玩具の逆襲

木野恵

復讐

 殺人予告、爆破予告、脅迫、車関連の動画での炎上から違反者としての検挙、自殺者の多発等により、インターネットの規制が厳しくなった未来での話。

*この物語はフィクションです。


「今日もいい獲物がいねえもんか」


 冷房を効かせた小さな部屋に、カタカタと軽快な音を立てながらキーボードで検索ワードを打ち込む中肉中背の男がいた。

 部屋の中は冷房の音とキーボードの音以外に、PCのファンだけが鳴り響いていて、図書館のような静けさだ。それに反し、外ではセミがけたたましく鳴きちらし、車が勢いよく飛ばしている音が響き渡っている。時折聞こえるクラクションが、元から耳障りな音をいっそう掻き立てる。まるで、人の神経を逆撫でするためだけに作られた一曲のようだ。


 ディスプレイを一生懸命見つめている男は、涼し気な表情をしながら様々なニュースを読み漁り、SNSを巡回する。


 どれほどの間そうしていたのだろうか、外から差し込んでいた日差しをカットしていた、勤勉なるカーテンが透けて見えなくなった頃、男は目頭を押さえながら背もたれに身を預け、続いて両手を上に伸ばし、うんと体も伸ばす。

 今日の収穫はなしだ。


 インターネットの規制が厳しくなり、発言に注意する輩が増えた。

 政治家や研究者、芸能人等をネタに、面白おかしく――といっても、ネタにされた標的を、更なるネタにする人間にとっての面白さだが――記事を書く記者たちすら、発言に気をつけ、慎重に慎重に発信しているほどの世の中だ。


 ある意味、それは平和で良いことかもしれない。

 だがそれで本当にいいものかと、男は深く息をつきながら考える。

 なぜこの男はそこまでネタにこだわるのかというと、隠したい秘密、他者を踏みつけにしてでものし上がりたい野望があったからだ。


 あるときは動画を作り、あるときはクソコラを作り、またあるときは特定に協力をしたり、まとめを作って拡散したり、いわゆるバズったという状態に味をしめてしまったのだ。

 一般人でもネットで有名な人をネタにまとめて拡散したりもした。


 だがそれももう潮時か……。

 そんなことを思いつつディスプレイの電源だけを落とす。

 腹ごしらえをして風呂に入ったら、また張り付くつもりなのだ。


 インターネットの監視が厳しくなってどれくらい経っただろうか。

 拾えるネタはなく、次の踏み台もなく、面白い記事もなし。

 法律や監視が強化されたくらいで、そんなに早く人間が改心できるとも思えない。誰かしら馬鹿をやる。誰かを傷つけずにはいられない、誰かの噂話を――良し悪し関係なく――止められるはずがない、そんな生き物だと思っていたのだが……。

 湯船に浸かりながら考えを巡らす。

 ネタにありつけず、フォロワーが減っていくばかり。リーク情報もない。さすがにそろそろ我慢の限界がきてしまいそうだ。


 ザバァッと音を立てながら風呂を後にする。

 栓の抜かれた風呂から流れ落ちていくお湯の音を聞きながら体を拭き、考えを巡らせていく。

 何かいい方法はないものか、と。


 部屋に戻り、特等席へ座る。もちろんディスプレイの前のことだ。

 男はディスプレイが光るやいなや、飛びつくかのような勢いで立ち上がり、前のめりになる。

 メッセージ通知が来ていた。

 おいしくて面白い情報かもしれないという期待に胸を踊らせながら、メッセージに目を通していく。


「こんにちは。唐突なメッセージ失礼いたします。私、あなたの長年のファンをしております、○○と申します。今日メッセージを送らせていただいたのは他でもなく、あなたにとっておきの情報を持って参りました。こんなご時世なので、ネタにするのも危ぶまれますが、とても大きな情報です。まずはこちらのURLから私が撮影した動画をご覧ください」


 ウィルスの可能性も視野に、慎重にURLを調べる。

 どうやら、大手動画サイトにアップされた動画らしい。URLはそこに通じるものだとしっかり確認し終え、URLをクリックし、閲覧する。


 映っていたのは、その辺にありそうなビルだった。

 廃ビルというわけではないらしく、普通に人の出入りがあるビルだ。

 撮影者がビルの出入り口をアップしていく。見覚えのある見た目をした人間が多数映り込んでいた。あれは確か……。


 記憶を辿り、思い当たった頃には「あっ」と声がでた。

 自分が今までネタにして踏み台にしてきた人間たちがそこに集まっているのだ。

 一体どういうわけだ……。胸騒ぎが止まらない。


 コンコン。

 ドアをノックする音が聞こえる。心臓が早鐘を打ち、このままベランダから逃げ出すか、素直に玄関へ向かうかという選択を迫られる。


 コンコン。

 二度目のノック音だ。意を決して玄関に向かう。

 ドアまでの廊下が酷く長いように思えた。ゆっくりと息を吐き、ドアアイから外を見る。


 片手で持てるくらいのダンボール箱を持った配達員がそこにはいた。


 胸をなでおろし、それでも念の為、ドアチェーンをかけたままドアを開ける。


「こんばんは、郵便です。宛先はこちらで間違いございませんか? よろしければこちらにサインをお願いします」


 何かを注文した覚えはない。

 差出人には見覚えがあるような気がするが、心当たりもない。

 ただ、宛先だけは自分で間違いなかった。

 そのことを話そうかと思ったが、あるネットショッピングのサイトで注文してから長い間届いてない品物があった気がするので、おそらくそれだろうと思い込み荷物を受け取る。


「どうも、ありがとうございましたー」


 元気そうな配達員の声が玄関に響き、軽い足取りで立ち去っていった。


 箱に耳を当ててみる。変な音はしない。軽く振ってみるがカサカサとかすかに音が聞こえるだけだ。重くはない。

 一体何が入っているのだろう。


 箱を開ける前に、ネットショッピングのサイトで注文した履歴を確認する。あった。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 まだ届いてない品物が三つ見つかった。

 他はすべて届いている。あとは差出人を照合していくだけだ。

 一つ目も二つ目も違い、だんだん鼓動が早くなってくる。おそるおそる三つ目の名前も見るも、名前が合わないではないか。


 じゃあ、いったいこれはどこから。


 ふと、さきほど観ていた動画が頭に浮かぶ。

 急いで最初から再生してみると、ビルのエントランス部分に書いてある名前と一致するではないか。


 心臓をギュッと掴まれたような感覚に襲われる。息が苦しい。

 嫌な汗が額から流れてくるのを感じる。

 急に不安な気持ちに見舞われ、思わずベランダや風呂場、家のあらゆるところを確認するが、監視カメラも誰かが覗き込んでいることもなかった。


 額の汗をぬぐい、ゆっくり、慎重に開封していく。

 ちょうど動画を観たタイミングで届いたことが不気味さを増していた。

 手が震えて、うまくダンボールを開けることができない。震えているだけならまだしも、力もうまく入らないのだ。


 ようやく箱を開け中身を見てみると、とても分厚い便箋が一つと、DVDが一枚封入されていた。DVDは割れないようしっかり固定されている。

 便箋を開けてみると、中には手紙が入っていた。

 パンパンになるほど一つの便箋に詰め込む理由がわからなかったが、読み解いていくことにした。


 なんと、すべて白紙の手紙だった。

 文字も何も書かれずに5枚も入っていたのが不気味だった。

 慎重に、不安な気持ちを抑えながら開封していただけに、少しイラッとしながら、DVDを再生してみる。


 DVDは先程の動画の続きを映しているようだった。ビルの中でカメラを回しているらしい。

 固唾を飲みながら再生していく。

 最近ニュースで話題の芸能人やアナウンサーたちが次々と入っていく部屋が映る。

 名前も表記されており、そちらもしっかり撮影されている。しかし、肝心要である部屋の中が映されそうになった途端に録画が切れた。


 映画が良いところで終わり、続編に期待といったような終わり方に似ていて、非常に歯がゆいものだった。

 先程までの恐怖や不安は消し飛び、調べたい、見たい、まとめたい、拡散したいといった欲望が心の大半を支配していた。


 しかし、こういった手段で送られてきたのには、何か訳があるに違いない。インターネットの監視はえげつないとよく聞く。

 これは現地に自ら出向くしかない。


 ビルの名前を検索すると、すぐに出てきた。

 調べるのに苦労するかと思っていたから拍子抜けである。実在するかどうかすら怪しんでいたのだ。

 どうやら、いろいろな企業がこのビルの中で活動しているらしい。

 映っていた部屋の名前を調べてみる。

 HPはなく、電話番号の表記もなし。

 何をしている企業なのかさっぱりわからなかったが、場所はしっかり把握した。

 電話で解決できるかもしれないと思ったのだが、やはり出向くしかないようだ。

 今日はもう夜遅いので翌日の予定を立てていき、寝床にはいった。

 遠足前に似た気分でなかなか寝付けなかったが、少し疲れていたらしく、いつの間にか眠り込んでいた。


 翌朝。

 夜更ししてまでディスプレイとにらめっこしないのは久々のことだったからか、とても早い時間帯で起きることができた。

 支度をし、始発に乗る。

 電車に人はほとんどいなかった。


 例のビル前まできた。

 ちょうど、社員が出社してきている時間帯のようで、人が忙しなく出入りしている。

 忙しそうではあるが、動画で観たように受付へと向かう。


 小綺麗で小柄な可愛らしい女性が受付をしていた。

「おはようございます。どのようなご用件ですか」

 服装と顔を見て、社員が首から下げている社員証がないのを素早く確認された後に出てきた質問だとわかった。

 目視でしっかり確認する時間がとてつもなく早くて感心する。

「お尋ねしたいことがあって参りました。こちらに○○という企業はございますでしょうか」

 名前を聞いた途端、女性は少し警戒したように思えたが、笑顔を崩さず丁寧に案内してくれた。

「エレベーターから○Fへおこしください。こちらに入館時間とお名前、目的階のご記入お願いします」

 なるほど、動画で見覚えのある人物たちが受付に向かっていっていたのは、こういうシステムだったからかと思いながら名前と時間を記入していく。

 書き終えると、受付の人が素早く確認していった。


「○○様ですね。ご来館ありがとうございます。お気をつけていってらっしゃいませ」

 名簿を確認した途端、態度がガラリと変わった。

 先程までのビジネススマイルは薄気味悪くなるような笑みに置き換わっていた。

 戸惑いながらエレベーターへと向かう。


 すでにたくさんの人がエレベーター前でたむろしていた。その中に自分がネタにした人間はまだいなかった。

 ドアが開き、人が雪崩れ込んでいく。

 各々が行きたい階をスイッチ付近にいる人に告げていった。

 自分が行きたい階と同じ人はおらず、しぶしぶ○階でというと、全員の注目が集まり、少しだけひるまされる。


 目的の階で降りるときは、ひそひそと話されているのを背中に感じながら降りた。

 一体何があるというのだろう。


 DVDで観たのはエレベーターを降りてからだったらしく、観た順に進んでいく。

 部屋にたどり着くまで誰ともすれ違わなかったのが、不気味さを掻き立てていった。


 心臓が高鳴る。

 インターフォンがついていたので、付属のチャイムを鳴らす。

 しばらく経っても返事が聞こえない。

 もう一度鳴らそうかと思ったその時、音を立ててドアが開き、中から無愛想な女が顔をだす。


 何のためのインターフォンなんだとツッコミを入れそうになりつつも、平静を保って、はじめましてと挨拶し終わるまでもなく、部屋の中へ招かれた。


 あれ、何も聞かないで大丈夫なのか、この女。

 部屋に入ると衝立がたくさんあり、机と椅子1セットずつで区切られた個室もどきになっていた。


「こちらへどうぞ」

 無造作に椅子を引いて座れと顎で指示される。


 すごく無礼で横柄なやつだ。というのが素直な感想だった。

 案内された席は、窓際にある1セットの個室もどきだった。反対側の席に座る人が入り込む隙間がないのに、どうやって座るつもりなのだろうか。


 座ってからしばらくしても誰も来ないので――入る隙間がないから当然なのだが――さすがに少し退屈してきた。

「すみません。あとどれくらい待てば良いですか」

 振り返ると、いつの間にか椅子の後ろにまで衝立がされていた。持ってきて置かれたような音など一切しなかったというのに。

 今、自分が置かれている状況にも鳥肌が立ってくる。気が狂いそうにもなりつつある。

 そうだ、こういうときはこれだ。

「トイレ、トイレにいかせてほしいんです。この衝立をどかしてください、お願いです」


 しかし、返ってきたのは大きめのペットボトルだけだ。

 衝立の上を飛び越え、机の上に落ち、けたたましい音をならしながら跳ね回る。

 さすがに頭の血管がきれた。

「おい、いい加減にしろよ! ペットボトルにしろっていうのか!? 頼むから開けてくれ!」


 押せば勢いよく倒れて抜け出せるのではないかと思い、体当たりをしてみたがびくともしない。しっかり固定されているらしい。

「頼む! 出してくれ! 出してくれ!」

 勢いよく衝立を叩くが誰からも返事はない。返事の代わりに画鋲が降り注いできた。

 反射的に下を向いて目を守る。

 じっと動かず画鋲が深く刺さるような余計な動きはしないで、目を瞑って亀のように耐えた。


 画鋲の雨が止んだらしい。

 恐る恐る目を開け、そっと上を見る。何もない。

 何の変哲もない天井に照明がついているだけだった。

 大人しく椅子に座って待とうと机に向き直ってみると、見知らぬ男がニヤニヤと笑いながら向かいの席に座っていた。向こう側の背後は窓ガラスで変わりない。


「やあ、いらっしゃい。君は玩具で遊ぶのが好きだった子、いや、今も遊んでいる子だね?」

 ニヤニヤとチェシャ猫のように笑いながら語りかける男は、不愉快極まりなかった。人を子供扱いして。

「そういうあなたは誰なんですか」

 怒りをほんの少しだけ出しながら返事をすると、男はニヤニヤとした笑みを崩すことなく答えた。

「僕はおもちゃ屋さんが大好きでねー。特におもちゃを大切に扱う子が好きなんだー。乱暴に遊ぶ子が多くて悲しいんだー。君は自分のことどっちの子だと思ってるんだい?」

 話にならなかった。出ていきたいが出ていくことはできない。

 こんなことなら家でゆっくりしていればよかった。


 目の前の男は無視することにして脱出する方法を考える。

 ここはとても飛び降りられるような高さじゃない。

 目の前の男を無視して窓ガラスに突撃しても死ぬだけだ。

 唸りながら考えていると、抜け出すのは、やめにしてお喋りしようなんて声をかけてくるのだから集中しづらい。


「君はいっぱい玩具を持ってたんだって知ってるよー。つい先日、ここにその『玩具』たちがやってきたんだー。君はみんなのことどう思ってたのかな? 彼らは君のことどう思ってたか知りたくないかい? どうかな、おしゃべりしてくれる気にはなったかなー?」

 ニヤニヤと笑いながら上目遣いでこちらを見てくる。

 薄気味悪いが、内容に心当たりがないわけでもなかった。

「それってどういう……」

 胸騒ぎがする。

 この男は最初から知っていたということだろうか。今まで自分がネタにして美味しい思いをしてきた、そのネタのことを。

「君の中では玩具じゃないんだろうけど、君は彼らを玩具にしてたんだ。飽きたらすぐ捨てちゃって、また新しい玩具探し! いくつになっても玩具遊びが大好きな子はたくさんいるからねー」

 とびきりニンマリと笑いながら、椅子から立ち上がった。

 その男は座っていると猫背で全然気が付かなかったが、かなりでかかった。2mはあるだろうと思える背の高さだ。

「悪い子にはお仕置きするのが僕たちのお仕事なんだ。『玩具』にされちゃった子たちから、いっぱいお話を聞いたよ。中でも君は飛び抜けて最悪だったみたいだねー。だからフィッシングしたんだ! 釣り堀でお魚さんを釣るようにね。そんな玩具、あったの知ってるかなー?」

 背筋が凍る。一体今から何をされるというのだろうか。


「私としては、ゴキブリホイホイのつもりでしたけどね、社長」

 衝立越しに声が聞こえた。さっき部屋に案内してくれたあの女の声だ。

「早くここから出してくれ!」

 悲鳴にも近い叫び声を上げると、上からたくさんの黒い何かが降ってきた。

 それが何であるか分かる前に嫌悪感を催すシルエットと動きをしていて、正真正銘の悲鳴をあげた。


「ゴキブリはゴキブリと一緒にでも遊んでな」

 女の冷たい声が暗闇の中で反響する。

 いつの間にか、ガラス張りの檻にいれられていた。

 あたり一面真っ暗闇の中、自分の入っている檻だけがライトアップされている。

 ガラス越しに、社長と呼ばれたあの男がニヤニヤしながら立っていた。

 顔だけ光を受けて浮かび上がっている様は、その男の不気味さを強調している。

「君さ、一生懸命『玩具』を探していたけど、どうして見つからなかったかわかるかなー? 僕が全部取り上げたんだ! さーてどうやったかわっかるっかなー?」

 楽しそうにしながら問いかけてこられても、答える精神的余裕がなかった。

 あちこち這い回るゴキブリ。ガサガサの足の感触が気持ち悪い。口や鼻、耳に入られまいと必死で抵抗する。


「あれねー。君のことを特定してさー。君だけ平和な検索内容が映るようにしていたんだー。テレビで喩えたら、某番組以外映らなくなるような感じだよ! どうだった? どうだったー? 嫌なニュースに暴言、悲しいこと怒ることを見たくないって人のために作った玩具だったんだけどー。希望した人は、心が穏やかで綺麗になりそう! って笑ってくれた玩具だったんだけどー。君はそうでもなかったみたいだね。あはは」

 笑いながら、ガラスを這おうとしているゴキブリのいる部分にデコピンして刺激を与える。衝撃を受けて少し吹き飛んだゴキブリが服につく。


「ぎゃああああ」

 口に入りそうなのが嫌で閉じていた口が、思わず開いて叫び声を漏らす。

 慌ててしっかり口を閉じて、必死の攻防を続ける。


「君たちっていつも玩具で遊ぶ側だからさー。いつか、遊ばれる側になって、飽きられて、捨てられて、玩具の気持ちがわかればいいのになーなんて思ってたんだー。でもね、誰も同意してくれなくてさー。仕方ないからおもちゃで遊ぶ悪い子を懲らしめる方針にしてみたんだー。そしたらいっぱい同意してもらえたんだよー! どうして対象が物と人だと意見が違っちゃうんだろうねー。変なのー」


 狂ったチェシャ猫男に弄ばれながら、涙を目にいっぱい浮かべる。

 いつの間にか、裸足になっていた足でゴキブリを踏むのはためらわれたが、一匹ずつ確実に踏んで殺していく。嫌な感触が足の裏にこびりつき、嘔吐しかける。


 ようやくすべてのゴキブリを潰した。

 こんな場所で吐いたら自分の吐瀉物の匂いで無限ループしそうだ。必死に戻しそうなのを我慢する。

「あーあー、君のお仲間さん全部死んじゃったね」

 ニヤニヤしながら悲しそうな目をするのを、怒りで真っ赤になりながら罵倒する。

「この腐れ外道が! ネジの外れた狂人め! 俺がなんか悪いことしたのかよ! ネタにしてきたやつらは当然の報いを受けただけだろうが!!!」

 それなのに、こんな不当な扱いを受けるなんて!

 怒りで腸が煮えくり返る。俺は何も悪いことしてない! 面白いことを更に面白くしていただけだ!


 息を荒げながら男を見やる。

 相変わらずニヤニヤしながらこちらを見るその男の目は、ギラついているように見えて一瞬ひるまされた。

「でも、『玩具』じゃなかったんだよー。人だったんだー。どんな悪人でも、どんなクズでも、どんな偽善者だって一人の『人』なんだよー。遊びにはルールがあるように、社会にもちゃんとルールがあるんだ。君はルールを判定する審判でも、裁量を決める裁判官でも、執行する刑務官でもなくて、おんなじ人、プレイヤーなんだよー。プレイヤーがいきなり審判たちになれると思ってるのかなー? それなのにいっぱい『玩具』を勝手に作っちゃってー。悪い子だなー。そうだ、玩具になろう!」


 そいつが指をパチンと鳴らすと、部屋が暗転した。

 再び明るくなったと思えば、体の自由がきかない。

 動く部分があるとすれば自分の目だけだ。

 キョロキョロとあたりを見回す。

 自分の家に戻ってきたのだろうか。見慣れた部屋が広がっていた。

 訝しみながら目を上に向けると、天井の代わりにあの男の大きな顔が覗き込んできているではないか。

「ひっ」

 そこでようやく自分の置かれた状況に気がついた。

 どうやら、自分の部屋と同じ構造をしているミニチュアハウスの中にいれられているらしい。

 目だけを動かしてあちこちみても、自分の部屋そのものだったので間違いない。

 声も出せるということに引きつった叫びを上げてから気付かされたが、そんなことを把握してどうするでもなく、ただ座らされているだけだった。


 どうにかして体を動かせないものかと必死で力を入れたり意識をしてみるも、微動だにしない。

 そうしているうちに、男が手を伸ばしてきた。体をふんわりと持ち上げられる。

「お人形さんになった気持ちはどうかなー? そうだ、あんまり可哀想だから、教えてあげるとね、君はこれから僕に飽きられて捨てられちゃうんだ! 君が新しい玩具を探しにいくように、僕も新しい玩具を探すんだー。今度はどんな悪い子が見つかるか楽しみだなー。じゃあねー!」

 そう言い終えると、ほっぺに軽くキスをして部屋にもどされた。

 気持ち悪くて拭き取りたいが体が動かないので拭き取れず、声を上げても誰もこない。ただ一人、ポツンと部屋そっくりな場所でじっとしているしかなかった。

 いつしか長い眠りについた。


 一体いつから眠っていたのだろうか。

 放置されてどれくらい経ったかわからなくなったある日、自分の体が動くようになっていたことに気付かされた。

 体は五体満足、視力も正常だ。しかし、これといって意欲がない。

 PCの電源はきられていた。いや、出かけるときに切ったのだったか。はっきりと覚えていないが、つけようという意思はなかった。

 ベランダの方を見やると、カーテンの隙間からガラスがちらりと顔を見せている。

 ゴキブリがフラッシュバックし、悲鳴を上げかける。

 続いて嘔吐しそうな感覚に見舞われ、急いでトイレに駆け込み、吐こうとするも、何も入っていない胃からは何もでなかった。

 満身創痍になりながらトイレから部屋に戻り、カーテンで慌ててガラスを隠す。なにかの衝撃で隙間から見えないよう、洗濯バサミまで使って徹底して閉めた。

 落ち着きたくてベッドに座り、深呼吸する。

 ああ、自分の体だ、ちゃんと動く。

 ただ、体が動いて自分の足で歩ける。それだけで十分楽しくて満足できてしまうのだった。それだけで……。

 今までのことはきっと悪い夢だったんだ。これからまた、平穏な生活を送ろう。


 ベッドに仰向けになって寝転び天井を見上げると、荷物に入っていた白紙の手紙が5枚、ブラックライトで照らされていた。

 手紙には「ゆ」「る」「さ」「な」「い」とデカデカと書かれているのが浮かび上がっていた。

 背筋が凍るとともに、天井がパカッと開く。

 なくなった天井の向こうに、あの男のニヤニヤしている顔が現れた。

「やあ! おはよう」

 男の後ろでネタにしてきた人々が、蹴落とし踏み台にしてきた人々がわらわらと覗き込もうとしているのが見え始め、男の顔は青ざめていった。

 悪夢が終わったと思えたのは気のせいだったのだ。

 本当の悪夢、いや、地獄はこれからだ。

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玩具の逆襲 木野恵 @lamb_matton0803

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