第46話 宿命のふたり、ついに交わる
座り込んでいる俺の頬は、なぜか濡れていた。
ようやく我に返り、ここがどこかのビルの廊下だと気づいた。
おおっ、あるじゃないか、トイレが。
しかし、安心してはいけない。これまでうまくいったためしがない。現に、女子トイレしかない。男子トイレは別のフロアにあるのか?
俺は用心しながら入ってみた。個室の扉が開いている。
和式。思ったとおりだ。
やるべきか、やらざるべきか。
この和式を克服しなければ、一生、俺はあの悪夢に打ち勝てない。もう二度とあんな思いをしないためにも……。
いや、ダメだ! この和式を使うということは敗北を意味する。便器ごときに屈するなんて、意地でもやってはいけない!
おれは二つの思いに揺れ、頭を抱えてひざまずいた。床にキラリと光っているもの……指輪が落ちていることに気づいた。
隣の個室も開いている。這い這いしながら覗いた瞬間、ギョッとなった。
こちらは洋式。その便器に、若い女が深く腰かけていた。しかも、彼女の目はうつろで、魂が抜けたようにぼうっとしている。
「どうしたんです?」
「……」
「大丈夫ですか?」
「……」
少しもリアクションがない。俺はあきらめて辞去しようと立ち上がりかけたが、腰を踏ん張ったせいだろう……来た、来た、来たッ!
過去最大級のこみ上げぶりに、俺は腹とケツを押さえ、のたうち回った。目の前の彼女に手を差し伸べても、目線はあらぬ方向、そ知らぬ顔だ。
その彼女が急に足をばたつかせた。
このままじゃいけない。私は生まれ変わる。会社を辞め、見知らぬ土地へ行き、新しい人生を始めるのだ。
私は再び脱出を試みていた。必死に踏ん張って踏ん張って踏ん張って……。目の前の床に、横たわったおっさんが体をクネクネさせていた。何をしているのだろう?
「どけ! どくんだ!」
いきなり私の手首をつかんできた。
「今、やっているでしょ!」
私は怒鳴り返した。おっさんは無我夢中で引っ張ってくる。私もさらに力む。
「クソーッ!」
恥ずかしげもなく、口にした。
「がんばれ! あと、ひと息だ!」
謎のおっさんが応援してくれる。荒い息と飛び散る汗が交わり、まるで愛の営みのようだった。
「イクぞ!」
「イッて!」
その瞬間、私の体が宙に浮き上がり、個室の外へ放り出された。中から水の流れる音が響いてきた。それは渦巻く濁流のような、あるいは大瀑布のような。
徐々に、その音が収まっていく。けれども、おっさんはいつまでたっても出てこない。覗いてみると、個室の中には誰もいなかった。ただ、便器の底に吸い込まれていく水の最後の瞬間だけを、私は見届けた。
(続く)
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