2019年のバイトの話

『【簡単な機械操作・コミュニケーション】 資格、性別などは問いません。指定された日程を守れる方。応募後簡単な面談を行います。日給15万円』

 僕がそれを見つけたのは、たまたま手に取った求人誌だった。コンビニでおにぎりとお茶を買った時に、なんとなく新しいバイトを探そうと思った。そこに置いてあったものを適当に手に取り、自宅でおにぎりを食べながら眺めていると、この文章が目に止まった。正確には文章というより、日給の額に。日給15万円? 仕事の内容も曖昧で、一体何をさせられるのか興味が湧いた。少し怖かったが、内容を聞いてから判断すればいいと思い、好奇心に任せて書いてあった連絡先に「求人誌を見てバイトに応募する」という内容のメールを送った。次の日には返信が来た。

 返信には、待ち合わせ場所と3つの日時が書かれていた。幸いどの日も特に予定がなかったので一番近い日を選んでまたメールを送った。3月2日、土曜日の15時に面談をすることになった。


 その日は昼過ぎに起きた。朝食兼昼食を軽く済ませて、待ち合わせのカフェへ向かう。僕は内心ドキドキしていた。応募した日から、あの求人を出したのが一体どんな人物なのか想像を膨らませて、ああでもないこうでもないと考える時間が増えていくばかりだった。ついにその人物に会えるのだと思うと、少し怖い反面楽しみで仕方がなかった。実を言うと、前日は考えすぎて眠れなかったのだ。まるで遠足へ行く前日の小学生のような気分で、久しぶりのその感覚にまた興奮して、何時に眠りにつけたのかわからない。

 カフェへは待ち合わせの15分前には到着した。メールでは不便だと、前もってメッセージアプリを交換しておいた。到着したことと、自分の服装の特徴を書いて送るとすぐに返信が来て、後5分ほどで到着するので席に座って待っていてほしいとのことだった。入口から見えやすい席を取り、とりあえずコーヒーを頼んだ。


 ちょうど5分ほど経った頃に、控えめな女性の声が聞こえた。僕はついさっき来たコーヒーを飲みながら携帯を眺めていた。顔を上げると、そこに彼女がいた。僕が想像していたような、暇と金を持て余した中高年の男性・女性や、強面の男、とてつもなく美人なお姉さん……ではないことに少しがっかりした。そこに立っていたのは、地味で平凡な同い年くらいの女性だったからだ。挨拶を交わして、互いに待ち合わせ相手であることを確認した。

 彼女は、一つ年上の23歳だった。名前は石井 あやというらしい。身長は155cmくらいだろうか? 長い黒髪に、地味だがよく見ると整った顔で、可愛いというより美人だと思った。学校では陰で人気があったタイプに違いない、なんて考えながら自分も自己紹介をした。一つ年下であること、大学3年生であること。今は春休み期間中なので、3月中であれば日程の調整が可能であることを伝えた。彼女は少し考え込むような表情をした後、僕にこう尋ねた。

「あなたは人と話すことが好きですか? それと、今お付き合いしている方はいませんか?」

僕はその両方に、「はい」と答えることができた。彼女は頷くと、仕事内容を説明し始めた。

 簡単にまとめると、彼女の家で3日ほど滞在して機械の試運転を手伝う。そのためには会話が必要であること。また、その後は機械をしばらく預かっていてもらうことになること。さらに詳しいことは始まってから説明したいということ。最後に、もし嫌であれば途中でやめても大丈夫であること。僕はその全てに了承し、日程を決めることになった。


 3月22日、金曜日の朝8時に彼女の家の最寄駅で待ち合わせた。この日から24日の夜10時まで、僕は彼女の家に泊まり込みで仕事をする。駅からは彼女の運転する車に乗って、15分ほどで家に着いた。木々に囲まれ、家の裏には山がある。歳の近い女性が、こんな辺鄙な場所に一軒家を持っているのは不思議だったが、もしかすると彼女はどこか良いところのお嬢さんなのかもしれない。それなら、日給15万円なんて大きな数字にも納得がいく。特に詮索はしなかった。

 家の外観や内装は、ごく普通だった。ただ、一人で暮らすには広すぎると思う。リビングに通され、ソファに座った。荷物は近くに置かせてもらった。軽くご飯を食べながら休憩しつつ、彼女は説明を始めた。

「これは私の思考・会話パターンを学習させたデータが入ったカードです。これをこの充電式のぬいぐるみに差し込んで起動させます。あとは一緒に会話をしていただければ大丈夫です」

そう言いながら彼女は、人間の赤子ほどの大きさの、蚕の繭のような形をした、何かふわふわとしたもののチャックを開け、中にある灰色の何かにSDカードのようなものを差し込んでボタンを押した。数秒後に、彼女にそっくりな声が繭のようなものから鳴り出した。彼女はそれに対して「おはよう」「今日は3月22日の朝8時、37分です」と声をかけ始め、昨日は何をしただとか、今日は何時に起きて、今は何を食べているとか会話を始めた。僕はよくわからないので、黙ってその光景を眺めていた。彼女はその繭のようなものを、赤子を抱くように揺らしながら穏やかな表情を浮かべていた。

 しばらくそれが続いた後、彼女はその繭のようなものに僕を紹介した。僕はとりあえず挨拶をして、彼女に合わせて繭のようなものに声をかけた。僕の自己紹介や、今日の天気、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな場所の話をした。人間の適応能力とは恐ろしいもので、最初こそ戸惑いぎこちなかった会話も、10分ほど話していると慣れてきた。会話の中に驚きや笑いが含まれるようになってきた頃、彼女が「少し休憩しましょう、お茶を入れてきますね」と言い、僕に繭のようなものを抱かせ、席を立った。それは想像以上に重みがあり、ふかふかしていて、温かかった。姉の子供を抱いた時の感覚が蘇った。自我を持たない、温かな肉の塊。


 一体どういう仕組みなのかはわからないが、この塊は彼女にそっくりな声だし、会話中の反応もほとんど彼女と同じだった。強いて言うなら、この塊の方が少し明るい性格であるように感じた。先ほどと同じように質問をしたり、されたりしていると、彼女がティーセットを持って戻ってきた。そういうものには疎いが、青色の小さな花が描かれていて、金の細かな装飾のついた綺麗なセットだった。紅茶を入れ終わると、彼女は塊を受け取り、また赤子を抱くようにしながら会話を再開した。紅茶は美味しかった。飲み終わると、僕の部屋へと案内された。

 昼食の時間まで自由にしていて構わないし、必要なものがあれば可能な限り提供すると言い残し、彼女はリビングへ戻った。やるべきことを整理しよう。まずは荷解きだ。そこまで荷物が多いわけではないのですぐに終わってしまった。次はどうしよう、周辺を散歩でもしてみようと思い、彼女へ声をかけて外へ出ることにした。リビングを覗くと、彼女は塊を抱いたままテレビを見ているようだった。少し迷ったが、散歩へ行ってきますと声をかけた。「わかりました。いってらっしゃい」「いってらっしゃい」二つの彼女の声が返ってきた。


 外は少し肌寒かった。まだ10時にもなっていないし、曇り空だ。周りには特に見る場所もなく、適当に歩き回って時間を潰すことにした。本当に暇だった。木の枝を拾いながら歩いて、今持っているものより大きな枝を見つけたら交換する、という遊びを思いつき、実行するくらいには。やっていると楽しくなり、結局1時間ほど歩き回っていた。家に戻ると、彼女はまだテレビを見ていた。僕も近くに座り、一緒に見た。ドラマの録画らしく内容はあまり分からなかったが、主演女優はかわいかった。


 昼食は彼女が作ってくれた。焼いたパンとチーズオムレツ、サラダにスープ。僕の生活の中では一生お目にかかれないメニューだ。しかもとても美味しかった。その後はちょっとの休憩を挟んで、またリビングで彼女と塊と僕とで会話を続けた。大学では何を学んでいるのかとか、単位がどうとか。面白い教授の話をすると、彼女たちは声を揃えて笑った。旅行先でのちょっと危ない体験の話では、彼女は心配そうな表情を浮かべ、大丈夫だったのかと聞いてきた。大丈夫だからここで元気に話せているのだと言うと、安心したように表情が緩んだ。塊の反応は彼女とは少し違っていた。大丈夫か聞いてきたところは同じだったが、幾分か声色は明るく、笑いを含んでいた。会話の中で、こういったことが何度かあった。

 朝と同じように時間を潰し、またテレビを一緒に見た。夕食は緑色のソースを纏ったパスタで、バジルの香りが口いっぱいに広がった。これもまたとても美味しかった。休憩してから、また彼女たちと会話をした。話の流れがある程度穏やかになってきたところで、彼女は塊に「おやすみ」と言うと、電源を切った。

 僕は彼女の後に風呂に入った。髪を乾かし、部屋でスマホを眺めながら今日を振り返り、こんな楽に大金が手に入るなんてラッキーだな、なんて考えながらしばらくぼーっとしていた。喉が渇いたのでキッチンへ行った帰りに、リビングに彼女がいるのを見つけた。なんとなく声をかけようと思い近づくと、彼女が泣いていることに気づいた。ぱたぱたと落ちる涙の音がやけに大きく聞こえた。少しの間の後に、彼女が僕に気づいて顔を上げた。暗い表情で、目元や頬は涙でぐちゃぐちゃだった。長い髪が数本、涙で頬に張り付いていた。僕はどうすればいいのか分からなかった。彼女はすぐに俯いて、大丈夫だから放っておいてほしい、と震える声で言った。僕は何も言えずに、引き下がるしかなかった。部屋に戻っても、眠りにつくまで、彼女の泣いている顔が頭から離れなかった。

 翌朝、ノックの音で目が覚めた。ドアの前に、彼女がいた。

「昨日の夜はごめんなさい。泣いている自分が嫌いで、あまり人に見られたくなかったんです。朝食ができていますから、支度ができたら来てくださいね」

 僕は、昨日のことは気にしなくていい、と返事をしたと思う。それから洗面所へ向かい、トイレを済ませて朝食を食べた。そこからは、昨日と同じように過ごした。休んで、会話をして、ご飯を食べた。昨日と違うのは、僕が塊を抱く時間が増えたことくらいだ。ずっしりと重く温かい、あの心地よい感覚が身体にまとわりついて取れなかった。彼女にそれを抱かせてくれないかと頼んでみると、快諾してくれた。


 夜、また彼女はリビングで泣いていた。僕は最初、声をかけずに、彼女を観察した。声を押し殺して、彼女は泣いていた。微かに、ぱたりぱたりと涙が落ちる音が聞こえる。それを黙って盗み見ていることが、なんだかとても良くないことのような気がして、大きな罪悪感に襲われた。今回は声をかけようと決心して、僕は彼女の隣に座った。彼女は驚いた顔でこちらを見て、前と同じように俯いた。言葉が喉でつっかえて、うまく出てこなかった。彼女は黙っていた。

「どうして、泣いているんですか?」

ようやく出たのはこの言葉だった。彼女は、迷っているようだったが、ゆっくりと話してくれた。

「私は、自分が嫌いなんです。特に、こうして暗い時、泣いている時が嫌なんです」

「そうなんだ」

「はい。それで、私の”良い部分”だけを学習させたAIを作っているんです。”良い部分”だけを、残したいから」

「”良い部分”って?」

「明るくて、社交的な部分だけ、と言った方がわかりやすいですね」

そう言うと彼女は顔を上げた。話している間に、彼女の涙は止まっていた。暗い表情と涙の跡だけが、彼女の顔に残っていた。

「遅いですから、もう寝ましょう。長々とごめんなさい。おやすみなさい」

おやすみなさい、と返して僕も部屋に戻った。

 部屋に戻ってから、彼女たちと話している時に感じた性格の差が、気のせいではなかったことを確信した。なぜそんなことがしたいのかはよくわからなかった。彼女の言っていた残すという言葉の意味はなんだったのか、僕の”良い部分”はなんだろうか、と考えているうちに、いつの間にか眠っていた。


 3日目も、同じように過ぎていった。昼食の後、彼女は出かけると言ってどこかへ消えた。その間は僕が塊と会話を続け、気がつくと1時間ほど眠ってしまった。塊を抱いていると、重みと温もりが心地よかった。しばらくして、彼女が帰ってきた。会話の流れは彼女が加わり大きくなって、徐々に小さくなった。


 夜。彼女はまた暗い顔をしていた。僕は荷造りをして、彼女たちと最後の会話をした後、塊の電源が切られた。

「お金は今日のお昼に振り込んであるので、帰ったら確認してくださいね」

「わかりました」

「これを、預かっていてください。嫌なら、断っても大丈夫です」

「大丈夫です。いつまでですか?」

電源の切れた塊を受け取りながら尋ねた。

「その時はわかると思います。もし嫌だったり、わからない時は捨ててもいいし、とにかく今は預かっていてください」

僕はそれを荷物と一緒に車に運び入れた。彼女はここに来た時と同じように運転し、駅まで僕と荷物を送ってくれた。

 駅に着いて、車の中で彼女との最後の会話があった。僕はふと、気になったことを聞いた。

「他にも応募者がいたと思うんですが、どうして僕を採用したんですか?」

「そうですね、結構いたんですけど。どうして、と言われると正直わからないんです。ただ、いい人だと思った、というか……」

「いい人ですか?」

「はい。直感で、というか、そんな感じで。うまく言えないんですけど……」

少しの沈黙。彼女が息を吐いた。僕は車を降りた。

「何があっても、気に病まないでいいですから。3日間、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

「じゃあ、さようなら」

「さようなら」

僕は家へと向かった。気に病まないでという言葉が気になったが、聞くことはできなかった。翌日口座を確認すると、45万円が振り込まれていた。



 あのバイトから2週間ほど経った頃、テレビで聞き覚えのある地名が読まれた。意識を向けると、あの山で女性の遺体が発見されたというニュースだった。急いでスマホを掴み取り、ネットで遺体発見のニュース記事を調べた。

『__の山林で女性の遺体があると110番通報があった。__署によると、遺体に目立った外傷はなく、警察は自殺の可能性もあるとみて調べている。また、近くに住む女性(23)の行方が分からなくなっており、同署は関連を含め身元や死因について捜査を進めている________』

 全身の血の気が引いて、身体が冷たくなるような感覚があった。その日は何も手につかなかった。翌朝にはもう、見つかった女性が「石井 彩」で、彼女の家には遺書のようなものが残されていた、とテレビでアナウンサーが原稿を読み上げていた。

 僕は朝食を食べながらそのニュースを見ていた。パンを口に入れ、飲み込むこともできず咀嚼を続けていた。仕方がないので無理やりコーヒーで流し込み、まだ食べかけのパンを捨て、コーヒーはシンクに流した。

 僕と彼女には、たった3日間の繋がりしかなかった。その中で特に鮮明に覚えているのは、彼女が暗い表情で涙を流している光景だった。僕にはもしかすると、何かできることがあったんだろうか?そんなことを考えても意味がないことは、既に彼女の死をもって証明されていた。彼女は何を思ったのだろうか。僕には分からない。塊がある限り、半永久的に彼女の”良い部分”だけがこの世に残ることが、果たして幸せなことであるのか、僕には分からなかった。自我を持たない、温かな塊。それを僕に託したのも、どうしてなのか分からなかった。ただ、彼女の言っていた『その時』が、今であることははっきりと分かった。

 僕は機械を起動させた。彼女の声が、塊から聞こえてくる。赤子のように抱きながら、少しだけ塊と言葉を交わし、電源を切った。僕は機械を覆っている布を、丁寧にはさみで切った。まるで蚕の繭を、中の柔らかい蛹を傷つけないように、気をつけながら切り開くように。実際に中に入っていたのは、綿とそれに覆われた無機質な硬い塊だった。カードを抜いて、はさみで壊した。処理方法がわからなかったので、全てまとめて古い服に包んでゴミ袋に入れた。そのままゴミを出しに外へ出た。昨日の午後から暖かくなった。太陽の光を浴びながら歩いた。

「さようなら」

 それが僕と塊が交わした最後の言葉だ。彼女と交わした最後の言葉も、「さようなら」だった。僕は二度彼女に別れの言葉を告げた。これが本当に最後だった。


 僕の仕事は終わった。

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