文章
未定
蟻
それは突然だった。
「私の話を聞いていただけませんか?」
「懺悔がしたいのです。どうか、少しでも足を止めて、私の話を聞いてはいただけないでしょうか」
私は頭がおかしくなってしまったのだと思った。
今日は珍しく平日の休みだった。普段は朝の六時頃に起きて朝食や身支度を済ませて、七時頃には家を出るが、今日は休日なので八時頃に起きて、二度寝三度寝と繰り返して十三時四七分に起きた。それから昼食を食べた。面倒だったのでカップ麺と、昨日の夕飯の残りのご飯を一緒に食べた。食べながらワイドショーを見たり、友人からの連絡に返信をした。
前日の天気予報で、今日は過ごしやすい陽気になることは知っていた。昼食を済ませた後、少し休んだら近所の公園へ散歩へ行こうと考えた。確か十五時頃には家を出た。一、二時間ほど時間を潰して帰ろうと思っていた。今は公園へ来て一時間ほど経ったところだ。ここまでが今までの行動の履歴だが、記憶におかしい部分は一つもない。やはり本当に頭がおかしくなってしまったのだろうか?それとも、自分はまだ夢の中なのかもしれない。むしろそちらの方が良かった。
どうして。どうして、蟻が喋っているのだろうか。周りには何もない。人影もない。目の前の土の上には蟻がいる。声はそこから聞こえた。
「どうされたのですか。私の声が聞こえませんか?」
ぼーっとして返事を返さない私に、少し心配そうに蟻が話しかけてきている。蟻が。
「ごめんなさい、よく聞こえています。初めてのことで、どうしたらいいのか、ええ、その。聞こえています」
これはドッキリか何かだろうか。今に『ドッキリ大成功‼︎』と描かれた看板を持った流行りの芸人が現れないかと期待したが、そのような気配は微塵もなかった。
「よかった、よかった。聞こえているのですね」
蟻は安心したように左右に頭を揺らしている。もうどうにでもなれ、と思った。
「はい。大丈夫です。えー、蟻さん、でいいんでしょうか」
「はい、蟻です。お好きにお呼びください」
少しの間があった。私はとりあえず名前を教えて、懺悔とはなんなのかを尋ねてみた。蟻は、ゆっくりとこちらに向けて触角を伸ばしたり縮めたりしながら話し出した。
「私は蟻です。それ以上でもそれ以下でもありません。私はこのちっぽけないのちを繋ぐために、仲間と共にそれは多くのいのちを食い尽くしてきました。コロニーのためだ、女王のためだ、幼虫たちのためだと理由をつけて、いのちを奪ってきました」
「蟻さんは人の食べ物や生き物の死骸を食べているんだと思っていました」
「もちろん、それも食べます。しかし、それもいのちからできています。私はそのいのち達を、自分のちっぽけないのちのために使ってきたのです。なんと恐ろしいことか」
蟻はそう話しながら左右に行ったり来たりしている。その動きはなんだか不安そうに見えた。
「自分のちっぽけないのちのために、他のいのちを使うことしかできないのです。気づいてしまってからはもう、コロニーに居られなくなりました。他のいのちを奪いたくないのです。それは間違ったことだと気づいたのです」
私はなんだかイライラしだした。そんなこと、全ての命を持つものが行うことだ。蟻は繰り返し、「他のいのちを奪うこと」が間違っていると繰り返し続けた。私は黙って聞いていた。
途方もない時間が流れた。と言っても、実際には十分程度だろうが、私には一時間も二時間も経ったように感じられた。つまらない授業を聞いている時と同じ感覚だ、と思った。蟻は相変わらず、その小さな体を左右を行ったり来たりさせながら、己の罪の告白を続けている。
こんなに良い天気で、珍しい平日の休みで、良い気分で散歩をして、夜には湯船にでもゆっくり浸かってしまおうと考えていたのに。私は一体何をしているんだろうか。こんなよくわからない蟻の話を聞いて、時間を無駄にしているのではないだろうか?こんな貴重な休日に。ただでさえわけのわからない状況なのだ。私の精神は限界を迎えていた。
急に蟻の声が途絶えた。私が蟻を踏み潰してしまったことに気づくのに、数秒かかった。悪いことをしてしまったと思う反面、これ以上面倒な話を聞かなくて良くなったことに対するスッキリとした気持ちもあった。蟻を潰してしまったことより、自分の頭が正常に戻ったことへの意識が大きかった。安心感さえあった。
罪悪感がなかったわけではない。わざわざ潰れた蟻に、手で周りの砂や土を集めて被せてあげて、その辺に生えていた名前も知らない花を摘んで上に置いた。手は汚れたが、面倒だったので家に帰ってから洗えばいい。予定では後三十分ほど公園にいるつもりだったが、とにかくもう早く帰りたかった。
帰り道でも、手を洗っている時も、湯船に浸かっている間も、どうしてか蟻の言葉を反芻していた。私のちっぽけないのちを繋ぐために、他のいのちを奪うことは間違っている。
考えすぎて眠れなかった。意識を手放したのは布団に入って何時間も過ぎた頃で、カーテンの隙間からうっすらと光が差していたのが最後の記憶だった。アラームで起きた。スマホの画面に映し出される、『停止』の文字を押す。そのまま会社に、体調が悪いと適当な理由をつけて、欠勤のメールを書いて送った。睡魔に身をまかせて深い眠りに落ちた。夕方に起きたが、食欲がなかった。水を飲んで、また眠った。翌日も会社を休んだ。
私はもう何もすることのできない肉塊になってしまったような気がした。眠る度に夢を見た。私はあの蟻になって、高い草の生い茂る地面を歩いている。誰かにこの気持ちを聞いて欲しくてたまらなかった。あの蟻も、同じ気持ちだったのだろうか?考えたところで、もう知ることはできない。それを知る唯一の蟻を殺したのは、紛れもなく私だった。
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