六花とけて、君よ来い
榎木扇海
第1話
遠のいていく記憶が、どうにも切なかった。
と言ってもすぐに起き上がるわけではなく、アンティーク調のベッドの上でごろごろ身を転がすだけで、生産的活動は何1つ行っていない。
雅の朝が早くなったのは、多分二年前の今頃からだろう。
二年前、雅は来年受験であることなど少しも考えず、のほほんと暮らしていた。
そんな雅の毎日に波紋を広げたのは、
ある寒い日の朝、部の仕事で土いじりをしていた雅を上から呼ぶ声がした。
「おはよう」
友達がいないわけではなかったが、それでも少なかった雅は聞き慣れない声に驚いて顔を上げた。
目の前には、花壇の縁に立ってすぐそばで見下ろす、見覚えのない少女がいた。
名札に目をやった。名札の色が青色なので先輩なのだろうが、やはり覚えがない。
「笹良くん」
目があった途端に彼女は微笑み、雅の名を呼んだ。
「あ、かさか先輩?」
試しに名前を口にしてみたが、その違和感に脳はすぐ拒絶した。
しかし陽音はぱんっと手を叩き、「あ、私の名前知ってくれてるんだ!」と嬉しそうに言った。
その発言から陽音が初対面、というか知り合いではないことに確証を持った雅はすっと立ち上がり、体中についた土を払った。
「俺になにか用ですか?」
陽音は少し困ったように笑い、白い頬を人差し指で搔いた。
雅から見た陽音は、手足が細長く全体的に華奢な人だった。肌は青白く、どうにも不健康そうに見えた。しかし、少し頬は
「えぇと…そのお花、なぁに?」
戸惑いつつ彼女が指さしたのは、オレンジ色の大きなスカートをひっくり返したような花だ。
「さぁ?世話をしているだけで、花の種類は知りません」
「あ、あぁ〜そうなんだ!じゃあ、管理員さんに聞いたらわかるかな?」
「どうでしょう」
雅のそっけない返答に陽音は戸惑っている様子だった。それからしばらく目をきょろきょろさせて、躊躇いつつ口を開いた。
「あ、あれ〜?もしかしてキミ、聞いてない感じ?」
「え?」
「笹良雅くんだよね?私、そう聞いたんだけど…」
雅には陽音の言いたいことがいまいちつかめなかった。
「そうですけど…。俺は先輩とは初対面だと思うんですけど…」
「あー、まぁ私もハジメマシテなんだけどー…」
むず痒くなるほどの気まずさを感じた雅はまた腰を下ろし、土に肥料を混ぜ込み始めた。
その雅の行動を見て、陽音は大きく動揺した。うつむいたままもくもくと作業を進める雅にかけるべき言葉が見当たらない。
「え、ーっと…」
陽音は目線を右斜め上に向けながら右頬を搔く。戸惑っているときの癖だった。
「私は…私のこと好きなコがいるから会ってほしいって、言われた、んだけど」
雅の手が思いきり土の中に潜り込む。さっき耕したところだったから、ふわふわのもふもふでかなり奥まで手が落ちていった。
「…は?」
「ややっ、まーそうだよね!なんかキミの態度変だったし」
陽音は両手の指先をとんとんと合わせながら早口で言った。
「えへ、ごめんね?好きなコって聞いて、浮かれちゃってた。迷惑かけてごめん」
そうして足早に去ろうとした陽音の腕を、雅は反射的に掴んでいた。陽音が驚いて振り向く。
「あっ泥…ごめん」
雅はパッと手を離して頭を下げる。
「いや、別に…それよりどうしたの?」
陽音に促され、おずおずと顔上げると、戸惑いながら笑みを浮かべる陽音が首を傾げていた。
「…それ、誰から聞いたんですか」
「え?」
陽音がここに来た理由を聞いた雅の頭には、少し前のかすかな記憶が蘇っていた。
「俺が先輩のこと好きって言った奴誰ですか!?」
真剣な眼で真っ赤な顔をしている雅を見ながら、陽音は右頬を搔いた。
さて勘違いしないで頂きたいのは、雅はけして見栄から陽音を知らないと言ったわけではないと言うことだ。
ただ、彼が生まれてこの方、家族以外の前で”好き”だなんて口走ったのはたった一度きりなのだ。
遡ること半年前、9月末にあった文化祭のときの話である。
自由な校風を旨としている学校らしく、文化祭などの行事は生徒の自由度が高かった。
そこでこの赤坂陽音と言う少女は朝礼台の上に立って、某アニメの脇キャラである「愛海あみ」のコスプレを披露したのだが、それの完成度が素晴らしく高かった。中学校の頃、愛海あみにガチ恋していた雅からするとそれは現世に生まれでた嫁のようなものだった。
そこでつい、彼は隣に立っていた友人·竹井に言ってしまったのだ。
「お、俺…あのひと超好き……」
竹井はカッと目を見開き、惚けた顔をしている雅の体をぐらぐら揺らした。
「えっ笹良がっ!?あ、ああいうの、好きなの?」
「超好きぃ」
竹井の耳には、その後に続く「愛海あみ」の名は届いていなかった。
いくらコスプレと言えど好きならわかるんじゃないか…と思う方もいらっしゃるだろうが、愛海あみを演じているときの陽音は声も仕草も表情も意識的に変えており、尚且つキャラ設定上濃いメイクとアイマスクが必要だった。
つまり、ほとんど「赤坂陽音」の色は残っていなかったのだ。
雅に詰められた陽音は戸惑いつつも口を開いた。
「知ってるかなぁ…?部活の後輩の、竹井って子なんだけど…」
想像通りの言葉に、雅は思わず額を押さえた。
「あいつッ…」
雅は顔をあげ、真っ赤になりながら陽音に言った。
「文化祭んときのあみ、めっちゃ可愛かったです」
陽音は少し時間をかけながら雅の言葉を理解すると、ぼっと頬を赤らめ、両耳たぶにふれた。
「うぇっ!?あ、ありがと…」
それから、土だらけなことなど気にもせず雅の両手を掴んだ。ひんやりと冷えた綺麗な手が雅の拳を包む。
「笹良くんも、あみちゃん推しなの!?」
手を掴まれたことに動揺してまともに口が回りそうになかった雅は真っ赤な顔で首を上下した。
「このアニメ自体あんまメジャーじゃないし、しかもあみちゃんサブキャラでしょ?あんまりいい役回りでもないしさ。初めてあみ推しに会った~!」
本気で嬉しそうな陽音に同族意識を感じた雅は、小さく笑った。
これがきっかけになり、雅と陽音の間の不思議な関係が続いていく。
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