第19話 偶然の執着
雨の音が地面を叩く。僕は狭いワンルームのマンスリーマンションの玄関ドアを開けた。手にはコンビニで買ってきた弁当の入った袋。
「ただいま」
そう口にしても、返事をしてくれる人はいない。この静寂が、僕の心を蝕んでいく。壁にかけられた時計の針が、やけに大きな音を立てて進んでいく。
備え付けの電子レンジに買ってきた弁当を入れ、温め始める。温め終わるのを待つ間、スマートフォンを手に取る。華凛からのメッセージを確認する習慣が、いつの間にか身についていた。画面をつけると、すぐに彼女からのチャットメッセージが目に入る。
『今日も映画、観てきました。勝巳さんと一緒に観たかったな』
華凛からの言葉に、僕の心は躍る。だが、すぐに現実に引き戻される。今の僕には、華凛と映画を観る余裕はない。いや、正確には華凛と映画を観たあとのデートをする余裕がない。経済的にも、精神的にも。
『僕も一緒に観たかったよ』
返信を送りながら、深いため息をつく。華凛との関係が、どれほど僕の人生を狂わせたか。それでも、彼女への想いは消えない。
電子レンジが温め終了を知らせる音を立てる。僕はベッドの上にスマートフォンを置き、小さいテーブルで夕食をとる。かつては、家族と囲んでいた食卓を思い出し、胸が締め付けられる。家を出たときから、1人で食事をすると込み上げるものがあるのだ。
コンビニ弁当を食べ終えば僕は、ベッドに横たわり、天井を見上げる。かつて当たり前だった日常が、今では遠い夢のようだ。妻である恵子の笑顔。子どもたち、燈と悠人の声。家族との時間を、僕は手放してしまった。
目を閉じると、過去の幸せな記憶が駆け巡る。休日に家族で出かけた公園での笑い声。妻が丹精込めて作ってくれた夕食の香り。子どもたちの成長を喜びあった瞬間。
それらの記憶が、今の寂しさをより一層際立たせる。僕は目を開け、現実の殺風景な部屋を見渡す。薄暗い照明の下、散らかった洗濯物やまとめられただけのゴミ袋が、僕の荒んだ生活を物語っている。
「華凛……」
家族の元に戻ることができない僕にとって、華凛だけが唯一の救いだった。それが、依存と呼ばれることだとはわかっているつもりだ。でも、これを手放す勇気が、まだ僕にはない。
再びスマートフォンを手に取ると、華凛との写真が保存されている。ミニシアターに掲示されていた映画のポスターの前で撮った、あの日の笑顔。僕たちは映画の感想を語り合い、世界中の誰よりもお互いを分かり合えると信じていた。その思い出と、時折届く華凛のチャットメッセージが、今の僕を支えている。
家を出てから1ヶ月ほど経ったころ、恵子にも、燈と悠人にも、チャットを送ってみたが、反応がない。折りを見て何度か電話をかけてみたが、通話中を知らせる電子音が鳴るか、自動音声アナウンスで呼び出したが電話に出ないと告げられるばかり。家族は大事だ。大切な、かけがえのないものだ。でも、その想いだけでは、僕は生きていくことができない。
明日も、明後日も、そしてその先も、この寂しさと後悔の中で生きていかなければならない。だが、僕の心はそれに耐えられない。だから、華凛との関係を断ち切ることができないのだ。彼女との時間が、僕にとっての唯一の希望の光なのだから。
窓の外では雨が激しさを増している。その音が、僕の心の中の空虚さを埋めていく。かつての生活は、二度と戻らないのだろう。恵子も、燈も、悠人も、以前と同じように接してくれることはないはずだ。心の弱い僕は、華凛との関係に縋りついてしまう。
「もう一度、華凛と映画を観に行こう」
そんな願いを胸に、僕は眠りについた。雨の音が、僕の寂しさを更に深めていく。明日への希望も、未来への展望も見えない。ただ、華凛への想いだけが、僕の心の中で燻り続けていた。
雨音を子守唄に、僕は深い眠りに落ちていった。明日もまた、家族と会えない寂しさと華凛への執着の間で揺れ動く一日が始まるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます