海水浴

 七月二十三日。午前八時五十分。

 待ち合わせ場所に指定された那古野なごや駅。大柿おおがき駅で乗り換え、時刻表じこくひょうどおりの時間に到着。

(ここで合っているのよね……)

 しっかりと調べてから来たから、正しいはずだけれど不安になる。改札口を出て、右に進むと金時計きんどけいがあるそう。


「こっちやで」

 大きく手を振る<ひなさん>。

 一緒に居るのは男性――同行者の性別確認を怠ったことを悔やむ。嫌悪しているわけではないけれど、日常生活で男性と接する機会が無いため、接し方がわからない。


 今更だけれど、リスクマネジメントが必要ね。

 移動は電車。自動車のように密室にはならないし、目的地は決まっている。予期せぬ場所へ連れていかれる可能性は、否定して良さそう。

 男性は、垢抜けていて少し年上。大学生くらいかしら。年齢差が気になる程は離れていない。むしろ年上の男性が居て、安心という見方をすべきかしら。


 <ひなさん>の知り合いだから、警戒する必要は無いわよね――手を振り返し、合流する。


  * * * 


 電車で一時間程掛けて、内海うつみ海水浴場に到着。

「飲み物を買ってくるので、場所取りをお願いします。<ひなさん>まつりさんは、持つのを手伝ってください」

 男が手を引き、二人で歩いて行った。買い出しなら、男同士で行けばいい。でも、<ひなさん>まつりさんと、名前で呼んでいるから、友人よりも深い間柄のようね。

「あの二人は、お付き合いしているのかしら?」

「無い無い。桃介が一方的に好きなだけ」

 昨日の電話で、<ひなさん>は『知り合いに誘われてん』と言っていた。ここに残っている彼らは、片想いを成就させるために居るといったところかしら。

(<ひなさん>と、親交を深められると期待していたのに残念……)


 もう一人の男が話し掛けてくる。

「清楚系お嬢様って感じだね」

(感じ? ……お嬢様は、内進組ないしんぐみを象徴する言葉。この男は、外進組がいしんぐみの私は偽物とでも、言いたいのかしら。結月ゆづき陽菜ひなに敵わないことは認めるわ。でも、偽物だなんて酷い。せっかく気分転換に来たのに、今言う必要は無いじゃない。苛々してきた。忘れたい。今は関係ない存在……だから消えて……早く消えて……)


「消えて!」


 無意識に、口からこぼれ出た。

「なんで怒ってるの? 白のワンピースがよく似合っているから、褒めたつもりなんだけど」

(服しか褒めるところは無いということかしら。私をマネキンとして見ているのならば、これほど屈辱的くつじょくてきなことはないわ)

 マネキンとは、衣服を脱着し展示する目的で立たせておく人形。ルーツは幕末から明治時代にかけ、見世物興行のために作られた等身大の生き人形。


 羽菜ハナは表情を作ることを放棄し、眉をひそめる。

「不快」

 〝帰る〟という言葉が、喉まで出かかったけれど耐えた。


 <ひなさん>の話をしていた男がビクッと反応する。眼前に立ち塞がり、四つん這いになる。

「女王様! 罰を受けさせてください。どうか、踏みつけてやってください」

土下座どげざ……かしら。本当に踏むの? 踏まれる体勢になっていることは、見ればわかる。私が知らないだけで、そういう詫び方があるのかもしれないわ……だから聞くのは、野暮。何故女王様と呼ばれたのか、わからないけれど、なりきれば良いのよね)

 女王様になるという非日常に、激しく惹かれる。ならせてもらえるのなら、なってみたいと強く思う。


「サンダルは、脱ぐ方が良いかしら?」

「生足で踏み踏みしてもらえる方が嬉しいです」

 男の顔の前に、右足を差し出す。

「脱がせて」

 サンダルを脱がせてもらった足を、男の背中に乗せる。

(踏み踏みって、押す感じで良いのかしら)

「ぷにぷにして、超気持ちいい」

(ぷにぷに……要求は、ふみふみだったから違うわね)

 どのように踏もうかと考えていると、踏まれている男は、失言男の手を引っ張り、隣に四つん這いにさせる。

「女王様、こいつも踏んでやってください」

「同じように踏めば良いのかしら?」

「はい、お願いします! 撮りたいので上向きになりますね。足をもっと見えるようにしてもらえると嬉しいです」

 失言男は、いつの間にかカメラを構えている。足を見せることと、嬉しいが結びつかないけれど、知らない文化について、考えてもわかるはずが無いから、要求に従う。

「いい感じです。目線ください」


 その後も要求に応じ二人を踏んでいると、買い出しから戻った<ひなさん>が駆け寄ってくる。

「え……どういう状況なん!? 何があったん?」

(どのように説明すべきかしら……)

 羽菜ハナは、人を踏んだ経験が無い。そんなことをしている光景を、見たことも無い。でも、高校に入学し、初めて上にも人が居て、知らないことが沢山あることを、身をもって体験した。

 この状況を、普通ではないと思うことが異常なのかもしれないと、疑心暗鬼ぎしんあんきになっている最中。踏んでいる足を退けることも、答えることも出来ず固まる。


 踏むことを要求してきた男が、四つん這いのまま受け答える。

「女王様の逆鱗げきりんに触れてしまったので、罰を受けています」

 女王様と呼ばれているし、言葉通りの状況ではあるけれど、羽菜ハナが踏みたいと望んだのではない。

(誤解されないためには、補足説明しなければいけないわ)

「踏みつけられたいと望んだから、踏んでいるだけよ。深い意味は無いわ」


「それは大変やな! ようわからんけど、連帯責任なんやな? わかった。うちも踏んだって」


 <ひなさん>も要求してきたから、渋々踏んだ。

(何故みんな踏まれたがるのかしら……踏まれたがることが普通なのかしら……それなら、私ばかり踏まされるのは不公平だわ)

「何故、私ばかり踏まないといけないのかしら。私も踏みなさいよ」

 三人とも動かず静まり返っている――替わってもらえることを期待したけれど、見てくるだけ。

「何か言いなさいよ」

 <ひなさん>の身体からだを足で揺さ振る。たまたま眼下がんかに居たというだけで、名指しする意図は無い。


 ころんと横に転がり、犬が服従するように仰向けになる<ひなさん>。

「うちのこと好きにしたって」

 足先で脇腹あたりを軽くつつく。シルクのように滑らかで柔らかな感触。<ひなさん>がくすぐったがり、くねくねする動作が可愛く見える。


 つつくのは楽しいけれど、はぐらかされた感じ――でも、踏む気が無い相手に望んでも、叶えてくれないから諦めよう。

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