第三話 わたし、おめでとう(2)
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風歌は、すっかり疲弊してしまった。
ディベートの授業で教師が説いた喜びなど、まるで感じる余地がなかった。
実りがなく、徒労感ばかり蓄積した。
それでもつい頑張ってしまった理由は、当初は、やはりAGITOの存在だったろう。
最初の夜にもらった「笑」の一字。一人の純粋なファンとして、なかなかに胸が熱くなる。あれ以来、本人のアカウントに動きはないが、この喜びは忘れがたい。できれば、もう一度味わいたい。だから敵対者たちが執拗にAGITOのアカウントを巻き込み続けていることに関して、風歌も打算を優先し、ついそのまま付き合ってしまった。AGITO様が見ているのだと――。
次に、単なる意地と悔しさだ。これが一番大きな動機付けだった。
罵倒されるほど、冷笑を浴びせられるほど、仕返しをしたくなるのだ。心の中で何度「クズ」や「クソ」と彼らを罵り返したことか。心に納めきれず、一部を電子の海に放流してしまったこともある。その際の先方による怒濤の反応ときたら、まさに偽善の大津波だった。その災難が、少女の心のうちに、さらなる暗いしみを広がらせた。今度は用心して書き込みこそしなかったが、「死ね」「殺す」という、いっそう強い語が風歌ののどになじんでしまった。体の中心にぽっと発生した暗い影が、手足の隅々にまで浸透していく陰鬱な感触があった。
――デトックスが大事。
確か、「あま姉」と
秋葉原デモの日、
そして最後に、一片の正義感もあった。やはり他民族や他国の人々を貶める発言など、読んでいて決して気分の良いものではない。無視すればよいとアドバイスしてくれる親切で心優しい人もまれにいたが、それでも少しは注意せずにいられないのだ。贅沢を言えば、そうした心配や気遣いよりも、ともに悪に立ち向かってくれる勇姿をこそ風歌は欲した。
図らずも、その願いがかなったらしい。
四日目の昼、突如として強力な助っ人が現れたのだ。
「捨て垢A」と、そのアカウントはわざわざ律儀に名乗っていた。ネットスラングで「使い捨てのアカウント」を意味する語にふさわしく、プロフィール欄に一切の記述はない。アイコンも初期設定ののっぺらぼうだ。
捨て垢Aは、風歌がここ数日で対峙したほぼすべてのアカウントに、一言二言きっちり言い返していた。どうやら風歌を巻き込まないように配慮していたらしく、それで風歌は気づくのが遅れたのだった。実のところ、登場はもう少し以前だったらしい。
捨て垢Aは、聡明で、高潔で、尊大で、そして毒舌だった。
「生活保護は、ごくわずかな不正利用よりも、大勢の利用漏れのほうがはるかに深刻なんだ。詳しくは厚生労働省の統計を見ろ。簡単なところでは、日本弁護士連合会の生活保護Q&Aパンフでもいい。自分で検索しろ。もしもリンク切れなら他を当たれ。」
「通名制度は差別被害を避けるためのものだ。無くしたければ、まずお前がその差別心を捨てろ。それが第一歩だ。」
「日本国籍を取得するもしないも本人の自由だ。他人のお前が決めようとすんな。何様なんだよ、お前はよ。」
「国政参政権は祖国のものを、地方参政権は住んでいる地域のものを。そう要求することの何が悪い? 二重国籍ともども認めている国は少なくない。お前が無知なだけだ。バカ野郎。」
「在日特権? あるかボケ。この本を読め。『「在日特権」の虚構』だ。在日特権などというものはすべて虚構、嘘だと丁寧に解説してある。」
「例外は、在日米軍が持つ特権だけだ。日米地位協定にもとづく不逮捕特権などがそれだ。在日コリアンにも他の在日外国人にも、そんなのがあるはずないだろ。むしろ行政の差別性によって逆に不利益を被りやすいくらいだ。」
「トランス女性も女性に決まってんだろ。それで社会に不都合が生じるなら、工夫すべきは社会のほうだ。よりよい公衆トイレの仕組みを考えろ。なにせ、本人の性自認は変えようがないんだからな。」
「どうしても女性専用車両が許せないのなら痴漢どもに怒れ。性被害から逃れたい一心の女性専用車両利用者に怒るのはお門違いだ。それとも、お前が痴漢か?」
「リンクを貼り、出典も明記してやったが、私はお前の教師ではない。善意でここまでしてやったのにお前が理解できないのは、ただひたすらお前の怠慢が原因だ。自己責任だ。学習を怠るな。サボりめ。」
「いわゆる黄色人種も黒人も白人も、生物学的には同じ一つの人種だ。これをホモ=サピエンスという。要するに、現生人類に異人種は存在しない。ほかはすべて有史以前に滅んでしまった。が、強いていえば、レイシストであるお前のモラルはサル以下だ」
「それについてはお前らウヨがでっち上げた作り話だが、人糞を材料としたものなら、我が国の江戸時代の医学書にこそ確かな記述がある。例えば、人中黄という漢方薬。つまり、お前の醜くトチ狂った論を用いれば、お前や私こそが糞食い民族ということになる。理解したか、クソ野郎。」
と、このような具合だった。
ざっと確認するだけのつもりが、風歌はつい読みふけってしまった。知識不足のせいで理解できない記述も多々あったが、それでも痛快さを覚えたことは確かだった。
「……」
夢中になっていた自分に気づいた風歌は、慌ててスマホから視線を逸らした。
「こんなの、話し合いじゃないよ……」
自分がつぶやいた言葉を自分の耳で回収する。すると、何だか腹立たしくもなってきた。捨て垢Aは今回の炎上を消火するどころか、暴れ回ることで余計に火を広げているようにも思われたからだ。実際、捨て垢Aのコメントに対して先方は愚にもつかない罵倒や論点逸らしで応酬し、それらに対して捨て垢Aはもはや無視を決め込んでいるふうだった。よって、あとに残るのは、読むのも嫌になる言葉の羅列ばかりとなる。
自分がここ数日、心身をすり減らしながら取り組んできたものは何だったのか。少しでも建設的な議論をと願って続けてきた努力、そのために受けた苦痛の一切を、まるで無意味だと言わんばかりに、捨て垢Aによって一蹴された気がした。
さすがに自分でも理不尽な怒りとはうすうす自覚していたが、あるいくつかの書き込みが、風歌のほの暗い情動を突き動かした。
「自作自演~」
「ぼっちだかって、捨て垢作って人数水増しすんなよ」
「下手な工作しやがって。これだから左翼は嫌われる。」
左翼になった覚えはないし、左翼も右翼もどのようなものかよく分かってすらいないが、自分が罵られていることは十分に伝わる。
それもこれも捨て垢Aのせいだ。
風歌は意を決して抗議することにした。なりすましとの誤解が解けるよう、衆人の目に触れるところで。
「あの、すみません 手助けしてくれるのは嬉しいんですけど、もうちょっと穏やかになれません?これじゃ返って迷惑です」
反応は、敵対者たちからだった。
「わざとらしい」
「バレバレ」
「別人のふりすんな」
風歌はそれらの声は無視し、再度、捨て垢Aへ、先刻と同様に話しかけた。
「おいおい、俺らには無視かよ」
「卑怯者。」
「もしもーし」
敵対者たちがいよいよ勝ち誇り、風歌を罵倒する。捨て垢Aからの返信は今回もなかった。
「なんでよ。返事くらいしてよ……」
風歌は目に涙をにじませた。
しばらくして、ダイレクトメッセージのアイコンに、新たなメッセージが届いたとの表示が浮かび上がった。
風歌は震える指先と相談しつつ、おそるおそるクリックした。
「……ハァ」
メッセージの送り主が敵対者でなかったことに胸をなで下ろす。
同時に、わが目を疑った。
「遠埜霧」
それが、送り主のアカウント名だった。
メッセージは次のとおりだった。複数に分けた長文だった。
「被害者のほうに話しかけるのは主義ではないが、仕方がない。このアカウントで君に話しかけるには、公開下では支障をきたすので、こちらから失礼する。」
「まず、これがボク本来のアカウントだ。名前からも分かるとおり、君のよく知る人物だ。そして、捨て垢Aもボクだ。そちらは急遽、用意した。というのも、遠埜霧名義のまま君の助太刀をすると、ボクの関係者ということで、君の素性が容易に発覚してしまうからだ。ボクは覚悟ができているので本名で構わないが、こじゃれた私立校にかわいい制服を来て毎日楽しく通っているらしい二年生の沢本先輩としては、そうもいくまい?」
「君を助けたことについては、やむをえなかった。あのまま見過ごせば、ういんどそんぐが君だと判明してしまうのは、時間の問題だったからだ。」
「小出しとはいえ、問われるまま自分のプライベートを次々に明かしていただろ。使っている教科書を晒したり……。君はあれで用心していたつもりかもしれないが、まったくもって不用意だ。」
「気づいていたか? 君がこれまでにアップした画像のいくつかに、自室の窓の外の景色が映り込んでいたことを。」
「もしもパスポートを持っていたら、どうせ晒していたんだろう? 名前と顔写真さえ隠せば大丈夫などと思って。しかしだ。例えばパスポートの色だけで伝わる個人情報だって中にはあるんだ。」
さんざんな言われようだった。しかも文面だからか、霧の普段の口調よりも少し硬い気がする。何にせよ胸が非常にむかむかしたが、敵対者たちに味わわされたそれと異なって湿度は低く、どこか風呂上がりのような涼しさがあった。
ひとまず、風歌は最初に抱いた疑問をぶつけてみた。
なぜ霧は、「ういんどそんぐ」の正体がこの自分、沢本風歌であることに気づけたのか。
「なぜも何も、この前の秋葉原ヘイトデモでボクが君に教えたそのままのことを、ういんどそんぐは知っていた。それに、あの現場に居合わせた女子高校生は、ボクと君たちのほかに誰がいる? 加えて、その安直なハンドルネームだ。他人になりすましたければ、もっと本名からかけ離れた名にしないといけない。」
「なりすましって……。スパイじゃないんだし」
その点は口を突いて出たが、ほかはぐうの音も出ない。愚かな質問だったと、風歌は少し後悔した。
ところが、風歌は重ねて愚問を突き付けてしまった。
どの相手に対しても、なぜ一度か二度反論したきりで、あとの反応は放置してしまうのかと。霧が議論を投げ出したことで、「論破してやった」と一方的に勝利宣言する輩が多い。間違った意見があたかも勝ったような状態で終えるのは良くないだろうと。
「それは仕方がない。数が多すぎて、とてもすべては相手していられないんだ。」
その回答を読んで、風歌は瞬時に赤面してしまった。
相手しきれないのは自分もそうではないか。自分がそうなのに、なぜ霧もそうだと思い至れなかったのか。
まさか、これほど単純なことを見落としてしまうとは。
軽い自己嫌悪に陥る風歌のもとへ、霧から回答の続きが届いた。
「ただし、正解は最初に示してある。理知的な第三者に正しい情報が届けばそれでいいんだ。」
「議論する気はないってこと・・・?」
「ないね。そもそも、議論とは双方に正解の可能性がある場合にのみ行ってよい。初めから誤っていることが明白な者を相手にうかつに議論してしまうと、その誤りを誤りでなくし、正解かもしれないレベルにまで引き上げてしまうことになる。安易な両論併記と同様に、それは真実に対する裏切り行為だ。」
「よ、よく解りません・・・」
「意見として対等に扱ってはいけない例もあるということだよ。なすべきは相対的な意見の表明ではなく、絶対的な正解を正解として突き付けてやること。特に、歴史修正主義者を相手取る際は。」
「歴史修正主義者?」
「歴史的事実を歪め、嘘を振りまく者のことだ。」
「嘘?だって修正・・・え?え?」
「皮肉さ。実際は歴史の改竄。」
「はあ・・・」
「ヘイトスピーチにいたっては、さらに厳しく当たっていい。叱るための引用ですら配慮が必要で、人目に付かせず済ませられるなら、それが一番だ。なぜなら悪のほうが強いから。」
「え?強いのは正義でしょ・・・」
風歌の脳内で、擬人化されたあんパンが、同じく擬人化された悪いばい菌を、中身の詰まった重いパンチで吹き飛ばす。
「残念ながら、注ぐ労力が同じなら悪のほうが強いんだよ。例えば、包丁で人を刺すのと、刺された傷を手当てして治すのとでは、後者のほうが各段に手間暇がかかる。それどころか、治せないことだってある。」
「人を刺すなんてムリ!」
「それが普通だが、そういう精神的な話ではない。」
「うーん・・・」
霧の言うことは、やはり難しい。風歌は話題を転じ、もっとも率直な疑問をぶつけてみた。
どうして、そんなに物知りなのかと。
「普段からネットでよく調べたり、新聞や本をよく読むからだ。」
簡潔な回答だった。言われてみれば当然のことだろう。やはり、これまた愚問だったように思える。
しかし今回は霧の言葉に棘はなく、特に本を読むことが大事だと実直な言葉を重ねてきた。
「ネットはあまりに玉石混淆だから。信頼に足るサイトも少なくはないが、そのようなサイトには大抵、出典が明記されている。だから結局は本だ。速報性を重視しないならね。本にも嘘は多いし、出版社にもよりけりだが、校閲を経る分、ネットと比べればおおむね一定以上は信頼できる。」
「9月東京の路上にみたいな?」
「ほう、よく知っているな。」
「えへへ」
「正しくは『九月、東京の路上で』だがな。タイトルは句読点に至るまで正確に。サブタイトルは省いてもよいが、書き間違うのは著者と出版社への敬意が足りない証だ。」
「死ね」
同夜。
「ごめんごめん 謝るから既読スルーやめて 怖いよ それ読みたいけど高いんだよね」
「普通だと思うが……。いや、ノンフィクションだからか。小説やコミックといったフィクションと比べて、どうしても割高になってしまうものな。」
「そうそう ハクションだよー」
「風邪か?」
「元気ー!」
「元気があってお金がないなら、図書館を利用すればいい。」
「昨日から年末年始の休みー!」
「数日くらい我慢しろ。」
「今すぐ読みたい」
「素直に受け止めれば殊勝な言葉だが……。けどあの本は、たとえ普段は善良な市民でも、条件が揃えば容易に狂気に染まる現実を否応なしに突き付けられる辛い一冊だぞ。」
「そうなんだ?難しそ?」
「決して難解ではない。むしろ平易だ。……ま、そこまで読みたいなら貸してやってもいいが」
「持ってるの?貸して貸して」
「ボクに借りは作らない主義では?」
「いじわる笑 あとでちゃんと返したら借りじゃなくなるし」
「正しい理屈だ。ああ、分かった。それでは速達で送るので住所を教えてくれ。」
「え、いいよいいよ 私が借りるんだし、私のほうから取りいくよ」
「では明日、生徒会の用事で登校するので、その時に渡すのはどうだろう?」
「り あしたね うん、わかった おやすみー」
「ああ、おやすみ。」
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