第9話 たまには彼女も小説を読む。
「もうそろそろいいんじゃないでしょうか」
放課後の三年三組で、リーダー格の男が声を上げる。
「とりあえず装飾はこんなもんにして、残りは明日の開会式前に終わらせちゃいましょうか」
その言葉を聞き、クラスメイトの方々は一斉に身支度を始める。
俺もこの波に乗って帰ってしまおうと、自分のカバンを探す。こうして俯瞰してみると、カジノもそれなりのクオリティに仕上がっている。蛍光灯には赤色のセロハンが張られ、机もカジノらしい半円状となっている。さらに、教室を四つに分割する形で木材や段ボールからなる壁も設置されている。素材こそ悪いものの、最低限の文化祭らしさは保てている。
一年の頃のクラスでつくった迷路に比べると多少見劣りしてしまうが、一日で仕上げたということや、俺たちが曲がりなりにも受験生であるということを考慮すれば、そこまで悪いものではないだろう。
ちなみに、俺もある程度は貢献している。シャツの配布で午前はまるまる潰れてしまったが、立花の協力もあって二時前にはその仕事も片が付いた。それからはクラスに戻り、なんだかんだ作業を手伝っている。ゆえに批判するとまではいかずとも、内心で評価する程度の権利はある。
「じゃあな、山上」
「おう」
先ほどまで作業をともにしていた夏島と松田も、このビッグウェーブに乗り帰宅するらしい。俺も下手に残って、やる気のある熱心な人間であるなどと勘違いされぬよう、足早に出入口へと向かい、教室をあとにする。
出ると、そこには真っ暗な廊下が広がっていた。この時期になると、日が落ち始めても、寒気はほとんどない。少し歩いただけでも身体は熱ってくる。
「暑い」
ふと窓から外を覗く。日はすっかり落ち、空に広がる茜色の面積もだいぶ狭くなってきている。どうやら、もういい時間らしい。次の電車は何時頃だったかと考えながら、スマートフォンを起動する。すると、画面にSNSの通知が表示される。文芸部の部長である中野(なかの)さんからだ。「ごめん山上。まだ学校にいるようであれば、部室にある部誌に、ビブリオバトルの告知の紙を挟んどいてもらえないかな」とある。
今回の文化祭では、文芸部としても部誌の配布を行うという企画がある。毎年文化祭でも体育祭でも部誌をつくるというのが、うちの部の伝統だ。にも関わらず、俺は生徒会を言い訳にし、ほとんどそれに貢献できていない。作品を書きはしたものの、製本や編集は他の部員に任せてしまっている。俺も意外に情がある人間だ。そのことに関して罪悪感を覚えないでもない。俺は部長に「了解」とだけ返信し、外にある部室棟へと向かった。
外はスゴイ月夜であった。
文豪の小説の一節を思い浮かべながら、部室棟を目指す。我が校のそれは体育館に隣接する武道場の一階に位置しており、玄関からの接続が悪い。体育館のように校内にある通路を通っていける仕様であれば楽なのだが、部室棟はそうはいかない。硬式野球部でいう室内運動場のような固有の部室を持たない運動部なんかが、着替えをしたり、道具を収納したりするのが主な使用例であるため、校内からというよりも、校庭からのアクセスを重視しているのだ。
というか、何故文芸部の部室を校内に設置してくださらないのだろうか。美術部や吹奏楽部、さらにはコンピュータ研究部といった存在価値の不明な組織にさえ、校内に部室が与えられているのだ。文芸部にだって空き教室の一つや二つ明け渡してくれてもよいのではないだろうか。部室棟と言っても、ほとんど外に置かれた箱にすぎない。感覚としては町でたまに見かける収納コンテナ、ないしは物置みたいである。夏は暑いし冬は寒い。つい長々と愚痴をこぼす。
教員個人ではなく、学校という組織自体に難癖を付ける行為は、そう気分を害することなく時間を浪費できる。そんなこんなで、俺は部室棟へとやってきた。
ここもトイレと同様、一年ほど前に新設された場所である。その癖、通路にはライト一つ付いていない。真っ暗な部室棟の中で、文芸部の部屋を探す。
13号室。ここが現在我々の根城となっている場所だ。それなりに愛着もあるし、意外に落ち着く。しかし、一つ気になることがある。どうやら室内に人がいるらしい。扉のすりガラスからは光が漏れており、人の話し声も聞こえてくる。話している、ということ恐らく二人以上の人間がいるのだろう。SNSの内容から考えて、部長やその他部員も学校にはいないのではと思っていたが、それは間違いだったのだろうか。部室の前でそんなことを考えていても暑いだけなので、とりあえず、扉を開ける。
「あれ、山上くんじゃん!」
開口一番。立花の声が耳に飛び込んでくる。狭い室内には紫月さんの姿もある。
「どうしたんですか、お二人でこんなところに」
訊くと、紫月さんが口を開く。
「なかちゃんから、部誌にチラシを挟むようにお願いされたのでその作業です。美術部の方が忙しくて、製本には参加できなかったので」
なかちゃんというのは、中野さんのあだ名だ。つまりは、彼女も俺と同じ状況にあるということだ。俺も彼女も今までの作業には加担できていない人間。頼む相手としてはちょうどいいだろうし、仮に俺が既読スルーして帰ったとしても、真面目な紫月さんなら残ってくれると踏んだのだろう。何とも合理的な行動だ。
「和也くんは?」
そんなことを考えていると、紫月さんも同様の問いを投げかけてくる。俺は、ここに来た経緯を簡略化して伝える。何度経験しても異性と話すときの緊張感は消えない。しかし、それ以上に俺に緊張を生む現象がある。それは、彼女が俺のことを名前で呼んでくれているということだ。クラスメイトはもちろん、文芸部や生徒会の人間も、俺のことを名字で呼ぶため、下の名前で、しかも異性から呼ばれるというのは、かなり久しぶりに感じる。そんな俺の心中を無視し、今度は立花が口を開く。
「じゃあ、山上くんも手伝ってくれるってことかな」
「えぇ、まぁ仕事ですし」
「おお! 山上くんが嫌味を言わずに仕事を受け入れるなんて」
余計なお世話だ。それに俺からすれば、部員でもない立花がここにいることの方が驚きである。やはり、立花と紫月さんはそれなりに仲がいいのだろうと再認識させられる。
「んじゃまあ、さっさと終わらせますか」
言いながら、パイプ椅子へと座り、中央に鎮座しこの部屋の床面積の八割を占める古臭い机へと向かう。改築がなされたのは建物本体のみで、中に置く家具なんかは改築前の部室棟からの引継いだものだ。旧部室棟ですらそのぼろさを主張していた机が、新しい部屋に置かれていることで、さらにぼろさを増しているように見える。
隙あらば自分語りの要領で、隙あらば部室批判を行いながら、ビブリオバトルの告知用紙を半分に折り曲げ、部誌を開き挟む、という単純作業を繰り返す。淡々と時間だけが流れる。俺が来てから五分ほど経過したタイミングで、立花が沈黙に耐えかねたのか、話を始める。
「そうだ、山上くんは美望の小説読んだの?」
今この質問をするということは、俺が作業している部誌に、紫月さんが掲載した小説『やがて私は君に恋をする。』を読んだのか、という問いであろう。
「えぇ、まぁ」
俺は読書があまり好きではない。活字を読むことに慣れていないため、すぐ文字を読むだけの作業のように感じてしまうからだ。ただ、それでも部誌に載っている他の部員の小説は読むようにしている。皆俺と同い年か、一つ二つ下であるくらいだ。感性も文章も似ているような気がして、読んでいて面白い発見がある。それにどの作品もしっかりと面白い。その中でも、紫月さんの作品はずば抜けて面白い。
その理由は、恐らく彼女の各作品のジャンルが、俺の求めるものに近いからであろう。青春ラブコメ。現実の俺と全くと言っていいほど無縁なものではある。だからだろうか。登場人物間に生まれる親密な関係。それが親密であればあるほど、それが欲しいという欲求を刺激するのだ。それが楽しい。自分には手に入らないものを俯瞰することのできる環境が、面白い。ただ、自分にとって都合のいい内容だけがあるわけではないというのも事実。それが現実では手に入らないという事実を、再認識せざるを得ないからだ。しかし、彼女の小説はそのことを示しつつも、それでも親密な関係を手にするために抗い続ける様子が描かれている。その配慮がいろんな人が読みやすいものになっているのであろう。
紫月さんの作品を分析していると、立花が話を紡いだ。
「感想は?」
俺は感想を正直に述べる。
「お世辞抜きでめちゃめちゃ良いっすね。特に俺みたいなやつでも感情移入しやすい文章とか設定が良いっす」
すると、立花もそれに食いつきながら感想を述べる。
「だよね! 主人公とヒロインの微妙な距離感とリアリティが、まるで現実みたいに思わせてくれる! 憧れちゃうよねぇ、青春」
そんな俺たちの言葉を聞いて、紫月さんはぽつりと話す。
「……ありがとう」
彼女は顔を赤らめていることを誤魔化すように、作業を続ける。
「じゃあ、私もう電車出ちゃうから先に行くね! またね!」
八時を迎える少し前。作業を終えた俺たちは校門まで歩き、立花へ別れを告げる。俺と紫月さんは、中学が同じであるということもあり、帰る電車の方向が一緒である。ただ、立花はそれが反対、というかこいつ以外に登下校に使っている人間と会ったことがない、トロッコ列車で帰るらしい。俺らが乗ることを諦めた電車の発車時刻と、立花が乗る予定である電車の発車時刻との差は三分。たかが三分、されど三分だ。ここから駅までの距離では、一分でもだいぶ違ってくる。立花は、俺たちを置いて駅へと駆けていく。
残された俺と紫月さんは、とぎれとぎれになりながらも話をしつつ、夜の街をゆっくりと歩く。学校間近の赤差信号で歩みを止めると、彼女は唐突に口を開いた。
「和也くん」
彼女の透き通った声が、夜の街に小さく放たれる。二、三歩ほど前にいる彼女の表情は俺には見えない。月明かりに照らされる黒髪が、風に靡かれる様子だけが、目に映る。
「和也くんは、手に入ると思う。……小説に出てくるような、素敵な関係。青春ラブコメ」
彼女がそんなことを言うのか、そんなことを尋ねるのかという驚きを感じる。
紫月さんの問い。それに対し、俺は言葉を選びながらも、自分の思っていることを正直に話す。
「まあ、小説はあくまで小説じゃないですかね」
「そう、だよね」
月に雲でもかかったのか、辺りは影に覆われていた。
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