第20話 練習!

 ある日の放課後。相も変わらず世界はうるさい。この世に静寂などというものはなかった。あるのはくだらない会話、笑い声、大きな叫び声。いつの通りの雰囲気、いつも通りの教室だ。一切落ち着きがない。


 その喧騒逃げるように、窓の外へと視線を移す。すると、そこにはオオレンジ色の空が広がっていた。山の裏から空に向かって、橙の絵の具が溶け出すように、世界が染まっていくのが見える。その日の光に照らされながら靡く木の葉と、山に広がる紅葉がが、一日の終わりを演出している。


 黄昏ながら物思いにふけっていると、数人の人間が教室から出ていくのを感じ、反射的に時計に目をやる。長針はすでに六の字を超えようとしていた。まずい。四時半には、俺の所属する、いや正確には所属していた文芸部の顧問である芥川(あくたがわ)先生を訪ねることになっている。先生というのは時間に厳しい生き物である。急がなければ小論文の対策も断れてしまうかもしれない。


 俺は、荷物をまとめて、まだ教室に残っている夏島と松田に別れの挨拶をしながら、教室をあとにする。流石に十月ともなると肌寒い。こんな気温になってから球技大会なんてできるのかと不安に思う。まぁ、俺は卓球だから関係ないのだけれども。


「おーい、山上」


 考え事をしながら廊下へと向かう。すると、ドアのレールを跨いだ出たタイミングで、ある男に引き留められた。声は左からきたらしい。瞬時にそちらへ目をやる。するとそこには黄色い手袋をつけた岩波がいた。


「よお」


 俺の主観での考えだが、芥川先生は他の教員に比べても優しい、というか生徒のことを考えてくれている。ここで岩波と話そうが話すまいと、教室掃除を担当しているという時点で先生との待ち合わせの時間には間に合わなかったわけだ。その旨を伝えれば、ここで岩波と話をしたとしても、今回は大目に見てくれるだろう。そんな考えが脳裏に過る。


「どうしたんだ、岩波。お前、今日は掃除当番じゃねぇだろ」


 うちのクラスでは、番号順で掃除当番が決まる。彼が属する一班は、今週の割り当てはない。ゆえに、もう帰りの電車に乗っていたり、自習室で勉強していたりしてもいいはずだ。どうでもいいことかと思いながらも、疑問を口にする。

すると、奴から意外な答えが返ってきた。


「山上に聞きたいことがあったから、待っていたんだよ」


 はて、この男に聞かれるような話題が最近あっただろうか。二学期に入って以降、特にこれと言って事件や謎といった、俺やこいつが好むような、心躍るような事象は発生していない。いたって平凡な毎日だ。それにこいつとの共通の趣味である刑事ドラマの放送も毎週水曜日。今日は月曜日であるため、そのことでもないだろう。その内容は何だよという疑問を目で訴える。すると、それを察知したのか、岩波の方から口を開く。


「日芸大に出願したってガチなの?」


 日芸大というのは、池袋にある日本芸術大学のことを言っているのだろう。


「ああ、そうだ。AO入試な」


 言いながら思い出す。正確には去年あたりからは総合型選抜という名称に変更されたのではないか、と。しかし、まだその呼称はさほど浸透していない。友人に伝えるくらいなら、「アホでもオーケー入試」という不名誉な異名をつけられたAO入試でいいだろう。


「まじなんか」

「まじまじ。落ちたときのためにあまり言いふらさないようにしていたんだけどなぁ。流石セコビッチ。顔が広い上に情報筋も大きいとは」

「まあな」


 咄嗟に岩波のことへと話題を変える。別に俺の志願先が知られていることに対して、不快に思ったわけではない。ただ、少し気を張ってしまったのだ。自分の志願先が芸術に関係する大学だという事実を、他人の言葉として聞くことで、その事実を再認識してしまったから。


 中学時代のクラスメイトである矢野咲さんと再会したのが九月の下旬。その日から俺が日芸大に志願書を送るのに一週間はかからなかった。結局、どこまで行っても俺は、創作活動に関わっていたいのだ。中学時代の友人グループ、高校二年のときの同好会。それらを通して二度も失敗しているというのに、俺の執着心は未だ顕在ということだ。


 それに、矢野咲さんの言葉の存在が最も大きかった。彼女の言葉がなければ、芸大なんかには目もくれていなかっただろう。


「まさか本当だったとはなぁ。芸大に行くような奴と映画創るチャンスだったのに」

「おい。そういうのは俺が受かってから言ってくれ」


 岩波が「確かに」と軽く返すのを聞いていると、ふと自分のクラスの時計が目に入った。


「やっべ、すまん。入試で使う小論文の添削をお願いしてあるから、もう行くわ」


 すでに約束の時間から十分が過ぎようとしている。早くしないと、俺の小論文が悲惨な結果に終わってしまう。それに。それにこれ以上、岩波から映画の話を聞きたくなかった。夏休み中にタイムリープしたあのとき、大志の夢を否定した俺の判断は、今から考えても間違ってはいないはずだ。大志をあのままにしておけば、立花が危険だったのだから。


 それでも俺は、映画製作同好会が成功するための世界線への道を、再び潰してしまった。そんな考え方をしてしまう。


 できるだけ過去を思い出さないように、職員室を目指すことをだけ考える。二階へと下り、廊下を左へ進む。気付けば、すでに職員室の前へと到着していた。




「――よし、ひとまず今日はこんなもんかな」

「了解です」


 特別棟二階、図書室。俺はそこで、文芸部の顧問である芥川先生から、小論文指導を受けていた。小論文と言っても、正確には小説の執筆だ。受験先が文芸学部ということもあり、小論文という名目の入試で、書かなければならない内容はほとんど物語のようなものだ。そのために、俺は自分の学年の先生方ではなく、二年のクラスを受け持っている芥川先生に小論文指導をお願いしているのだ。


「お忙しい中、毎日のように頼むことになってしまいそうですね。すみません」

「ん? 私のことは気にしなくていいよ。その前に、君は自分の心配をしなぁ。すご

い小説を書けるわけじゃないから、私の意見が絶対ってわけじゃないけど、今のままだと、正直厳しいかもよ。まずは、誤字脱字をしないようにすることだね」

「うっす」


 喝を入れてもらい、図書室をあとにする。廊下へと出ると、図書室の蛍光灯が異様なまでに強かったせいか、日が落ちたあとの校舎内がとても暗く感じる。目を凝らすと、見覚えのある女が近づいてくるのが見える。


「おーい、山上くん」


 近くにある自習室の存在を気にも留めず、彼女は右腕を上げながら甲高い声を上げている。俺は怪訝そうな表情を向け、彼女に話しかける。


「どうしたんすか?」

「いやぁ、さっき矢車くんから聞いたよ! 山上くん日芸大受けるんだってね。美望と一緒の大学を目指すなんて、美望のこと狙っているのか? うしし」


 驚きを隠せず、「え」とだらしない返事をしてしまう。


「あれ? 聞いてない。美望も山上くんと同じ日芸大を受験するって言っていたよ」

「まじですか」


 昔から、彼女も芸術関係のことが好きそうな印象ではあったが、まさか日芸大を目指しているとは。全然知らなかった。というか、彼女たちとは、進路の話などしたことがなかった。


「お話はそれだけですか?」

「違うよ」


 そうだよな。彼女と面倒ごとを抜きにして、会話をしたことは一度もない。今回もまた、何かしら大きな事件を、お土産として持ってきているのだろう。


「いや、実はアカシックレコードに関する話もあるの」


 久しぶりに聞いたその横文字に、つい身体が反応してしまう。


「でも、今月の三〇日。山上くん、試験だよね」

「そうですね。日芸大はどの学部も三〇日にAO入試です」


 日本芸術大学には、写真学部や美術学部、映画学部といった様々な学部が存在するが、どの学部もAO入試は一律一〇月三〇日に実施される。ハロウィンの前日という、いかにも混雑しそうな日を試験日程に設定しているのだ。俺もすでに、大学の近くである池袋にホテルを予約している。


「そうだよね」


 俺の話を聞き、立花は少し残念そうな表情を浮かべる。


「実はね、私と同じようにレコードを管理している子の知り合いがいるの」


 以前、彼女はレコードの管理者は自分だけではないと言っていた。各地に俺たちと同じような存在がいるのだと。


「その子の担当に、三〇日を期限に、レコードに接続してしまった子がいるんだ。だけど、管理者の子が入院しちゃって。その仕事が私に回ってきたんだよね」


 言いながら、彼女は肩を落とす。他の管理者から仕事が回ってきたということは、恐らく接続者はここら一帯に住んでいるわけではないのだろう。それに加えて、今回は普段一緒に解決に動いている俺や紫月さんが、居ない。俺たちがどれほど彼女の役に立っているのかは分からないが、それでも居ないよりはマシなはずである。立花が落胆するのも無理はない。つい、彼女に同情してしまう。


「それに、幸か不幸か、接続者は、その日東京に行くらしくて」


 なるほど。一人で東京に行くことになるとは、さぞかし大変であろう。


「そこで! 君には、受験が終わったらすぐに手伝ってもらうことになるから! よろしく!」


 彼女は、真っ暗な空間で明るくハキハキとそう告げる。


 俺の是非など問わず、非現実は姿を現す。そんな分かり切っていたことを、再度確認しながら「はいはい」と呟き、立花の依頼を引き受けた。

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