第2章9話 死神の足音

 襲いかかってきた全身の痛みに、アスターは息を吹き返した。


 川縁かわべりだった。

 崖の上で亡者と戦って、そこから落ちたはずなのに、どうして。


 だんだん記憶がはっきりしてきた。


 ……そうだ。落下の途中で斜面から出ていた枯れ木に引っかかり、そこからはるか下の水面にたたきつけられたのだ。地面に直接落ちなかったのは、運がよかったとしかいいようがない。


 鉛のような身体を起こして、這うように川から上がった。それだけで息があがった。


 全身の打ち身と切り傷。まとっていた服はぐっしょりと濡れて、身体が冷え切っている。耳鳴りがひどく、少し動くだけで視界がぐるぐる回った。


 頭を打ったのか……。

 ぼんやりと、そう思った。



(メルは……あいつは逃げ延びたのか? 一緒に戦ってたガレッツォは……──)



 さまよいかけた思考に、苦笑した。

 何にせよ、今の自分にできることはない。

 もうろくに動くこともできないのだから。



(亡者を深追いするなと言われて、このざまだ……)



 この数日、何度もメルに言われた。ガレッツォにもだ。

 危ない真似をするな。死ぬな、と。


 けれど、アスターにはそれが大事なことだとは、どうしても思えなかった。今もそうだ。生きるか死ぬかのところにいてもどこか他人事で、負傷した自分を冷静に眺めている。


 降り続けていたはずの雨はいつしかやんで、代わりに、うっすらと霧がかかっていた。


 どこまでも死に絶えたような世界で、不意に物音がした。

 カシャンと、何かが崩れたような……。


 視線だけ転じれば、少し離れたところで、一体の亡者が、立ち上がろうともがいていた。

 手足がそれぞれ明後日の方向に曲がっている。その手足で這いつくばり、再生しようとして、がむしゃらにもがいているのだった。

 羽をもがれた蝶が飛ぼうとするのにも似て、憐れを誘う光景だった。


 自分と一緒に崖から落ちてきた亡者──アスターは、どこかあきらめたように、それを見た。



「おまえが、俺の死神か……」



 生も死も、どこか遠い場所にあった。故郷くにが滅んでから、いつもそうなのだった。


 自分が生きようが死のうが、世界は何も変わらない。

 相変わらずどこかで亡者がひとを襲い、故郷を喪った人々が嘆き悲しみ、新たな絶望が生まれていく。

 剣をふるったところで、何も変えられなかった、何ひとつ救うことのできなかった自分には。


 亡者が手足を再生させるのは時間の問題だった。そして、その瞬間、アスターの命運は尽きる。


 死んだら、ルリアに会えるだろうか。

 クロードもそこで待っているのだろうか。

 遅かったねと、あの日々のように、微笑んで……──


 死を覚悟して静かに目を閉じたアスターのもとに、聞くはずのなかった声が届いた。



「──アスター!」



 河原を踏んで、走ってくる小さな人影──脚に巻き付いた鎖の重みをものともせず。

 拾った枝を振りかぶり、手足の再生が追いつかない亡者の後頭部をしたたかに打った。


 絶句した。

 ふるう剣ももたない非力なはずの少女が、亡者をたたきのめしている。

 亡者の方でも抵抗しようとするが、四肢が曲がっていて思うように動けない。



「アスターから離れろ! 離れろぉ……!」



 メルが亡者を打った。無茶苦茶だった。

 魂送りでなければ、亡者の魂は葬送れない。

 いくらたたいても再生する亡者相手に物理攻撃をしていては、メルに勝ち目はない。血迷ったのか。



(……いや、違う。あいつの狙いは……!)



 アスターが卒然と理解した、そのとき。



「あっち行けぇぇ!」



 メルが猛然と振りかぶった。

 その先に川があった。

 雨で水かさの増した濁流が、メルに吹き飛ばされた亡者を猛然とのみ込んだ。慈悲もなく。

 憐れな亡者は瞬く間に沈んで──流されていった。


 アスターは、呆然とそれを見送った。

 あとには、アスターと……精根尽きたようにへたり込んだメルが残された。



「……はぁっ、はぁっ……。……アスター、よかったぁ。無事? ……怪我してる」


「おまえ、なんで、ここに……」


「アントニオさんと町で応援を呼んで、探しにきたの。崖の下に降りれるところを見つけたんだけど、せまくてみんなは通れなかったから、私だけ先に」



 いつ亡者が出るともしれない渓谷をひとりで来たのか。相変わらずの無謀さだった。


 叱り飛ばしたい思いだったが、そんな元気もなかった。今頃、ガレッツォたちがヤキモキしながらメルを捜しているに違いない。


 それでもメルがもってきたランタンや薬、わずかばかりの水や食料はありがたかった。


 メルはアスターの濡れたシャツを脱がせて乾かし、傷をひとつひとつ手当てしていく。……が、胸元に十字架ロザリオを見つけたときには少し手が止まった。


 いつもは服の下にしているから気付かなかったのだろう。女物の意匠を不思議に思ったのかもしれない。



「なんでこんなムチャするの。死んじゃうよ……」



 メルが言った。悲痛に濡れた声だった。

 もうろうとした頭で、アスターはそれを聞いた。

 傷と、冷たい水に浸かったせいで、おぞましい寒気が襲ってきていた。そのくせ、身体は熱く火照っている。……発熱したらしかった。


 なぜ戦うのか。誰も守れなかった自分が、今もなお剣にすがりついて……。

 その答えが、知らず知らずのうちに口をついて出ていた。



「生きてるのか、わからないから」


「……え?」



 もうろうと視線をさまよわせた。

 青灰色の空を映した視界の中に、少女の驚いた顔がぼんやりと映る。夢と現実の境も溶けて消えそうな中、包帯越しに触れている体温がひんやりと感じられた。



「自分が生きてるのか死んでるのか、わからない。……──もうずっと前から、わからないんだ……」



 毎日が、生きながらにして、死んでるみたいで。

 色もなく、香りもなく、ただ無情に過ぎていく。

 俺は生きてるのか? 死んでるのか?

 もしかしたら、本当の自分は、故郷くにが滅びたときにとっくに死んでいて。それに気付かずに、地上をさまよっているんじゃないか──憐れな亡者どもと同じように。

 そんな疑念が、頭にこびりついて離れない。


 起きているのがつらくなって、目を閉じた。

 熱に浮かされた自分の吐息が、やけに熱い。



「亡者を斬ってると、俺はまだ生きてるんだって実感できる。そのときだけだ。生きてるって感じるのは……。……教えてくれ……。俺は生きてるのか? それとも、死んで魂だけでさまよってるのか? ……俺にはもう、わからないんだ……」



 不意に──

 温かな雨が、頬を打った。

 ぽたり、ぽたりと。大粒の雨が降ってくる。

 雨はもう、やんだはずなのに……。


 まぶたを上げると、くしゃくしゃの泣き顔があった。雨みたいに涙が降って、アスターの頬を濡らしていった。



「アスターは生きてるよぅ……!」



 泣き崩れたメルから命の音がした。

 とくん、とくんと、温かく打つ脈動が。

 ……ほっとした。こいつは生きてる。ちゃんとあったかい……。


 無意識のうちに口にしたうわごとに、メルが応えた。



「アスターだって、あったかいよ。生きてるんだよ」



 少女のぬくもりにまどろむように、アスターは意識を手放した。久しぶりに、夢も見ず。


 町からの救援隊の足音が、遠く彼方から迫っていた。



(二章・了)

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