Bad Boys & a Girl【BadシリーズⅡ】

鐘古こよみ


 舞台の上で母さんは、スポットライトを浴びていた。

 演目は「眠れる森の美女」の現代アレンジ版、「目覚めしオーロラ」。

 母さんが演じるのはもちろん主役の〝令嬢オーロラ〟だ。


 力強いアラベスクに拍手が送られ、フェッテの回数にどよめきが起こり、グランジュッテの高さに歓声が沸く。

 私は母さんが用意してくれたパリ・オペラ座1階のバルコニー席で、その賞賛と拍手を自分のもののように聞く。


「肌の黒いオーロラ……」

「だから現代アレンジに……」


 たまに周囲の人が小声で話すのが聞こえるけれど、全然気にしない。


 長くしなやかな手足、黒光りする肌、目鼻立ちのくっきりした華やかな顔立ち。

 バレエ界の〝天然黒ダイヤ〟。

 それが世間に知られる母さん、ミッシェル・タジョーの愛称だ。


 どうして〝天然〟かって言うと、コートジボワールの貧民街で生まれ育った母さんの医療履歴には、遺伝子改良を受けた記録が1つもないから。


 国際NGO団体のバレエスクール・プロジェクトで才能を見出されたのをきっかけに、少女時代の母さんは団体の支援でフランスへ渡り、パリ・オペラ座バレエ学校の研修生を経て、難しい入学試験を突破した。

 青春の全てをバレエに捧げ、正式にバレエ団カンパニーの一員となり、ついにはオペラ座のトップダンサーである〝エトワール〟に選ばれた。


 ただでさえ非白人の少ないオペラ座のエトワールに、アフリカ系のダンサーが任命されるのは、ほとんど奇跡に近いことだ。史上初の任命は2023年、セネガル人の父とフランス人の母を持つ男性ダンサーだった。それから100年近くの歳月を経て、次に選ばれたアフリカ系が、女性としてはオペラ座史上初となる、私の母さんだというわけ。


 母さんは両親ともコートジボワール人で、夫は日本人。白人の要素が1つも見当たらないから、任命当初から非白人系ダンサーの希望の星エトワールとして、良くも悪くもかなりの話題を呼んだらしい。その余波は今も続いている。

 

 場面が第3幕に入った。

 スポットライトを浴びながら、衣装を変えた令嬢オーロラが再び登場する。

 ソロで踊るヴァリエーション。

 音楽に合わせて軽いステップ、続けてピルエット。

 次の瞬間、客席がざわめき、私は勢いよく立ち上がった。


 母さんが転倒した。

 

     *


『〝天然黒ダイヤ〟の輝きに亀裂――ミッシェル・タジョーの令嬢オーロラは〝黒染めブラックウォッシュ〟のそしりに足をすくわれたか』


 教室に入るとクラスメイトのベティが、自分の机に置いたラップトップにそんな下世話な見出しのニュースを表示させて、取り巻きの女の子たちに見せていた。


 ベティはオペラ座総裁の孫娘だ。

 金髪碧眼真っ白な肌で、ブグローって画家の描く天使みたいな見た目の彼女は、どういうわけか中学校コレージュに入学した当初から、私のことを敵視しているふしがある。


「あっ、ソフィー、お母さん心配ね。大丈夫なの?」


 可愛らしく細い首を傾げて、ベティは鈴みたいな声で聞いてきた。

 私は聞こえないふりをして自分の席に座り、いつも通りに文庫本――日本出身の父さんがたくさん持っている、今どきレトロな掌サイズの紙製の本――を開く。


「昨日の公演、オーロラが滑って転んで骨折して中止になったんでしょう? 大変だったわね。まさか、何かの病気じゃないよね?」


 ベティは自分の席から立ち上がろうともせず、教室中に響く声で大げさに人の家族の心配をした。これって傍目には、心優しい女の子に見えるのかな。

 

「ソフィーのお母さんは〝天然〟だから、何か遺伝子に潜んでいる病気が出てきた可能性もあるって、記事に書いてあったの。だから心配になっちゃって」


 夕べ、母さんは病院に運ばれたきり、帰って来なかった。今朝になってお見舞いに行きたいと言ったけど、おまえは学校へ行きなさいと父さんに諭された。


「公演中止なんて、残念ね。でも、物事は良い方に考えないと。批評されずに済んだ点は、かえって良かったのかもしれないわ。

 お祖父ちゃんの知り合いが言ってるのを、聞いちゃったのよ。この筋書きだと、単に黒人ネグロイドをオリジナル版で使うわけにはいかないから、現代化したように見えるって。芸術的な深みが足りないって。

 もし最後までったら酷評されて、脚本のせいで経歴に傷が付いたかも……」


 お腹の底に溜まった泥水っぽいものが急に、マグマみたいに沸騰した。

 私は周囲の椅子と机を乱暴に押しやってベティの席へ近づいた。

 そして腕を競馬用の黒い鞭みたいにしならせて、マシュマロそっくりな彼女の白い頬を思いっきりひっぱたいた。


 ベティの体が羽みたく吹っ飛んで、床に尻もちをつく。

 周りのクラスメイトたちが悲鳴を上げた。

 確か神様が言ってたわよね。右を叩いたら左も叩きなさいって。

 悪魔でも見つけたみたいに目元を引きつらせるベティの胸ぐらを引っ掴み、私は、さっきと逆側にもう一発お見舞いする。

 もっと大きな悲鳴が上がり、誰かが廊下を駆けてくる足音がした。


 先生に羽交い絞めにされ、私は、教室から引きずり出された。

 

 父さんが、ベティの母さんが、校長室に呼び出される。


 壊れたシャワーみたいに泣きじゃくる鬱陶しいベティの肩を抱き、母親が魔女みたいな目つきで睨んでくるのを眺めて、美人ならいいってもんじゃないと思った。確か彼女も、昔はオペラ座のバレエダンサーだったと聞いたことがある。

 

 父さんに頭を押さえつけられ、形ばかり謝った。

 理由を聞かれたけど、何も言わなかった。表面上、ベティの言葉は脚本の悪評を気にしているだけで、母さんを侮辱しているようには聞こえないとわかっていたから。

 本当のところ、ベティが言いたいのは、どうしてそんな脚本が書かれたのかってことだ。なぜ原案を捻じ曲げてまで、黒人がオーロラをやるのか。

 なんで、あんたの母さんがエトワールなの?


 布に隠されたナイフがどれだけ尖っているかは、突きつけられた私だけが知っている。ベティだけじゃない。オペラ座で他の大人たちが突きつけてくることもあった。「バレエは白人文化でしょ」「自分たちは文化的盗用をすぐに騒ぐくせに」「どうしてもやりたいなら遺伝子改良で肌を白くすればいい」


 その切っ先が子供のすぐ目の前にぶら下がっていることに、誰も気付いていなければいい。その方がずっと気が楽だ。私はいつだって聞こえないふりができた。

 でもベティは、私が逃げられない方法で、いつも巧みにそれを押し付けてくる。


 1ヶ月の停学を言い渡された。校長先生は遠回しな言い方で、お嬢さんにはパリ郊外の中学校コレージュの方が向いているのではないか、と父さんに囁いた。

 パリ郊外の中学校は、生粋のフランス人が多く通う中心部の学校よりもずっと荒れている。貧しい移民の子が多く、ルーツはバラバラで、肌の色が真っ白な子はまず見当たらない。お友達がたくさんできるのでないか、と。


 お友達ができるとは思えない。裕福な非白人なんてつま弾きにされるだけだ。

 父さんは薄々何かを察したらしくて、暴力はいけないと一言だけこぼした。


 私は、自分が悪いことをしたなんて、ちっとも思っていなかった。

 病院から車椅子で帰ってきた母さんが、宇宙に引っ越すと言い出すまでは。


「冗談でしょ?」


 冷蔵庫からよく冷えたパリ・コーラを取り出したばかりの私は、それを飲むのも忘れて、その場に突っ立った。

 学校で何があったか聞いているはずなのに、母さんはそのことには触れず、いつもより控えめな笑顔を浮かべて首を横に振る。


「本当よ。もう住む場所も決めちゃった。<Vega2>っていう宇宙居留地スペースコロニーの、アドニス地区って場所。地球とそっくりな環境で、フランス語話者が多いんですって。学校もフランス語で授業するクラスがあるそうよ」

「待ってよ。そんなの変よ。頭でも打ったの? どうして急に……」


 ハッとした。


「私のせい?」

 声を低めて訊くと、母さんは困った顔をした。

「私が今日、ベティの顔を殴ったから」


 ベティはオペラ座総裁の孫娘。父親も何か劇場関係の仕事に就いていたはずだ。

 あの母親の、魔女みたいな憎しみのこもった顔。

 娘が殴られたのだから当然だとは思う。じゃあ祖父は。父親は。 


「違うわ。それはもちろん反省すべきことだけれど、引っ越しとは関係がない」


 落ち着き払った母さんの声が逆に、それが事実だと示している気がした。

 頭にじわじわと血が昇るのを感じる。まさか。でも、他に考えられない。


「だってエトワールなのに、バレエはどうするの? おかしいじゃない。宇宙へ引っ越すなら、オペラ座バレエ団は辞めるってことだよね?」


 母さんは車椅子の脇で所在無げに佇む父さんをちらりと見上げ、引き攣れたように唇を微笑ませて「ええ」と頷いた。


「今回の転倒で、潮時だと思ったのよ。引退まで、どうせあと数年だから」


 パリ・オペラ座の引退年齢は階級に関係なく42歳だ。母さんは今39歳。確かにあと数年だけど、でも普通は、だからこそ頑張るものじゃないの?

 いくら転倒したからって、この話が唐突過ぎることくらい、私にだってわかる。

 オペラ座側だって、一度の失敗で母さんを手放すのは惜しいはずだ。なぜなら母さんは今や、オペラ座の多様性ダイバーシティを象徴するアイコン的存在になっているから。

 そのせいで、母さんの技術を真正面から評価しない人がいるのは悔しいけれど、そういう面があるのは事実だと思う。だからこそ、説明が腑に落ちない。


 それに引退したダンサーは、別のカンパニーへ移籍する人もいるけれど、バレエ学校の講師として雇われたり、芸術監督や振付師になったりして、オペラ座との関りを保っていく人が多い。

 最終階級がエトワールともなれば引く手数多だ。そりゃ、全く関係のないことを始める人も中にはいるけれど。


 母さんはずっとオペラ座に残るはずだって、私は思っていた。

 だって、舞台で踊る母さんは、女神みたいに綺麗で心から楽しそうで。

 ミッシェル・タジョーの魅力は肌の色よりも何よりも、その伸びやかで自然に湧き出る喜びの踊りを、力強く皆に見せてくれるところ!


 それが突然、宇宙?

 宇宙なんてオペラ座どころか、まともな劇場があるかすら怪しいじゃない!


「本当のことを言ってよ。私のせいで母さんはオペラ座にいられなくなったんでしょ。それで……」


「違うよソフィー。いつか宇宙で暮らそうって、結婚前から話してたんだ」

 急に父さんが口を開き、穏やかな声で私を止めた。

「僕は宇宙を舞台にした物語が好きだから、母さんも興味を持ってくれて」


 父さんまで。

 もう、我慢できなかった。


 私は無言でキッチンに戻り、温くなって掌を濡らし始めたパリ・コーラを乱暴に冷蔵庫に戻した。思いっきり閉めた扉が跳ね返ってまた開いた。

 急に全てが腑に落ちた。

 母さんも父さんも優しい。だからやっぱり、今回のことは全部、私のせいだ。

 私が学校でうまくやれなかったから。


 白人の代表格みたいなベティに手を上げた。正気の沙汰とは思えない。それで二人は、私がいっぱいいっぱいだって、気付いてしまったのだろう。

 だからといって、パリ郊外の中学校に通わせることもできない。

 住む場所を変えるしかない。

 どうせなら、父さんが住みたがっている宇宙へ。

 自分のキャリアを犠牲にするなんて言えないから、母さんは転倒を理由にした。

 私がいなければ母さんはきっと、最後までオペラ座にいられた。


 冷気が顔に当たって、目の周りがすうすうした。

 だからって自分に何もできないことくらい、よくわかっていた。

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