第10話 偶然のくしゃみ
ランドリールームから部屋に戻るまでの間、華凛の指は僕のバスローブの裾を握ったままだった。バスローブ越しに感じる温もりに、僕の心臓は平常時よりも早く鼓動していることがわかる。
僕たちは言葉を発さずに歩き続け、ようやく部屋に戻ることができた。僕が電源用のカードスロットにルームキーを差し込み、部屋の電気を着けたのと、華凛が部屋のドアを閉じたのはほとんど同じタイミング。裸にバスローブだけを身にまとった華凛の姿を誰にも見せたくないと思っていた僕は、ドアが閉まる音で願いがかなった感じて小さく息をつく。すると、ほとんど同じタイミングで華凛も息をついた。僕が華凛のほうを振り向くと、華凛はこちらを見上げていたので、2人の目が合う。そして、堪えきれずにくすくすと笑い出してしまった。
僕が声をかけようと思ったそのとき、華凛が先ほどと同じようなかわいらしいくしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
僕は思わず尋ねていた。
「寒いですよね。ちょっと失礼」
僕は小走りに空調のリモコンに近づくと、スイッチが切れていることに気がついた。電源用のカードスロットからルームキーを抜いたので、部屋の空調が止まったのだろう。電源用のカードスロットにはルームキー以外のカードを差しておくことを忘れていた僕のミスだ。急いで空調のスイッチを入れ、暖房運転にする。
「すみません、暖房が切れちゃってました。部屋が温まるまでベッドに入っていたほうが……」
華凛のほうを振り向きながら謝罪し、ベッドに入ることを提案しようとした僕の言葉が途切れる。華凛が潤んだ瞳で僕を見上げながら、こちらに近づいてきたからだ。その瞳に、何か言葉にできないものを感じ取り、僕は息を呑む。
「冴喜原さんも……一緒に」
僕の胸元に縋り付くように体を寄せてきた華凛の声は、かすかに震えていた。
心臓が激しく鼓動を打つ。頭の中で様々な思いが渦を巻く。これでいいのか。後悔しないだろうか。しかし、華凛の柔らかな視線に、全ての迷いが溶けていくのを感じた。
戸惑いながらも、華凛をともなってゆっくりとベッドに向かった。上掛けをまくり、シーツの上に腰を下ろす。華凛も横に座る。
静寂が部屋を満たす。ただ、僕と華凛、2人の呼吸だけが聞こえる。
「……冴喜原さん」
「あ、ああ」
少しの間、僕の隣に座っていた華凛だったが、先にベッドに横になった。華凛に促されるまま、僕もベッドに横になり、上掛けをかぶる。
「……電気、を」
華凛の求めに、僕はベッド側にコントロールパネルに手を伸ばして部屋の明かりを暗くし、常夜灯だけに変えた。
すると、華凛が身をよじって僕に寄り添い、おずおずと僕の胸元に触れる。袖をつかまれていたときよりも、はっきりと華凛の温もりが伝わってくる。目が合うと、華凛の頬が赤く染まっていることに気がついた。
華凛の潤んだ瞳で見つめられると、目をそらすことができない。きっと僕も赤くなっていることだろう。
僕の胸元にふれていた華凛の手が少しずつ動いていき、バスローブの合わせ目を見つけられる。そして、そのままバスローブの内側に手を入れられ、直接胸元に触れられた。直接感じる華凛の体温は、熱いくらいだった。
「いい、ですか?」
意を決した僕は、華凛に確認する。落ち着いて発したつもりだったが、僕の声も震えていた。自分でも驚くほど、緊張しているようだ。
華凛がかすかに頷く。その仕草に、僕の中の何かが崩れ落ちた。
華凛の瞳に吸い込まれそうになる。その瞳の中に、宇宙が広がっているかのよう。時間が止まったかのような静寂の中、彼女の息遣いだけが聞こえる。
僕の視線は、思わず彼女の唇に引き寄せられる。桜の花びらのような可愛らしい薄紅色の唇はとても柔らかそうで、ほのかに上気した色合いが妖艶さを醸し出している。
華凛が僕に近づくにつれ、彼女の香りが僕の鼻腔をくすぐる。雨上がりの森を思わせる清々しさと、どこか甘美な香り。その香りが僕の理性を溶かしていく。
彼女の髪が僕の頬をかすめる。絹糸のような滑らかさに、背筋に電流が走る。
どちらからともなく、目を閉じる。世界が一瞬にして暗転し、感覚が研ぎ澄まされる。そして、これまでの人生で感じたことのないほどの柔らかな感触。
まるで蝶が羽を休めるかのような、そっと触れるだけの軽やかさ。しかし、その一瞬で全身に火花が散る。
僕の中で、何かが大きく変化していくのを感じる。深い感動が胸を満たしていく。
ゆっくりと目を開けると、そこには今まで見たこともないような、輝くような表情の華凛がいた。頬を赤く染め、潤んだ瞳で僕を見つめる彼女の姿は、まるで絵画のように美しい。言葉を失ったまま、僕たちはしばらくの間見つめ合った。
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