ロストテック・Tokyo

那智 風太郎

1. 星砂

1-1

 

 十七歳のチリはひとり浜にたたずみ、空を見上げる。


 月も風もない、いい夜だ。


 またたく星々が鼓膜にそっと囁きかけてくる。


 手には不思議な紋様が刻まれた石棒。


 これは剣だとザン爺は言った。


 はるか古代の石剣だというのだ。


 まさか。


 チリは星空に向けて鼻を鳴らした。

 


「チリよう。ダイバまで行きゃあ、もうちいとマシな魚が獲れるじゃろうが」


 煙が細く立ち昇る囲炉裏の向かいでザン爺が恨めしそうな声でこぼした。

 チリは板張の床に胡座を組み直し、貧相な焼き魚に噛みついているザン爺をジロリと睨む。


「無理だよ、じっちゃん。手漕ぎじゃ、いいとこタワアが精一杯さ」


「なんじゃ、情けない。タワアからダイバなんぞ目と鼻の先じゃろう。あのな、よう聞け。わしの若い頃はな……」


 あらかた前歯を失った口に魚を押し込んだザン爺がもう何百回も聞いた自慢話を始めようとしたのでチリはあわててその腰を折った。


「はいはい。櫓がスクリュに見えるほど漕いだもんだっていうんだろ」


「おう、そうじゃ。ダイバの潮なんぞ、あんなもんはわしに言わせりゃあ、ただの小川じゃ。ひひひ」


 妖怪のような声で笑う祖父にチリは憮然とする。


「まあ、昔はそうだったのかも知んないけどさ。いまはもう無理だよ」


「そうじゃのお。もう無理じゃなあ」


 ザン爺は肩を落とし細くなった二の腕を寂しげに見つめた。

 どうやらまた勘違いをしているらしい。


「いや、そうじゃなくてさ」


「老いとはむごいのう。近頃はかいはおろかくわを持ってもすぐに息が上がる」


 煙の燻る天井に遠い目を向けたザン爺はそこで大きく嘆息した。


「じっちゃん、あのさ……」


「だがしかし、慰めなどいらん。朽ちてもこのザンジバル・アオタガワは孫に哀れみを受けるほど耄碌してはおらんぞ」


 一転、カッと目を見開いて睨みつけてくる祖父にチリは呆れて、ただ力なく首を横に振った。


「だから違うんだって、じっちゃん」


「なんが違うか」


 シワだらけの頬を膨らませたザン爺がさらに唾を飛ばしたので、チリは仕方なく説明を始めた。


「だからさ。ほら、何度も言ってるだろ。十年ほど前に沖岬の海流の向きが変わったんだよ。それで外海の潮がダイバの沖まで入ってくるようになってさ。俺も大舟に乗せてもらって行ったことあるけど、虹橋の辺りじゃ大きな渦がいくつも巻いてる」


「なんじゃい、渦のひとつやふたつ」


 その物言いにチリは顔をしかめる。


「あのね、ひとつやふたつどころじゃないし、下手すりゃ大舟だって呑まれるほどでかいのだってあるんだ。あれじゃうちの小舟なんかあっという間に海の藻屑さ。きっと若い頃のじっちゃんでも無理だよ。なんならヤチマグロの大トロを賭けたっていい」


 チリが勝ち誇ったように腕組みをすると、ザン爺は途端に不貞腐れてそっぽを向いた。


「ふん。そんなもん、獲れもせんくせに」


「ま、そりゃそうだね。ヤチマグロが入ってくるのもせいぜいダイバの沖までだし」


 チリは短く笑い、そして小さなため息を吐いた。


「それこそモタルでもあれば、なんとかなるかしれないけどさ」


 ザン爺の仏頂面を横目にそう呟くと、なんとなくそれが負け惜しみになった気がして、チリは木椀に残ったつぶ貝の雑炊を無造作に掻き込んだ。


 べた小枝がパチパチと小さく爆ぜた。

 煙が燻り、夕空を切り取った格子窓の向こうに流れていく。

 沈黙が遠い潮騒を耳に届ける。

 すると微かな感傷が不意に訪れ、チリの胸をチクリと刺した。

 夕暮れは嫌いだ。余計な記憶が像を結ぼうとする。


 それを振り払おうと潮くさい頭をボリボリと掻くと、そのときザン爺が雑炊を啜る音が盛大に響いて残像は霧散した。


 チリはフッと息を吹き、鉄鍋に残っていた雑炊を杓子ですくった。


 そして夕焼けなど早く消えてしまえと心のうちで唾を吐いた。

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