唐突な引っ越し話から1ヶ月。


 準備は、驚くほど着々と整っていった。

 学校は停学のまま転校になり、手続きや荷物の引き取りは全部父さんがやってくれた。私は近所でお世話になっていたごく一部の親しい人たちとお別れをして、荷造りをして、住み慣れた家を掃除して。

 気付けば軌道エレベーターに乗り込み、途中で宇宙巡航船に乗り換えていた。


 ラグランジュといえば、大昔のフランス人数学者。

 そのくらいは知っているけれど、まさかその名が宇宙にぽっかり浮かんでいるなんて、思ってもみなかったことだ。


 ラグランジュポイント。


 そう呼ばれる、地球と月の重力が釣り合う地点に、人類が先端技術の粋を集めて建設した第2の宇宙居留地スペースコロニー<Vega2>はあるらしい。

 外から見た姿は、ぐるぐる回る巨大なドーナツって感じ。この回転が地球と同じ重力を生み出しているんだって。どうでもいいけど。


 うちの住所が正式に<Vega2>のアドニス地区になったのは、地球のカレンダーで3月の初め頃のこと。


 母さんの言っていた通り、宇宙居留地スペースコロニーと言っても、見た目はあまり地球と変わらない。空と同じくらい高い位置にある天井には自然の動きを模した雲や太陽の映像が映し出され、公園には土が敷かれて草や木が生えている。噴水はホログラムだけどリアルな水音が聞こえてきて、周囲にはミストが漂っている。


 引っ越しの翌々日の金曜日から私は、さっそく学校へ通うことになった。

 キリ良く月曜からでいいじゃないと思ったけれど、月曜からは授業に集中できるよう、今日中に必要な案内をしてもらった方がいいって、もっともなことを言われた。

 全然気が進まなかったけれど、渡された制服にしぶしぶ袖を通す。

 パリじゃみんな私服だったのに、なぜかここには制服があるみたい。

 といっても、白地にエメラルドグリーンのセーラー襟が付いたトップスだけで、下に履くものは自由。襟の色はクラスの使用言語によって違うそうだ。


「転入生のソフィーよ。さあ、自己紹介をして」


 先生に促されて私は、8年生の教室にずらりと居並ぶ生徒たちの前に立った。

 すごい先進的な設備が整っているかと思ったけれど、そうでもない。生徒がみんな同じ制服を着ているのは奇妙だけど、髪や肌の色が様々なところはパリと同じだ。


 ……ちょっと待って。おかしな色彩が目に飛び込んできた。

 何あの、孔雀みたいな髪をした2人は?


 教室の端と端に、1人は青、もう1人は赤ベースで、光の加減で緑や黄色へと変化する、ド派手な髪色の生徒2名が座っている。

 噂の構造色ヘアってやつねとすぐに理解したけれど、見るのは初めてだった。


 確か、遺伝子編集技術を使った新ファッションだって、ニュースで取り上げられていたっけ。技術自体は前からあったけれど、最近手軽なファッションになったとか。

 最先端なのはわかるけど、はっきり言って趣味がいいとは思えないし、そんなことで自分の存在をアピールしたがる奴って、馬鹿っぽく見える。

 ああいう子って自分が最先端技術の申し子みたいに思っているから、下手したら、どうして肌の色を変えないんだって、聞いてくるのよね。


 あの2人には関わらないようにしよう。

 入室から3分も経たないうちに心に決めて、私は口を開いた。


「ソフィー・クロダです。よろしく」


 続きを待つように、沈黙が流れる。

 先生の顔を見ると、戸惑った顔つきで「それだけ?」と聞かれた。


「はい」

「ちょっと少ないわ。それにあなたの姓は……まあ、いいけど。

 それなら、住んでいる地区と好きなことを教えて。趣味とか、特技とか」

「住んでいるのはアドニス地区。趣味は読書です」

「聞いた? アドニス地区で読書好きといえば、カミユね。立ってみて」


 立ち上がったのが例の孔雀頭の青い方だったので、私はぎょっとした。

 まさか同じ地区に住んでいるなんて。先生が余計な気を回しませんように。


「あなたの席は当面、カミユの隣にしましょう。席を空けてあげて、そう、後ろに下がってね。カミユ、ソフィーにアドニス地区や学校のことを教えてあげて」


 私はため息をついた。願い虚しくってやつだ。

 残念なことに、青には漏れなく赤がついてきた。


「クロダって変わってるよな。どこの国の姓?」


 どうやら孔雀頭同士、仲がいいらしい。

 休み時間になると赤い方が当たり前のようにやってきて、青い方の机になんの断りもなく腰掛け、話しかけてきた。

 赤の名前はジル、青はカミユだと、さっき自己紹介の時間に聞いた。

 カミユは顔立ちからして女の子かと思ったけれど、ジルと話す様子を見る限り、どちらも間違いなく男の子だ。ますます関わりたくなくて、私は身を縮める。


「日本だろ。クロダって姓の作家がいるのを知ってる」


 文庫本に頭を突っ込んで聞こえないふりをしていると、代わりにカミユが答えた。

 へえ、意外にマニアックなこと知ってるのね。でも私はその作家の本、嫌いよ。


「シャイなのかな。さっきから話しかけても、全然答えようとしねーな」

「人嫌いかお喋り嫌いか俺たち嫌いなんだろ。放っとけよ」

「そうはいかねえだろ。おまえ、先生に案内頼まれてたじゃん」


 確かに先生は、休み時間に学校の中を案内するよう、カミユに指示していた。

 1人で見て回るからいいと言おうと思って、私は顔を上げる。

 赤髪のジルと目が合った。

 カミユの机の上からこちらを不思議そうに見ていたジルは、何かを発見したような、ちょっと得意げな顔つきになった。


「あ、やっぱり似てんなー、ミッシェル・タジョーに」


 そう言われた瞬間、全身の毛穴がぶわっと開くような感覚に襲われた。


 地声が大きいジルの発言に、クラス中の視線が集まるのがわかる。

 えーっと驚きの声が上がった。

 文庫本を盾に一切の質問を無視する私を遠巻きにしていた女の子たちが、再び蝶のように舞い戻ってくる。


「ミッシェル・タジョーの娘? 本当に?」

「最新作の『目覚めしオーロラ』、こっちのVR劇場でも上映される予定だったのよ。芸術鑑賞プログラムに、オペラ座のバレエは毎年必ず入るから」

「お母さんの怪我は大丈夫? 本当に引退しちゃうの?」


 私は全身に脂汗を滲ませ、本の表紙に爪を立てて、心の中でジルを罵った。

 どうしてバラすのよ。

 私はわざわざ、ソフィー・クロダ・タジョーとは名乗らずにいたのに。


「おい、腹でも痛いのか?」


 すぐ近くから声が聞こえ、びくついて横を見ると、こんな状況を招いた張本人のジルが訝しげにこちらを覗き込んでいた。

 そのやけに気遣わしげな表情を見て、怒りの炎が皮膚を焼き始める。


 母さんから舞台と引退後のキャリアを奪ったのは、私だ。

 非白人の希望の星エトワール。今どき珍しい〝天然〟の肉体美を誇るアーティスト。オペラ座の多様性ダイバーシティを象徴するアイコン的存在。理由はどうあれ母さんは、家族以外の多くの人にとっても、特別な存在だった。

 それを全て台無しにしたのが、バレエの才能を受け継いだわけでもない、平凡なくせに血の気だけ多い娘だと知ったら、この子たちはどんな顔をするだろう。


「救護室に連れてくよ」

 肩に置かれたジルの手を反射的に振り払うと、空気が凍り付いた。

「触らないで」

「なんだよ……」

 さすがにムッとした様子で、ジルが唇を尖らせた。

「俺、何か悪いことしたか?」

「そんな馬鹿みたいな色の頭してる奴と話したくないだけ。放っといて!」


 ジルの口が丸く開き、教室中がシンと静まり返った。

 チャイムが鳴る。

 先生が入ってきて、みんな席に戻って、数学の授業が始まった。

 ラップトップに指示された内容を打ち込みながら、これで完璧だと私は思った。

 明日からもう、誰にも話しかけられず、静かに本が読めるだろう。


「ソフィー、カミユとジルと一緒に帰りなさい。家が近いみたいだから」


 帰り際、何も知らない先生にそう言って送り出された私は、確かに家までの道筋がまだ不安だったので、赤青の派手な髪色を遠巻きに眺めながら歩くことにした。

 お陰で、無事に家へ帰ることができた。2人はもっと先まで行くらしい。もちろん挨拶なんてせずに、無言で玄関の生体認証キーを解除する。


 玄関に入った途端、執事バトラーAIが「おかえりなさい!」と声をかけてきた。スケジュール案内とメディカルチェックを全てスキップして、制服姿のままリビングのソファにダイブ。


「疲れた……」


 呟くと、どこからともなく癒しの音楽が流れ始めた。

 壁紙の色もオパールのように変化して、今の私を囲むのにふさわしい、穏やかなサーモンピンクの花びらになる。なんか悔しいけど確かに落ち着く。この家はもう、私より私のことをわかっているのかも。


 どれくらいそうしていただろう。

 執事AIが来客を告げた。


「誰?」

『コロニーのデータベースを照会。ジル・オーブリー、14歳、男性です。メッセージを受信。再生しますか?』

「……お願い」

『再生します。顔見せなくていいから少し話を聞いてくれ。終了。通話しますか?』


 少し考えた。相手は1人だ。先生に頼まれた用事があるのかもしれない。


「……OK。カメラはオフで」

『承知しました。指向性マイクのみオンにします。発言をどうぞ』


「聞こえる? もう話していい?」

 ジルの声が天井から響いた。私はソファに突っ伏したまま呟いた。


「聞こえてる。何か話すならどうぞ」

「あのさ、今日、悪かったな。自己紹介の時に母さんの姓、言わなかったんだって? 気づかなかったんだよ。俺、先生の話もいつも全然聞いてないから。カミユに怒られたよ、触れられたくなかったんじゃないかって」


 びっくりして私は、起き上がってクッションを抱え直した。

 いきなり素直に謝られるなんて。

 カミユに怒られた?


「でさ、それは謝るんだけど、構造色ヘアな。これ、俺は別にいいんだ。自分でかっけーと思ってやってるから。でも、カミユは自分で選んだんじゃなくて、気付いたらなってたんだ。開発したの、あいつの母さんだから。あいつんち、妹も犬もこう」

「……は?」

「俺は確かに馬鹿だけどあいつは頭もいいし、一緒くたにするのはなんか違うっつーか、そもそも親の仕事だしさ。もう、ああいう言い方はしないでほしい。

 ま、そんだけ。じゃあ明日な!」


 AIが通話の終了を告げる。

 いくらも経たないうちに、また来客があった。

 

『コロニーのデータベースを照会。カミユ・イヴェール、14歳、男性』

「カメラはオフで通話」

『承知しました。発言をどうぞ』


「カミユです。対応ありがとう。どうしても言っておきたいことがあってさ。

 構造色ヘアのことだけど、俺はこれ、生まれつきみたいなものだから、自分の趣味じゃないって言い訳がたつし、別にいいんだ。正直な話、自分でも馬鹿みたいって思うことあったし。

 でも、ジルの奴はずっと憧れてたみたいでさ。

 俺、馬鹿みたいなのが二人になって、この色も悪くないって、今は思ってるんだ。だから、さっきみたいな感想は、心にしまっておいてくれると嬉しい。

 それとジルは、全然人の話聞いてないだけで、別に悪い奴じゃないから。

 それだけ言いに来た。邪魔してごめん」


 語尾に被せるようにして、「あ、カミユ!」というジルの声が聞こえてきた。

 カミユが「なんだよ、おま」と言ったところで音声が切れる。


 ちょっと待ってよ。

 私は思わずソファから飛び降り、玄関に走っていた。

 裏表みたいなこと言いに来て、あいつら、なんなの?


 玄関扉を開けると、家の前の道路で2人が顔を突き合わせている。


「カミユ、実はソフィーと仲良し?」

「なんでだよ。ちょっと用があっただけだよ。おまえこそ何しに来たんだよ」

「いやちょっと、さっき言い忘れたことがあって……」

「さっき?」

「いや、さっきって学校でのことだよ。な?」


 急にジルがこちらに視線を向け、同意を求めてきた。

 さっき俺があんなこと言いに行ったって、秘密にしといてくれよ。

 言い忘れたの、たぶんそういうことだろうって、わかる目配せ。

 私はうろたえ、つい頷いてしまう。

 するとジルは、にっと唇の片端を上げた。


 あ、笑うんだ。

 仲間にするみたいに。


 思った途端、ぼろっと涙が零れた。

 ジルとカミユがぎょっとした顔つきになる。


「えっ、俺たちなんかした!?」

「大人を連れてきた方がいい!?」


 なぜか2人とも両手を胸の前に上げ、掌をこちらに見せている。

 ドキッとした。非白人系の子供が、警官に声をかけられた時にそうしろって、親から教えられるポーズだ。何も隠していないことを証明するために。

 どっちも白人だから、そんなこと意識していないだろう。でも、私はショックを受けた。彼らにそのポーズを取らせたのが自分だということに。


 どうして髪色のことなんか言っちゃったんだろう。

 生まれつき肌の色が黒いだけで、攻撃してくる奴がいる。その現実に慣れ過ぎて、自分がその反対の立場になることがあるなんて、思ってもみなかった。

 

 涙がぼろぼろと零れ続けた。もう、壊れたシャワーみたい。

 似たような泣き方を見たことがある。

 ベティだ。

 今の私は、あの時の彼女そっくり。


「わかったよ。泣けばいいよ。そういう時あるよな」

「どこまで涙が出るか試したいんだろ、知ってる。俺もやったことある」


 2人の男の子は早々に泣き止ませるのを諦めたようで、カミユはハンカチを、ジルは靴下の片方をポケットから出して、私が落ち着くのを待ってくれている。

 ちょっと待って。なんで靴下?


「おっかしーなー、ハンカチ入れたはずが……しかも親父のだし……」


 ジルがぶつぶつ呟いているのを聞いて、思わずカミユの顔を見る。

 カミユは真面目な顔つきで唇を引き結んでいたけれど、肩が小刻みに揺れている。


 目が合った瞬間、彼は勢いよく横を向いて、ブーッと盛大に吹き出した。

 鏡写しのように、私も同じことをしていた。

 お腹を抱えてゲラゲラ笑う。もう涙がどの理由で出ているのかわからない。


「なんだよ、おまえら、仲良しかよ」


 1人だけ唇を尖らせているジルの手には、男物の黒い靴下。

 私とカミユはもう一度吹き出して、もう一度お腹を抱えて笑った。

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