第4章5話 揺れる天秤

 暖炉の炎がパチパチと爆ぜる。


 談話室のテーブルを、五人の人間が囲んでいた。

 メルの主人だったザイス・ベリウザール、その隣にザイスが雇った大剣使いのバヤン、反対側の席に、真ん中のメルを挟んでアスターとパルメラがそれぞれ陣取った。



「──そうか、名前までもらったのか。メル。メル、か……。いい名前だなぁ」


「は、はい……ご主人様」



 商人のザイスは上機嫌で、その隣のバヤンは寡黙かもく。仏頂面のアスターとうろんげなパルメラに挟まれて、メルはどうしていいかわからずに、緊張のあまりカチコチになっていた。


 目の前にいるのは、自分を亡者の中に置き去りにした主人なのだ……。



「ん? なんだ、この石版は。おまえが書いたのか?」


「あっ。違うんです。これは、その……」


「あの文字が書けなかったおまえが、こんなに上達したのか……! 偉いぞ、メル」


「……え……」


「亡者どもの中から助けてくれて、文字まで教えてくれて……──アスターとやら、何から何まで世話になった!」



 はたして、アスターが亡者も凍え付かせるような眼光でギロリとザイスをにらんだ。



「世話になった……ね。こいつを亡者どものエサにして助かろうとしたヤツが今更……」


「ちょ、ちょっとアスター……?」


「アスターの言うとおりやで。いくら奴隷やからってやっていいことと悪いことはあるやろ。どのツラ下げて主人面するんや。同じ商人の風上にも置けへんわ」


「パルメラさんまで……」



 一色触発の空気に、メルは青くなった──が。



「亡者どものエサにだって? とんでもない! 大事な謡い手をそんなふうにするもんか。年月かけて育て上げた自慢の『娘』だ……!」


「……え……」



 顔を真っ赤にしたザイスの言い分に、メルは耳を疑った。

 年月かけて育て上げた自慢の「娘」……?



「何……言ってるんですか、ご主人様。あの日、私を、亡者の中に見捨てて…………」



 ──二度と、戻ってこなかった。

 ……本当に?


 亡者の中に取り残されたあの日、メルはあの場にとどまってはいない。アスターに助けられて、気が付いたときには、リバーズの町の宿屋にいた。

 逃げ去った主人たちの馬車が引き返してくれたかどうか、……知らない。


 ザイスの目に涙が光った。

 大切な「子ども」が生きてくれていたことの、喜びに濡れて。



「バカなことを言うな。おまえがいないことに気付いて、ちゃんと馬車を引き返したさ……けど、俺たちが引き返した頃には、もうどこにもいなかった。てっきり亡者どもに食われたんだとばかり思ってた……生きててくれて、どんなによかったか……!」


「……捜して、くれて、た……?」



 その言葉は、メルの凍てついていた心を溶かして揺り動かした。涙が出そうだった。ずっと見捨てられたのだとばかり思っていた。


 今でも、夢で見てうなされる。

 無情な空。乾いた荒野。亡者たちの慟哭どうこく土埃つちぼこりをあげて逃げていく隊商。──亡者の中に、自分を置き去りして。


 命の危険にさらされながらも、そのとき、メルは確かに安堵あんどした。

 よかった、ご主人様たちが逃げられて……。

 ……でも。

 …………でも。

 本当は……──


 自分の死を惜しんでほしかった。きちんと仕事やくめを果たしたのだと、認めてほしかった。……ただ、振り向いてくれないことが、さみしかった。

 亡者の中に置き去りにされたことなどよりもずっと……悲しかった。


 主人と奴隷であってもかまわない。メルを育ててくれたのは間違いなく、このザイスなのだ……。


 アスターは、なおも食い下がった。



「……他の子どもたちは? みんな、あんたらを亡者どもから逃がして死んだんだろう?」


「あの子らには本当に悪いことをしたと思っている。だが、この国の子どもの死亡率の高さは知ってるだろう? 子どもだけじゃない。亡者がはびこる中で旅をしてるんだ。死と危険はいつも隣り合わせにある。……だから、生き残ってくれたこの子のことだけでも大事にしたいと思ってるんだ」



 ザイスの声が沈痛に濡れた。そのことだけでも、メルにとっては何よりも救いだった。


 リゼルの死も、他の仲間たちのことも、ご主人様はちゃんといたんでくれてたんだ……。



「……」



 アスターも眉をひそめただけで、それ以上、何も言わなかった。


 しんみりとした沈黙がその場に降りた。少なくとも、メルはそう思った。

 意を決したように、ザイスが切り出した。



「──アスター殿。今更、虫のいい頼みだとわかっている。だが、この子を引き取らせてはくれないか」



 これには、黙って聞いていたパルメラが目をいた。



「ちょ……っ! 虫がいいにもほどがあるやろ。あんた、自分が何言ってんのか、わかってるん?」


「頼む。この子以外、みんな私を置いて逝ってしまった。この子が最後に残ったかけがえのない『娘』なんだ!」


「……そんなこと、アスターがゆるすわけ……!」


「──メル、おまえはどうしたい?」



 アスターの声が、おろおろしていたメルをぴしゃりと打った。こんなところで、そんなことを訊かれると思っていなかったメルは文字通り、固まった。



「……私……?」


「こいつ自身が決めることだろ。──違うか?」



 ザイスだけでなく、パルメラまでがぽかんとなった。確かに、肝心のメル自身が置き去りにされている。けれど……。



「あかんよ。あかんて、アスター。そんな大事なこと、メルちゃんに決めさせるなんて……」


「大事なことだからこそ、だ。──どうなんだ、メル」


「…………私……」



 メルは頭が真っ白になった。


 ……いつもこうだ。自分で何かを決めろと言われると、途端に何も考えられなくなる。

 だって、みんな決めてもらってきた。食べるものも着るものも、自分の仕事やくめだって……。


 泣きそうになりながら、アスターを見た。でも、何も言ってくれない。

 いつもそうだ。アスターは何も言わない。メルを安心させてくれるようなことを、何ひとつ……。


 窓をたたきつける豪雨と、暖炉の薪のぜる音だけが、時の流れを告げて過ぎていく。


 そこで信じられないことが起こった。

 ザイスが身体を丸めてメルに頭を下げたのだ。



「──帰ってこい、メル。私にはおまえが必要なんだ……この通りだ」


「……ご主人、様……! か、顔を上げてください!」



 ザイスに頭を下げられて、メルはあたふたと腰を上げた。



「私たちは明後日の昼にここを出発する。それまでに答えを聞かせておくれ。──いいかね、アスター殿?」



 ザイスに言われて、アスターはため息を逃がした。

 ……どの道、嵐がやむまではアスターたちも動けない。



「──出発までは、こいつは俺たちの部屋で過ごす。身の振り方は、こいつ自身が決める。それが条件だ」


「もちろんだ」


「──行くぞ、メル。長居は無用だ」


「う、うん……」


「……あ。待ってくれ」



 ザイスの制止に、アスターと部屋を出ようとしていたメルは振り返った。



「部屋に行く前に、ひとつ、頼みを聞いてくれないか? ……もっと顔をよく見せてくれ」



 ザイスに顔をのぞき込まれて、メルはびくりと身を硬くした。……が、ザイスはただメルの頭を優しく撫でた。



「よく生きていてくれた……よく……」


「……ご主人、様……?」



 それ以上は言葉にならなかった。ザイスの目に涙が光っていたから。……メルの胸も熱くなった。


 山小屋はそこそこの広さがあり、二階を宿泊所として貸し出している。

 談話室を出て階段をのぼりながら、メルは、何も言わないアスターの背中にぽつりとつぶやいた。



「……アスター。私、どうしよう……」



 パルメラが他の傭兵たちと飲み直すといって別れ、久しぶりにふたりきり。

 だからだろうか。捨てられて途方に暮れた子犬のような声が出た。



「まだ時間はある。ゆっくり考えたらいい」


「…………うん」



 アスターの様子は、いつもと変わらない。



(引きとめてくれたって、いいのに……)



 そう思って、ふと、昼間のやりとりが思い出した。



『どうせこのまま私に魂送りさせないつもりなんだ! やっかい払いするつもりなんだ!』



 ──文字を教えることの、その意味……。



(私が一緒にいたら、迷惑……?)



 数歩歩けば追いつけるはずの背中が、やけに遠かった。


 アスターとメルは、別の部屋だった。

 パルメラが、自分とメルを同じ部屋にするように計らってくれたのだ。メルが傭兵たちと雑魚寝ざこねにならないようにとの配慮が、パルメラらしい。

 アスターとは男部屋の扉の前で別れた。



「じゃあな。よく休めよ」


「……っ。あの」


「……?」



 呼び止められたアスターが、いぶかしげに振り返る。

 でも、邪魔かどうかなんて訊けるわけがない。……はっきり言われたら立ち直れない。

 メルは、ムリに笑顔を作った。



「……ううん。……おやすみ、アスター」



 そうして、外の嵐の音が響いてちっとも眠れなさそうな部屋に、メルはひとり入っていった。


 疲れ果てて着のみ着のまま古ぼけたベッドにダイブすると、重みでぎしりときしんだ。


 浅いまどろみの中、荒野の中を去っていった幌馬車と、再会した主人の笑顔が、代わる代わる現れては消えた。

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