第2話 ユニコーン
教室や廊下でばったり会えるかもなんて、そこまで楽観視していたわけじゃない。けれど彼もわたしと同じ学生なのだから、少なくとも生活圏は重なっているはずなのだ。
授業は受けなくても死なないけれど、食事はそうも言っていられない。教室には出てこなくても、食堂には必ず現れるはずだ。顔がわからないのでそのあたりは同級生たちに訊きながら、二、三日もすればつかまるだろう。
我ながら冴えている。
そのときは鼻歌まじりにうぬぼれた。
「クォルツ・フテルク? 誰それ」
「本当に俺らの学年のやつかよ。勉強のしすぎでついに架空の友達作ったんじゃねーの」
「ガリ勉菌がうつる! どっか行け!」
……発言の幼稚さはともかく、同級生の男子たちはクォルツ・フテルクの名前に心当たりすらないようだった。学年が同じなら寮の階も同じで、同室の人だっているはずだ。こうも認知されないで生活できるものなのか。
「クォルツ・フテルクだって?」
思いもよらなかったのは、二つ上の六年生に彼を知る者がちらほらいたことだった。
「黒髪に、悪魔みたいな赤い目だって」
「血みたいな赤髪に、金の瞳らしい」
「額から角が生えてたって聞いたぜ」
しかしどの証言も、語尾が『らしい』とか『って聞いた』とか曖昧で、信ぴょう性がない。当初予定していた二、三日の張り込みでは、彼をつかまえるどころか、おおまかな外見の情報すらまともに手に入らなかった。
手がかりすらつかめないまま迎えた七日目の午後、魔法生物学の授業で『ミレーヌユニコーン事件』を知って、衝撃を受けた。
ミレーヌ村の人たちが一斉に幻獣ユニコーンを見たと訴えたことで、ユニコーンの実在をめぐって大論争になったという騒動。村民たちの証言はちぐはぐで、やれ目は赤かった、いや青かった、角が生えていた、角はないが翼はあった——とても既視感があった。
なるほど、クォルツ・フテルクがユニコーンならば、食堂に張り込んだくらいでつかまえられるわけがない。相手は幻獣なのだから。
同時に気づくことがあった。マクレガー先生は課題のついでのような言い方をしたけれど、これはれっきとした課題の一部だ。こうまで見つけだすことが難しい相手を、そうと明かさず、無責任に任せたりはしないだろう。
決意を新たにしたわたしは、それから十日間かけて、ユニコーンを探し求める研究者さながらの熱意で学園じゅうを駆けまわった。
「……いい雨になったわ」
真夜中、にわか雨が降る。
教員や生徒が眠りにつく灰色の古城も、秋の陽のほてりがすっかり冷めやった土も、崖際を囲う石造りの城郭も等しく濡らされる。
「外出届は出されていなかったけれど……そんなの、問題児には関係のないことよね」
食堂に現れないのならば、食べ物を調達するためにはアカデミーの外に出るほかない。
教員や生徒の目がある昼間よりも、消灯時間を過ぎたいまの時間が動きやすいはずだ。
「大地の女神、ゲルニカ様……」
祈りをこめて、大地に手を添える。
十日間、授業のあいまに時間を見つけては少しずつこの足で刻んできた、誰の目にも触れない魔法陣。連立された二つの式のうち、すでに一つは雨の色に灯されている。
残される一つに、チェリー一粒分にもみたない魔力を指先から慎重に捧げる。
どくり。陣のかすかな脈拍。
次の瞬間、朝焼けの色が雨色の式の隙間を這うように地上へ広がっていく——まるで
うろたえる足跡が視えた。
ありがとうございます、ゲルニカ様……どうかそのまま捕まえていてください。
この機を逃がしてなるものかと、わたしは持ちうる全力で駆け出した。
「——クォルツ・フテルク!」
はたして城郭付近で、わたしはようやくその姿を見つけることができた。
「……よね? そうと言って! これで人違いだったらあなたもわたしも災難すぎるわ」
腰から下を泥に拘束されるそのひとは、どうやら抵抗もせずじっとその場に立っていたらしい。
とくに乱れたようすのない髪は黒でも赤でもなく、雲間からときおりこぼれる月明かりと同じ、白と銀のあいだの色をしていた。角らしきものはどこにも見あたらない。
「……あんたがこの魔法陣を?」
流れる雲が束の間とぎれて、はっとするほど明るい光が彼を照らす。
黒い衣服はかえって影を濃くしたけれど、陶器のような肌に埋められた双眼がいかに澄んだ青色をしているかは、このとき鮮烈にわたしのなかに焼きついた。
いつか物語で読んだ、水面に映った自分に恋をしたという精霊がのぞいた湖は、きっとこんなふうだったのだろう。
質問されたことも質問に答えてもらえなかったことも一瞬忘れた。
雲が流れてきて、また影に浸されたことでようやく我にかえる。
「……そうよ。あなた、わたしのことを知らないのね」
自虐のつもりが、彼はそう捉えなかったらしい。
まとう雰囲気にわずかに険がはらむ。
「あいにくと、そういったことに興味がないもので。でもなんとなくあんたが誰だか理解した。国際なんとかに参加するっていう優等生だろう。それで、教師に言われて俺を探しにきたわけだ……ずいぶんと手荒に」
「それはあなたがまったく授業に出てこないせいでしょう、クォルツ・フテルク。はじめまして、わたしはオードリー・ホプキンス。二人で輝かしい来年度をつかみとりましょう」
ぱちぱちとまばたく気配がする。
「あんた優等生じゃなくて変人?」
「そもそも優等生だったらこんな時間に外をうろついていないわ。あなたと一緒でね」
「それもそうか。オードリー」
びっくりして肩が跳ねてしまったのが、どうか月明かりでバレていませんように。年の近い男の子から下の名前で呼び捨てられたのなんて、生まれてはじめてのことだった。
「なにかしらクォルツ」
「呼びにくいだろ。クォーツでいい」
そしてあだ名で男の子を呼ぶなんてことも経験がない。
どうして急に距離を詰めてきたのか、あるいは彼にとってはこれがふつうなのか、疑いながらもわたしは彼をあだ名で呼ぶ。
「クォーツ」
「残念。俺はあんたの課題に協力しない」
ぱっと彼の顔の横に持ち上げられた手には、杖が握られていた。
わたしと握手するつもりはないらしい。
そう気づいたときにはすでに先端が青く光りはじめていて、拘束していた泥からみるみると水分を抜きとって、手のひらほどの水球に変えた。
ひょいと投げつけられたそれはわたしの頬すれすれを掠めて、背後でばしゃと弾けた。
クォーツは
「あんた男慣れしていないだろう。名前を呼んだだけで油断するとか、かわいいな」
『かわいいな』で、またわたしが動揺するとばかにしている。わかっているのに顔が熱くなってしまうのが止められなくて、小さくなる背中を追いかけられなかった。
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