第2章5話 甘やかな追憶

 隊商の野営地から少し離れて、アスターは剣を素振りしていた。剣のうなりが、冷たい夜風のせいか、やけに乱れる。

 昼間、メルが言った言葉が頭に響いていた。



『会いたいひとがいるんでしょ。アスターは生きて帰らなきゃダメなのに……!』



 思い出すのは、優しくて儚げな青年の笑顔。

 育ちのよさがわかるさらさらとした銀の髪に、剣の鍛錬をしてもなお白さを失わない陶磁の肌。仕立てのいい貴族服が、細身にぴったりとなじむ。


 父親の意向で剣はたしなんでいたけど、幼なじみのアスターと違って、もともと、剣が得意なタチではなかった。生来の素質はあるのに、争い事が嫌いで、よく稽古けいこをさぼっていた。


 そんなときは蔵書室の奥にあるテラスで本を読んでいた。エメラルドブルーに輝く海の見える、彼の気に入りの場所。


 アスターが迎えにいくと、むしろ嬉しそうに笑った。



『……クロード、やっぱりここにいたか。また剣の稽古さぼって。ラウ師匠がカンカンになって捜してたぞ』


『それで告げ口しないところが、アスターのいいところだよね。ありがとう、アスター』


『褒めてるのか、それ?』


『もちろん』



 何を言っても聞かないことがわかっているから、まだ少年の域を抜けたばかりのアスターはため息をついた。主従とは思えないほど気さくなやりとりは、ともに過ごしてきた年月の裏返しだ。


 親しげに会話を交わすふたりの足元──切り立った崖の下では、ゴウゴウとした波の音が寄せては返していった。外の世界のうねりを感じさせるように。


 亡者の脅威にさらされる世界と切り離されているかのように、王城では、穏やかな時が流れていた。


 ここでは誰も亡者に脅かされることはない。命の危険にさらされることもなければ、耕地に腐敗が及んで食いっぱぐれることもない。


 貴族たちは、誰も彼も怠惰たいだ享楽きょうらくに溺れているように、アスターの目には映っていた……この幼なじみを除いて。


 クロードの横顔が憂いに陰った。



『……またひとつ、国が滅んだんだね……』


『ガルム帝国は小さい国だったからな。救援に向かった頃にはもう……』



 実際、救援部隊が駆けつけたときには、すべてが終わっていた。


 亡者に襲われた際に大規模な火災が発生したらしく、帝国が誇っていた豪奢な宮殿は無残な廃墟と化していた。


 かろうじて生き残った者たちが、どうにか使える家財道具や家族を捜して辺りをうろつく様は、まるで幽鬼グールが徘徊しているようだった。うろつける者はまだいい方で、放心して地面にへたりこんだまま、ぴくりとも動かない者もいた。


 アスターの話を聞いて、優しい幼なじみは悲痛な面持ちになった。



『ガルム帝国にも葬送部隊はあったはずなのに、どうしてあんなことに……』


『どこの国も一緒さ。力のある謡い手が育ってない。実際、亡者を片っ端から葬送おくれるほどの聖性の強さの持ち主なんざ、そうはいないからな』


『──だから、私たちが派遣されるのよ。そうでしょ?』



 テラスのガラス戸を開けて、女が微笑んでいた。


 背中にゆるく流れるプラチナブロンドの髪。無垢むくな白のドレスにはレースの編み込みを施しただけの質素なもので、だから、彼女の華やかな雰囲気は、それをまとう本人のものだった。


 たおやかな手に、紫色の宝玉をはめこんだ宝杖ロッドをもっているのが、唯一、彼女を飾り立てている。


 後ろ手に深紅のカーテンを引いて、彼女はいたずらげに笑った。共犯者の笑みで。それさえも天使の微笑みに見える。



『クロードったら、目が赤いわ。さてはガルム帝国が滅んで、また泣いてたわね?』


『違……っ。目にゴミが入ったんだよ』



 アスターが指摘しなかったことを、ずばりと言う。でも、たいていのひとは彼女の雰囲気にほだされて聞かなかったことにする。アスターは沈黙を守った。


 楽しそうに笑った後、女はクロードの手を取った──子どもの頃から決まっている婚約者の手を、安心させるように。


 抜けるような空の下で、優しげな青年と宝杖をいだく女は、一幅の絵画のように美しかった。



『安心して。あなたの国は、私たちが守るから』



 ──そう言った彼女の微笑みは、もうどこにもない。


 二年前、亡者が侵攻してきたただ中に喪われ、二度と戻らない場所に逝ってしまった。

 主人だった青年の安否も、風の噂すら途絶えて。

 もうアスターの耳には届かない。



「……生きて戻ったところで、何になる。また独りになるだけだ……」



 胸がうずいた。ずっと胸の中にあって消えない、引き裂かれるような痛み。

 それでも繰り返し戻ってくる──思い出の中に。

 二度と戻らない、あの日々の中に。

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