最終話 「僕と、恋から始めないか?」
彼は傷ついた顔をした。
「なぜ拒む?」
「あ、あなたが素敵すぎるからです! もったいない! 私じゃあなたを活かしきれない! 採用を決めたときだって、こんなハイスペックな人材がウチに来るなんてあり得ないって思ってたのに」
一生分のお金を稼いだから、遊びのつもりで入社してきたんじゃないかと思った。
入ったら入ったで、あんまりにも仕事が優秀だから、社長の座を狙ってるのかな、なんて少し警戒したこともあった。杞憂だったけど。
でも、動機が、私?
「なのに、わ、わた、私が好きだから、どうとか、ない。絶対におかしい」
混乱する私を、彼はふわりと抱きしめてくれた。優しいオーデコロンの香りがする。
「恋愛に臆病になっていることはよくわかった。焦れて押し倒したことも申し訳なかった。時間をかけよう。君が僕を心身ともに受け入れたいと思えるように努力をする。――だから……僕の想いを否定しないでくれないか。拒みたい気持ちはわかるが、勘違いなどではないんだ」
離れて、目が合う。顔が近い。潤んだ彼の瞳には、泣き出しそうな私が映っている。
「――好きだ。君が好きなんだ」
顔が近づいてきて、思わず目を閉じる。でも、唇にはなにも触れなくて、代わりにおでこに熱が触れた。
「大事にしよう。僕と、恋から始めないか?」
再び目が合う。
「私で……いいんですか?」
「君がいいんだ、
苗字じゃない。彼に名前を呼ばれて。
ああ、私、彼が好きだ。好きなんだ。
高鳴る胸を押さえながら、確信する。この人となら、先に進めるって。
「わ……わかりました。
「君も名前で呼んでくれないか?」
恥ずかしい! このシチュエーションで、名前を呼んでいい、の?
音にするのが躊躇われて、私は唇をもごもごと動かす。
「聞こえないなあ?」
そう促されると、全身が熱くなってきた。真っ赤になっている自信がある。今日の衣装がドレス姿だったら、それこそ真っ赤に染まっているのが明白だっただろう。スーツスタイルでよかったと日頃のコーディネートに心底感謝した。
「ちゃんと呼べないと、了承したことにはならんと思うんだがなあ、梓さん?」
「い、言い慣れないんですっ、職場では苗字で呼ぶでしょう⁉︎」
抗議すると、彼はハッとした顔をする。
「まさか、僕の名前を知らないわけではあるまいな?」
流石にその煽りは、私の代表取締役としての矜持にぶっ刺さった。馬鹿にされたようで腹が立つ。
「ウチの社員の名前くらいフルネームで呼べます! 大門寺
ヤケクソになってフルネームを叫んでやれば、章則さんはパッと明るい笑顔を作った。
「うはは! 今日はそれで勘弁してやろう」
「ってか、立場が逆になってると思うんですけど。別に私、あなたと付き合いたくてこのやり取りを始めたわけじゃなかったはずなんですけどね⁉︎」
「いいじゃないか。慣れるまではフルネームで呼んで構わないぞ。章則と呼べるようになったら、関係を進めていこうか」
呼び捨て……ってこと? 名前だけって、一生かかっても無理そうなんですけど。だって、尊敬してるし憧れている人なんだよ? 心の中でさえ、名前で呼ぶのは憚られると思っていたくらいなのに。
「ええ……せめて、さん付けじゃ」
「その気になったときに呼べばいいさ。僕は急がない。やっと見つけた愛せる相手を傷つけるのは不本意だからな」
そう告げたところで、章則さんの腕時計から小さな音が響いた。アラームのようだ。
「――さて、第二部が始まる時間のようだが、君は部屋を出て行くのかい?」
逃げるのは自由だとばかりに章則さんは立ち上がって、私にドアへの道を開けて示す。
この人はズルい人だなあ……
私は自分の首に触れる。忘れてなんかいない。章則さんに吸われた場所を指でなぞった。私からは見えないけれど、きっとそこには赤い痕が残っている。
どこまでが章則さんのシナリオなんだろう。大きく息を吐いた。
覚悟を決めるとき……かしら……?
「私がここに残るって言ったら、章則さんは一緒にいてくれるんですか?」
尋ねたら、章則さんは目をまんまるく見開いた。そのあとでパチパチと瞬き。まつ毛が長いから至近距離じゃなくてもびっくりしているのがよくわかる。
伝わっただろうか。
たっぷり間があって、章則さんは笑った。
「うはは! そりゃあもちろんだとも」
「じゃあ、もう少しだけ……よろしくお願いします」
誰にも邪魔されないなら、少しだけ、私は私になりたい。
一歩踏み出して。章則さんの大きな手に自分の手を重ねて。ぎこちなく指を絡めて。
恋の始まりってこれでいいんだっけ……?
そうして、私は目を閉じたのだった。
《終わり》
僕と、恋から始めないか? 一花カナウ・ただふみ @tadafumi
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