソルトの身体は再び空高く跳ね上げられ、銛は彼の右腕ごと引き裂かれて別の方向に飛んでいた。
瞬間、バルタの視界はいきなり全ての色を失い、それまでの遅滞を取り戻すかのように早送りで光景が進んでいく。
ソルトの身体は空中で錐揉みしながら、やがて海に堕ちた。
次いでドラグイが勝ち鬨を上げるようにその巨体をしならせ、尾鰭で激しく水面を叩くとまるで海が爆発したかのような盛大な水飛沫が弾け飛んだ。
もはや邪魔者は始末したとばかりに怪物は悠々と大舟を襲ってきた。
船尾の甲板で力なく膝を着き、呆然とその光景を見つめていたバルタの目の前に巨大な顎門が開いた。その喉奥にポッカリと口を開けた暗闇は今でも目に焼き付いて離れない。
これで自分も死ぬのだとバルタは悟った。
けれど意外にも恐怖はなかった。
あの鬼神の如きソルトが敵わなかった相手だ。自分になす術などあるはずもない。
そんな諦観が全てを支配していた。
舟板が砕け散る破滅的な音が鳴り響いた。
空に目を向けると雲ひとつない晴れやかな青空が広がっていた。
少しだけ腹が立った。
ちぇッ、女神なんてちっとも役に立たないんだな。
雑言を込めて片目を眇めたそのときだった。
すっかり脱力して尻餅を着いていた身体が不意に力強く抱き起こされた。
「くそッ、バッカやろぉッ! しっかりしやがれッ!」
聞き馴染みのある声とともに左舷船首の方に肢体が引き摺られていく。
振り向くと必死の形相になったヨシアの顔があった。
その途端、シーソーが跳ね上がるように行く手の船首が青空に向いた。
そこにいた大勢の漁民が悲鳴と怒号を上げながら次々に海へと飛び込んでいく。
「ちッ、仕方ねえ!」
耳元でヨシアの声が響いた。
同時にフッと足許がなくなり、次の瞬間、バルタは海中で自分の体にまとわりつく気泡を眺めていた。
その後のことはあまりよく憶えていない。
とにかく自分の身を守ることだけで精一杯だった。
ヨシアに励まされながら後方に続く船団を目指して必死で泳いだ。
途中、あちこちで悲鳴が上がった。
それは戻ってきたドラグイの群れに捕食される男たちの声だった。
バルタとヨシアが一艘の小舟に拾われたのは奇跡だった。
また漂っていたソルトの遺体を見つけたのも偶然だった。周囲には舌なめずりをするようにいくつかのドラグイの背鰭が徘徊していたが、バルタとヨシアは怯える舟主をなんとか宥めて右腕を失ったその遺体を回収し、そしてなんとか無事に浜に生還した。
死者二十七名。負傷者は数知れず。
ドラグイ事変はムサシノの浜における未曾有の大惨事となった。
加えてドラグイの群れに蹂躙された湾内は海藻一本、貝ひとつ残されていない惨状で、貧しき漁村はたちまち飢餓地獄と化した。
当然、浜長と大婆様マルスは王宮と森に援助を嘆願した。
けれどその願いは虚しくも聞き届けられなかった。
折悪く、その年は森も例年にない不作に喘いでいたらしく、森長には救援は難しいと頭を下げられてしまった。また同時に王宮にも余剰の食料はないと突っぱねられた。
けれど、それでも分かち合う余裕が全くなかったとは言えないはずだった。
浜の住人達はその冷遇を恨んだ。
王宮も森も、もはや同胞ではないと胸に刻みつけた。
老人や子供が次々と飢餓に耐えきれずに死んでいった。
空腹に耐えられず子供の遺体を喰らった親が居た。
森の食糧庫に忍び込んだ男達は全て捕まり、王宮で処刑された。
やがて訪れた冬に暖を取る薪もなく凍死する者も多かった。
また、その阿鼻叫喚に悲観して首を括る者が続出した。
そして次の春が来る頃には浜民の数がおよそ半数にまで減っていた。
なんとか生き延びた者たちも心に深い傷を負っていた。
ようやく浜が平穏を取り戻し始めたのはここ数年のことである。
闇に包まれた岩礁でチリの名を何度も叫ぶバルタもまた胸に溢れるほどの悔恨を持ち続けている。
あのとき、あの瞬間、自分にできることは本当に何もなかったのだろうか。
化け物に敢然と立ち向かうソルトを少しでも援護することはできなかったのだろうか。
あるいは漁村の悲劇は全てソルトの蛮勇のせいだと口汚く罵る大人達に何か言い返すことはできなかったのだろうか。
英雄を疫病神に貶めることで臆病なだけの己を保身する奴らを見かけるとその度にひどく虫唾が走ったけれど、バルタは何も言えなかった。そんなことをすれば結託した浜民によって自身が疎外されてしまう恐れがあった。わずかな食糧を皆で分け合っていたその当時、無鉄砲は自分と家族にとって自殺行為に匹敵する行いだった。生きていくために仕方がなかった、というのもけれど結局は体裁の良い言い訳に過ぎない。バルタ自身も薄汚い保身を纏っていたのだと今も忸怩たる想いに苛まれている。
「チリィィィッ! どこにいるんだぁッ! 返事しやがれぇッ!」
いくら呼び叫んでも鼓膜を満たすのは岩礁に打ちつける潮騒だけだ。
バルタは思わず空を見上げて舌打ちを鳴らした。
西から東へと飛ぶように流れていく群青の雲の切れ間にわずかに星空が覗いている。
「畜生、せめて月が出ていればな」
そう呟いたバルタはそのとき、背後に微かな足音と気配を感じて振り返った。
そして走り寄ってくる二つの人影を認め、小さくため息を吐いた。
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