金と銀のカノン ~鏡合わせのオペラ~
美袋和仁
第1話 金と銀の姉妹
「御姉様、素敵なブローチですね。あたくしに似合いそうです」
「そう? 欲しいの?」
「はいっ」
眼を煌めかせる九歳の妹のファビアに微笑み、トリシアは昨日の十歳の誕生日プレゼントに両親から貰ったスタールビーのブローチを渡す。
繊細な金細工に縁取られたルビーのブローチは、一見して高価な品だと見て取れた。
「ありがとうございます、御姉様っ、大好きっ」
「はいはい」
トリシアを絶賛しつつ、貰ったブローチを大切そうに握り締め、ファビアは自分の部屋へと駆け戻っていく。
それを苦笑で見送り、トリシアも自室へ戻った。そんな彼女に、誰かが物言いたげな声をかける。
「御嬢様.....」
「なあに? マリア」
「何でもございません」
トリシアは首を傾げ、自分の専属の侍女を見つめた。
明らかに不機嫌そうな顔だが、お茶の支度をする彼女の手際は良く、トリシアは書棚から本を取り出すと、さも嬉しそうにソファーに腰かける。
トリシアは本が大好きだった。放っておいたら、陽が暮れても頁から眼をはなさない。
キラキラと瞳を輝かせて本を開く自分の主を、マリアは優しく見つめ、そっとテーブルに御茶を差し出した。
茶器につられて視線をテーブルに振ったトリシアの視界に一枚のカードが入る。
綺麗に蝋封がされた薄い萌葱色の封筒。差出人の品の良さが窺えるソレを彼女は不思議そうに眺めた。
「あら、これは?」
「御茶会の招待でございます」
「.....無理ね。ドレスもないし。御断りしておいてね」
「....はい」
どれもこれも、みんな、妹様が持っていってしまうから。
口には出せない言葉を脳裡に浮かべ、マリアが臍を噛んでいるとも知らず、トリシアは持ってきた本を広げて読み始めた。
蒼味がかった銀髪に翡翠色の美しい瞳。カルトゥール伯爵令嬢、トリシア。
ドレスもアクセサリーも何も持たない彼女は社交界に顔を出す事もなく《朧の姫》と呼ばれている。
理由は簡単。誰も姉娘を見た者がいないからだ。
正式な社交は成人してからと決まっているが、そういったあらたまった場所へ赴くようになる前は、各親世帯の御婦人方により子供らを同伴出来る茶会やパーティーが催される。
大人達が子供らの多少の失敗や無作法を温かく見守ってくれ、あれやこれやと指導し、これからを担う貴族の子供達のプレ社交場のような催し。
大人が年嵩な子に指導し、年嵩な子供が自分より幼い子に教え、順々に学び学ばせる。
妹のファビアは、そんな催しの常連だった。母に連れられて御茶会などに向かう妹。それを見送り、部屋に引きこもる姉。
別に両親が姉妹を分け隔てしている訳ではない。二人には平等に何でも買い与えられ、教育にも熱心で、学術、芸術に秀でたトリシアは満足のいく勉強をさせてもらっている。
ただ彼女は、自身を取り巻く全てに無関心なのだ。
妹が欲しがれば何でもあげてしまうし、許してしまう。
妹に甘いのも大概にしなさいと叱責する両親に、トリシアは冷めた子供らしくない眼差しで答えた。
「だって面倒くさいんですもの。あの子は貰えるまで、泣いて喚いて暴れるのですよ? そんな無意味な苦労を、何故わたくしがしなくてはいけませんの?」
だから、さっさと渡してお引き取り願うのだと、満十歳になった娘は言う。
唖然とする両親に、彼女はさらににたたみかけた。
「わたくしに言うのではなく、ファビアに言わなくては駄目でしょう? 人の物を欲しがってはいけませんと。人並みの躾は親の役目ではありませんか。何故わたくしに押し付けようとなさいますの? わたくしは真っ平御免でしてよ、あの子の癇癪に付き合うなんて」
正論過ぎて、ぐうの音も出ない。
絶句した両親は後日頑張ってみたようだか、未だに実を結ばず、愛らしい妹は金色の巻き毛に青い瞳を輝かせ、トリシアからあらゆる物を巻き上げていった。
ドレスもアクセサリーも靴も。年子な二人は、あまりサイズが変わらないため、問題なく使えているようだ。
結果、トリシアは社交に着ていくドレスも何もなく、ほぼ引きこもりな生活をしている。
それを曲解した世間様は何をトチ狂ったのか、噂だけで姿を見せないトリシアに《朧の姫》などという愛称つけ、伯爵家秘蔵の深窓の御令嬢と誤解している今日この頃である。
そして、とある日。母が御茶会に行きますよ? と、トリシアの部屋を訪れた。
「でも、わたくしドレスも靴もありませんことよ?」
「分かっています。母が用意してあります」
どうやら、何かしら考えたらしい。
トリシアは母に連れられ、馬車へと乗り込んだ。
カタコトと揺られながら、馬車が着いたのは、ある御屋敷。
初めて見る御屋敷の入り口には美しい夫人が立っている。優しい鳶色の瞳の夫人はトリシアを見つめ、ようこそと微笑んでくれた。
「初めまして。カルトゥール伯爵が娘、トリシアにございます。以後よしなに」
シンプルなワンピースでありながら、見事な口上とカーテシー。目の前の御夫人は満足そうに眼を細めた。
「わたくしはデロリス。貴女の御母様の友人で、御相談を受けたの。貴女が社交界に馴染めるよう協力いたしますわ」
屋敷の中へ招かれて、応接室に案内されたトリシアは、母の苦肉の策を聞いた。
デロリス夫人の協力の元、この屋敷にトリシアの部屋を頂き、そこにドレスや靴などのファビアが興味を持ちそうな物を預けるというのだ。
そして御茶会とかには、ここで着替えて向かい、またここで着替えてから帰宅する。
「そうすればファビアに奪われる事はないでしょう。貴女には、わたくしの名代として、被った日程の御茶会に参加して欲しいの。同日に、わたくしとファビアは別の御茶会に参加するから」
なるほど。ファビアの眼につかないよう、苦肉の策か。見たら最後、その場で欲しがるのは眼に見えているしね。
地団駄を踏み、泣き叫ぶ妹の姿が容易く想像出来て、思わず軽く遠い眼をしてしまうトリシア。
そんな彼女らに御茶を勧め、デロリス夫人は使用人を下がらせる。
「御母様の名代は軽くはなくてよ? 十歳だと聞いていたから、早すぎると思っていたのだけど.... 彼女が自信を持って勧める訳ね。聡明な娘さんだわ」
デロリス夫人は鳶色の瞳に弧を描き、値踏みするかのような視線でトリシアを眺めていた。
両親も努力はしていたが、ファビアの我が儘が改まる気配はない。いずれ淑女として成長し、癇癪が収まったとしても、その頃には社交界デビューが待っている。
トリシアを全く社交に関わらせないでデビューさせる訳にはいかないと、必死に考えた結果なのだろう。
まあ、貴族の家に生まれた以上、仕方無いわね。年貢の納め時か。
両親にはああ言ったものの、実のところトリシアは妹の癇癪を利用していた。
彼女は社交界に興味がなく、自分の研鑽に勤しむのが楽しかったから。好きなだけ本で学び、刺繍を刺し、楽を奏でる。
そんな毎日が楽しく充実していて、むしろ社交から解放してくれるようなファビアの我が儘には感謝しかないトリシアだった。
しかし両親にこうした搦め手でこられたからには、もう逃げようもあるまい。伯爵家長子の責務を果たさねば。
得心顔で頷くトリシアに満面の笑みを浮かべ、母とデロリス夫人は支度を始めた。
案内された部屋には溢れるほどのドレスやアクセサリーが並び、眼を丸くするトリシアに夫人は悪戯気なウィンクを投げて寄越す。
「わたくしや、わたくしの娘の子供時代の物もあるの。きっと貴女に似合うわ」
嬉しそうにドレスを選ぶ二人を余所に、マリアがトリシアの髪を漉きながら小さく呟く。
「ようやく....やっとです、御嬢様。御綺麗なのに、全て妹様に奪われて。御茶会にも出られないなんて」
とつとつと噛み締めるようなマリアの呟き。その一言一言に醸された複雑な想い。
トリシアが気にしていなかったとはいえ、一番トリシアの近くで見守っていたのは彼女だ。
ファビアの横暴への不満も散々呑み込んできたのだろう。そんな万感のこもる呟きに、トリシアは苦笑する。
「そうね。初めての御茶会だから、とびっきり綺麗にしてね?」
「お任せくださいっ」
こうしてトリシアの日常が一変する。
母親がファビアとともに参加する御茶会は非公式の物が多い。
小さな子供連れな御夫人方の集まりで、堅苦しいマナーもなく、デビュー前の子供達の慣らしのような御茶会だ。
多少の我が儘や癇癪は許される。
そういった行動が恥ずかしい事なのだと自覚させ、他の子供らと比較され、少しずつ社交界に馴染み矯正されていく。そんな御茶会だ。
しかし、トリシアが参加する御茶会は違う。
あらゆる年齢層の紳士淑女が交流を持つ、真っ当な御茶会である。
失敗すれば長々と噂され奇異の目がつきまとう。子供だからと言う甘えは通らない。それが名代というモノだ。
学ぶ事に熱心なトリシアを見て、母親は彼女に名代が務まると判断したらしい。作法の先生も太鼓判を押してくれた。
「毅然としていれば良いわ。お家で習ったとおりにね」
同行して下さるデロリス夫人に頷き、トリシアは初めての御茶会にワクワクする。
参加するからには楽しまなくてはね。
面倒だからと遠ざかっていた社交だが、開き直ったトリシアは楽しむ気満々である。
新たな世界はどんな事が待ち受けているだろう? と、無邪気な笑顔の少女をデロリス夫人が優しく見つめていた。
件の御茶会は終始穏やかに進む。
初参加の小さな貴婦人に人々は優しく、御茶会のマナーや不文律的なことも然り気無く教授してくれた。
満面の笑みで好意的に受け入れられ、トリシアは安堵に胸を撫で下ろす。
「こんな可愛らしい貴婦人を隠しておられるなんて。伯爵様も人が悪くておられますわね」
「初めまして、《朧の姫》みんな噂しておりましたのよ。伯爵様が外に出さない秘蔵の宝石を」
「畏れ入ります。わたくし、あまり社交的ではなくて...... 無理はしなくても良いとの親の言葉に、甘えておりましたの」
半分は嘘だ。言われてはいたが、出られなかった理由の大半はファビアのせいである。
貴婦人方は小さく頷き、トリシアに御菓子を勧めた。
「よろしくてよ。こうしてお姿を拝見出来たのですもの。これからは仲好くしてくださいましね」
「御茶会だけでなく、刺繍の会や朗読の会とかもございますのよ? トリシア様は御好きかしら?」
「大好きですわっ、わたくし、毎日刺しております。御母様以外の御手は見た事がございません、是非参加しとうございます」
眼を輝かせて食いつくトリシアに、貴婦人方は軽く瞠目して顔を見合わせた。
この年頃の子供は習い事を厭うもの。本だの刺繍だのといった煩わしい教養が楽しくなるには、まだ歳を重ねねばならない筈だ。
しかし、この小さな貴婦人は見事な挨拶から入り、美しい作法や綺麗な所作。さすがは伯爵夫人が名代を任せただけあると周囲が感心していたところである。
大人びた風情の少女だが、今の彼女は子供らしくキラキラした眼差しで刺繍の会や朗読の会に興味を示していた。
食いついてきた物が子供らしい趣向ではないが。その姿は微笑ましい。
「よろしくてよ。では、次の刺繍の会に御招待いたしましょう。貴女の作品を楽しみにしているわ」
微笑んだのは侯爵夫人。一瞬、周囲の人々がどよめいた気がするが、気のせいだろう。
こうして御茶会も和やかに終わり、トリシアはデロリス夫人の屋敷で着替えてからマリアと共に帰宅した。
そんなこんなでワンシーズンが過ぎ、御茶会にも馴れて夏も近くなった頃、トリシアに一枚の招待状が舞い込む。
母親から封筒を受け取り、トリシアは思わず声を上げた。
「侯爵夫人からだわ」
開いてみると、そこには刺繍の会を催すとあり、夏をイメージした作品の持ちよりが示唆されている。
夏かぁ。何にしよう。
嬉しそうにカードを抱き締めるトリシアだが、そこへ運悪くファビアがやってきた。
侍女と共に居間へ下りてきたファビアは、楽しげなトリシアを不思議そうに見つめる。
「御姉様、どうなさいましたの? その御手紙はなぁに?」
一瞬、眉をひそめたトリシアと母親だが、頃合いでもあるだろうと、母親が静かにファビアを見下ろした。
「トリシアにきた刺繍の会の招待状です」
「御姉様に招待状? 何故ですか? わたくしもありますか?」
無邪気な妹を見て、トリシアは少し気まずくなる。彼女の分が無いのは分かっているからだ。
「ありません。貴女は刺繍などしないでしょう? 持っていく作品も無いではないですか」
「頑張って作ります。そうしたら参加出来ますか?」
「出来ません。侯爵夫人の刺繍の会はサロンです。上流夫人の集いに、子供な貴女は参加出来ないの」
「御姉様だって子供じゃないですかっ、御茶会だって参加してないし、ずっとお家にいる御姉様より、わたくしの方が相応しいはずですっ」
ほらきた。
必死に訴えかけるファビア。彼女は小さな頃から母親について回り、色々な御茶会に参加していた。
御姉様も来れば良いのにと言いつつ、姉が参加出来ないようドレスや靴を巻き上げていたのをトリシアは気づいていた。別にそれで構わなかったので、トリシアは放置していただけだ。
本人はたぶん頭が良いつもりなのだろうが、見え見え過ぎて溜め息が出る。
学ぶ事が苦手なファビアは歳が近いこともあり、事あるごとにトリシアと比較されていた。勉強も作法も教養も。唯一トリシアより上だったのはダンスだけ。
ゆえに妹なりに考えたのだろう。社交界に先に馴染み、姉を見下ろしたい。社交界の花になって優越感で見返してやりたいと。そんな浅はかな企みが可愛らしい。
トリシアは妹が可愛かった。どんな愚かな画策でも付き合ってあげるくらいに、ファビアを可愛がっている。
しかし、御母様の名代となったからには、もう甘やかす訳にも、放り出す訳にもいかない。
両親に丸投げしていた妹の躾に、トリシアも参加を決意する。
「御姉様、ドレスを何処にやったの?」
「さあ? 知らないわ」
先日、二人はドレスを作った。
御茶会用に二着と、御出掛け用に一着。靴も新調し、ファビアの元には今日届いたらしい。
「御姉様のドレスが見たいわ」
「御母様に聞いてちょうだい。わたくし、興味ないから、御母様がしまっているはずよ」
そう言うと不満げな顔でファビアは部屋から出ていく。そしてしばらくし、居間の方から泣き声が聞こえてきた。
ああ、もう。期待を裏切らない子ね。
トリシアは胡乱気にマリアを見ると、彼女はにんまりほくそ笑み、小さくクスクス嗤う。
あれで諦めるとは思わなかったけど、まさか突撃するとは。頭の痛いトリシアであった。
「良いじゃないですか、見せてくれてもっ」
「見たら最後、ねだって巻き上げるのでしょう? これからはトリシアも社交をせねばならないの。ドレスも靴も必要なの。あの子の装飾品は全て御母様が管理します。でないとトリシアは全部ファビアにあげてしまうもの」
「御母様の意地悪っっ!!」
そう叫び、ファビアは居間から駆け出していった。それを見送りつつ、トリシアは脱力する母親を見る。
「お疲れ様です。悪役、ありがとうございます」
「....良いのよ。最初から、こうしていれば良かったわ。貴女に苦労をかけて。母親失格ね」
物心ついてから全てを妹に譲り、奪われてきたトリシア。
どうでも良いと思ってはいたが、こうして守られる事に何とも言えない面映ゆさを感じる。
両親は努力してくれていた。ドレスや靴の代わりにと本や楽器を贈ってくれ、奪われた分を十分に満たしてくれた。
わたくし、名代を完璧にやりますわ。
妹の癇癪で疲労困憊な両親を労うには、それが一番だろう。
こうして世の中は新たな社交界シーズンに突入した。
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