抱卵

押田桧凪

第1話

「なんか圏外みたい」


 初めて一人で予約できたホテルのベッドの上に座って、夫はぽつりと呟いた。機械音痴な夫のことだから間違えて機内モードにしたのだろう。貸してみ、と言って私は携帯を受け取ると、画面には男性向けアダルトサイトのページが開いているのが見て取れた。なんだ、電波立ってるじゃんという言葉よりも先に、なぜ私がシャワーを浴びている間──これからという時に、その動画を見ようという気になったのかが分からなくて私は憤りと不安が同時に込み上げてくる。


 性欲ゲージでいえば、今が一番ピークに近いはずで「風俗には何回か行ったことがある」と付き合う前から豪語していた彼が何かの拍子にAVで予習をしておこう等という気を起こすはずもなかろうに。なんで今、と私が声を震わせないように口を開こうとしたタイミングで夫は「違う。ここ」と言って、わずかに苦笑いを残した表情で恥ずかしそうに人差し指で自分の股間を指さした。アンテナ、ではなく性器がたたなくなった、ということだろうか。



 創作でしか泣けなくなった、と夫と初めて行った映画館で告白された時、私は一度、冷めた。その時のデートで観たのは、ありがちな難病ものの映画で、余命宣告を受けるシーン、そして彼女の表情が翳ってゆく段階から夫は既にマスクを濡らし始めた。暗闇の中で鞄から替えのマスクを取り出す動きがやけにスムーズだったのを覚えている。席の間に置かれたポップコーンを摘まむタイミングで互いの指先がちょんと触れる、という僅かな可能性に期待しながら席に着いた過去の私が急に馬鹿らしく思えてきて、当然、映画の内容に集中することが出来なかった。緊急搬送されたタイミングで流れる甲高いサイレンと同時にすすり泣く音で、私は映画の途中で目を覚ました。その後、エンドロールが終わるまでじっと画面を見つめる夫の横顔を私はつぶさに観察していた。私が好きになったのは、偽物の夫だと思った。


「卒業式でおれだけ全然、泣けなくて。逆にああやっとか、って思ったんだよね。まずい学食とも、休み時間に机に突っ伏して寝たふりをすることとも、球技大会で味わった疎外感も、クラスマッチも、全部とお別れなんだって。せいせいしたわ」と笑みをこぼす彼の顔がなぜかかわいく思えた。最後の舞台で泣くやつはダサい、と強がってるようにも見えた。だから今日、二度目の彼の告白で「AVを見ないと、俺たたないんだよね」と言われた時──(一時的なものかは分からないが)今はたたなくなった状態である──ああ、行為中に冷めることって体験談でしか聞いたこと無かったけど、本当にあるんだなと思いながら私はやけに気の抜けた声でそう、とだけ返事をした。「えっと、こういう時って泌尿器科に相談するんだっけ?」とやけに前向きな言葉を継ぐ夫に私は言い知れぬ絶望を降り積もらせながら。


 つくられた設定で、状況で、「ピンポイントで各人の性癖を刺激する」動画にどれほどの需要があるのか、AVを観たことがない私には当然、分からなかったし、私との行為よりもそれが大切なのかと思うと、気持ちが悪かった。見よう見まねで覚えましたと白状された方がマシだったし、男にとっての性欲がどれほどの単調さ──気分でたったり、たたなかったり、あるいは尿意が近づくと警告のようにたったり──といった気楽さに左右されることに、生理痛との板挟みで私は終始イライラするのだった。擬似的に満たした性欲。作り物でしか興奮できないくせに。常時備えている機能さえも果たせなくなった性器にもう用は無かった。だけど、それでも彼を見捨てないでいる私、すごい。えらい。誰にともなく掛ける言葉に若干の虚しさを感じながら、私はそういう種類の優越に浸る。多分、これを「不憫萌え」と呼ぶのだろう。私だけがこの人の良さが分かっている。皆が彼の魅力を知ることになるのは私の手から離れる時だ、と過信している女。それが私だった。


 外食する関係でしか結ばれてなかった私たちは、やがて旅行に行き、地元の遊園地に行き、水族館に行き、用意されたありきたりな順路を辿って紙一枚の関係に収まった。新婚後もその延長線上にある感覚で生きていたので、夫が病気で寝込んだ時に作るお粥を除いて、普段料理をすることの無い私はスーパーの惣菜パック、それも午後5時以降に半額になる商品を選んで買う人間だった。そのせいか、義母が家にやって来た時に口うるさく説教され、たまたまその日は早帰りで帰宅した夫の、「妻の手作りを毎日食べないと、結婚したことにならないのか」という一声で、その場はまあるく、けれどそれは楕円を描くようにして収まった。ごめん、うちの母親古い人間でさぁと彼は頭を下げた。私はその時、初めて偽物の妻だと思った。



「卵を温める行為には意味がないのに、じゃあなんで彼らはやってるんですか?」とまっすぐな目で問われたときのどうしようもない眩しさに私は目眩がした。動物のことを『彼ら』と呼ぶ健気さはもう私には備わっていないなとはっきり自覚したからだ。返答に戸惑い、その場で立ち尽くすようにして私は口を噤む。


 ペットショップで働くようになって1年が経つ。文鳥やセキセイインコを始めとする鳥類は毎年この時期になると抱卵を始める。産みすぎることは鳥自身の体の負担にもなるので、本物の卵をレプリカと取り替えて、偽卵を増やした状態で置くことで数を調整する。それも私たちの仕事だった。


 誰のものでもない卵を温めて、それで幸せ? 生まれてくることもない子どもを望んで、それで満足? この客はおそらくそう言いたいのだろう。


「私は鳥じゃないのでわかりません。それに私は飼い主であって、親じゃありませんから」


 ……だって、そうでしょう? そもそもギャンブルなんですよ。恩寵を受けたとか命の尊さとか、そういうのを説きたいのか知りませんけど、本能ってそういうものじゃないんですか、と喉元まで出かかった言葉をゆっくりと押し込む。咀嚼する。


「そう、ですか」と客が不満げな顔を一瞬見せた後、すぐに背を向けて立ち去るまでを私は一通り見送った。


 帰宅すると夫はすでにキッチンに立っていた。電子レンジから半額シールの貼られた弁当の箱を取り出しながら、IKEAで買った皿の上に無調理のミニトマトとレタス、作られた惣菜を盛り付けていく。粉末状のインスタントコーヒーも欠かさない。


「それで有給を取って、病院に行ったんだけど。もらった薬が効かなくて。このセンフォースってやつ」


 ED、という文字が私の頭上を掠めていく。かと思ったが、停滞して旋回を始めた。いっそのことをお互いの人差し指をくっつけて解決する類の事ならまだ良かった。一向に霧は晴れない。コーヒーをひと口啜る。


「精子は、あったんだよね?」


 あらぬ不安を自分の中で掻き立てないよう、私は声のトーンを落として慎重に尋ねる。


「うん。まあね」


 仕事場で休憩中に『夫 妊娠できない』で検索したときにヒットしたケースでは他に、精液が出ても、精子が存在しないという症例が見つかった。この診断は2時間ほどで結果が出るようだが精子を仮凍結した後、日を置いてその旨を知らせるという病院側の配慮があるそうだ。夫は、そうではないのだ。単純な勃起不全。それも私に性的魅力を感じることがない身体持ちで。偽物に偽物なりの罰が当たったのだと、私はそう解釈した。


 空を飛ぶことを諦めたら翼を失った、みたいなどこかの神話にありそうな話だと思った。気づいたら、夫はたたなくなった。ただ、それだけだった。子供を残せなかったら種として恥だとか、彼はそんなことを考えているような人間じゃなかったし、それを管理できるほど動物と人間の境って簡単にならなくならないんだな、当たり前だよなとか考えながら、私たちは偽物のままでいいやとさえ思った。


 そして、私がそんな彼を選んだのだった。どちらが好きかと聞かれたら、「両方」と答える私に「でもどちらかと言えば?」と選択を迫ることがないところが好きだったし、同棲を始めてから買ったサボテンについて「水やりは1週間に1回でいいからね」と言えば、ラッキーと答えるところとか、指の腹で眼鏡を押し上げる仕草とか、自分が合格していても落ちている人を見たら素直に喜べないタイプの私と対照的なところが全部、私に合っていた。


 嘘でもいいから誰かにまさぐられて快感を得たかったのなら私は別れるべきはずで、そうすることが自然界では正しかった。蟻社会を見て分かるように、使えなくなったオスから切り捨てられていくのは当然のことだったし、私はレスが退屈だった。


「初めて射精したのは、夢精だったよ。それも当時好きだった子のお母さんで」


 彼が目を伏せて暗闇の中で私の手を強く握りながらそう呟いたのは、きっと誰でも良かったからだろう。彼はもう自分の意思とは独立した肉体を持っているんだと私は思った。そう思うことにした。だから、いつ彼が彼自身を取り戻してくれるのか、それより先に私が手放してしまうのかは時間の問題でもあるような気がして、私は晴れているのに残された水たまりのような気持ちになった。私はシーツにくるまりながら、携帯の光の中に逃げる。



 その夜、私は本物に似せたうその男性器を買った。海外の通販サイトで特殊なSMプレイ用のグッズとして売られているものだった。値段の割に見た目はかなり精巧に作られており、レビューを見ると多様性の隠れ蓑──いわゆるトランス男性が使う『エピテーゼ』としても利用されているようだ。


 トリカヘチャタテという昆虫──メスが伸縮可能な性器をオスに挿入して修正を行う形態から着想を得て、性玩具メーカーで作られたそれは、ED(Erectile Dysfunction)とかけて Erection Decoy やErection in Disguise見せかけの勃起したペニス といった名称で販売されている。


 パッケージを開けて、説明書通りにはめてみる。私の姿を見て、夫はアフリカから連れてきた黒人を西洋人が見世物にして楽しむように、じろり、と私の性器を眺めてから、稚魚を優しく手放すようにして一瞥した。


 それから「え、それ俺のために買ったの?」と浮かれた声を上げる夫に対して、「残念、私のだけど?」と軽くあしらってみると、思いのほか私の身体に馴染んでいることに気づく。


 ウェアラブル端末の機能によりミラーニューロンとの連動で性的興奮を感知すれば、硬くなる仕様にもなっている。むくりと音を立てるように屹立したそれはアニメ・アルプスの少女ハイジの名シーンでようでもあったし、ウォシュレットの洗浄棒が起動したときのような無機質な感じでもあった。


 ため込んだ精液の流入口と逆流防止の弁を兼ね備えた拡張具は多種のカラードにも対応した『保護色のコンドーム』のようなものと言って差し支えなかった。再現された包皮の部分をこじ開けて、そこに夫の性器を挟み込む。精子が砂時計のように瞬きをする間に流れ落ちる。


「人間の上に立つ捕食者なんていないのにね。何の生き物に似せた機能美だろうね?」と私たちは冗談を言い合いながら、初めて正しく交わった。フィット感と気持ちよさがたまらなく良くって、いちご味の練り消しの匂いがした。気持ちいいの表情の正解が分からなくなるくらいに崩れてしまった彼の顔を見ると、これを選んで良かったと私は思った。


 中心に近づくにつれて、歓喜のような悲鳴のような声を機械的に上げる私と、「あ」と「え」の中間音で喘ぐ夫は傍から見ると、もはやどちらが男で女なのかも分からないシルエットを作り出していた。けれど夫のその声を聞くと、私は鏡の前で練習した苦労が透けて見えるような笑い皺の偏った不器用な笑顔を見ている時を思い出す。要は、ASMRとして提供されるAV受けする『あえぎ』に近い声音を夫が作っているだけのように感じて、本心から楽しんでいないところも私は嫌いになれなかったのだ。


 大丈夫、大丈夫だよ。この子がする時期が来ることは一生無いから、私が守ってあげるの。


 ここは電波があるからいいね。Wi-Fiさえあれば生きていけるね。欠陥品でも、あなたは誰からも排斥されることのない世界だから。そう心の中で唱えながら、かろうじて携帯のアンテナが二本立ったアパートの一室で、けれど夫のアンテナは立たないままで。


 そうやって、私たちは孵ることのない卵を温め続ける。

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