第十二話 我慢しない!(1)
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その記事が某右派系新聞紙の地方版に小さく載ったのは、修高をはじめ世の学校の多くが夏季休暇に入って程なくのことだった。
道路交通法違反の容疑で、一人の古書店経営者が逮捕されたのだ。名は
さすがに重罪とまではいえないが、一市民として看過もできない罪だった。決して許すわけにいかない。
容疑者が
例によって
「反日女活動家の親、逮捕――だって。霧とそのご実家を知る誰かが言いふらしたんでしょうね。日本から交通事故が一向に減らないのは、こんな人たちのせい、さすが日本を悪くすることに余念がないって。ネトウヨたちの間で大盛り上がり」
「……」
風歌の目に、先日の店主の姿が思い浮かぶ。逮捕だの容疑者だのといった語とは、まるで相容れない温厚で優しい顔だ。果たして、気勢をあげる者たちのどのくらいが、その素顔を知っているのか。
「実際は、昭和のピーク時から、交通事故って着々と減り続けてるんだけどね」
「そんなことより……!」
「……そうね。霧が心配よね。相変わらず電話にも出ないし」
「わたし、もっかい遠埜の家に……」
「それはダメ」
意外にも、天祢が即座に反対した。
「公安が動いてる」
それは、すこぶる芝居がかったセリフのように風歌には感じられた。社会派サスペンスドラマか何かの登場人物と、テレビの画面越しに話しているような錯覚に陥った。その手のジャンルに、風歌はまったく興味がなかったにもかかわらず。
「こ、公安って……」
「この前のゲリラ街宣、霧、名前連呼されてたでしょ」
「……はい」
「その時は霧もずっと我慢して、ヘイターにも公安にも手を出す口実までは与えないまま、どうにか無事に終わったけれど……」
「無事……」
「表面上は、ね」
「……」
「でも、それもその時だけだった――ってこと。霧のお父さんが今このタイミングで逮捕だなんて、それも普段なら見逃されそうな微罪で逮捕だなんて、カウンターへの牽制以外の何ものでもない。さっき、霧とそのご実家を知る誰かが言いふらしたって言ったけど、案外、公安自身が直接ネットに情報を流したのかも。そもそも、こんな些細すぎる事件がわざわざ新聞に、それも実名付きで載ったこと自体……」
「なんで……なんで……」
「たぶん――」
天祢が言いかけてしばらく沈思し、それからまた口を開いた。
「このところ、カウンターのほうに勢いがあったでしょ。川崎のヘイト集会を阻止したり、国会でも、罰則付き反差別禁止法が成立する寸前までいったし。でも、それもお流れになっちゃって」
「前に
「向こうにしてみれば、当面のあいだ危機は遠ざかったってことで。そこで、今が反撃のチャンス――と考えたのかも。証拠があるわけじゃないから、憶測の域は出ないけどね。でも、少し前から警察の揺り戻しがいろいろ目に付いてたのは確かだし、カウンターに対してずっと面白くない感情は抱いてたでしょうね。沖縄なんかは、もうずいぶん前からこうだったわけだし」
「基地問題ですか。わたし、他人事と思ってました。だって遠いし」
「旅行先としては身近だけどね」
「あ、すいません」
「ううん、あたしも観光地としての沖縄と比べて、そっちのほうの沖縄は、どこか遠くに感じてたと思う。この鈍感さがマジョリティなのよね」
「特権?」
「気づかなくても済んでいられる権利」
「そっか、差別する側……」
先ほど天祢が口にした川崎ヘイト集会、まさにその折だったか――真子やあゆむと交わした言葉を風歌は思い出していた。
――わたしは沖縄の人たちを差別した覚えなんてないんだけどね。
まただ。
またしても自分は……。
悔悟が、スマホを握る手に力を込めさせる。
「風歌ちゃん」
天祢が低めの声で呼んだ。
「もうはっきり言うけど、霧がマークされてる以上、霧のおうちに近づくのは危険。風歌ちゃんまでマークされかねない」
「わたしが? まさか」
「霧も風歌ちゃんも、同じ高校生なのよ」
「……」
「あたしも霧が心配だけど、まずは自分の身を守ること。しばらくの間、おとなしくしてたほうがいい。風歌ちゃんの身にまで何かあったら……。だから、お願い」
「……はい」
風歌は承諾した。
本音としては苦渋の選択だった。霧を放っておきたくはなかったが、同じくらい、天祢に余計な心配をかけさせたくもなかったのだ。
ただ何であれ、実際のところ天祢の分析は正しかったようだ。特に八月に入ってから、そのことは日を追うごとに明らかとなっていった。あくまで憶測と天祢は慎重な態度をとっていたが、それも、事実が積み重なる前段階に限って必要とされる分別だ。
まず、東京在住である風歌や天祢たちが守備範囲としない遠方の現場で、重装備の機動隊員が何十人と出現した。
広島のヘイト街宣だった。平和記念公園で、数人のヘイターたちが何やら息巻いていた。それに対して十人あまりのカウンターが「そんな特権などない」「デマはやめろ」「被爆者を愚弄するな」と口やプラカで訴えたのだが、訴えが向かうまさに進路上に、その機動隊員たちが立ちはだかったのだ。
動画の中の彼らは、風歌の目にもなじみの、黒のベストと紺の出動服に加え、新たにバイザー付きヘルメットと視認性の高い透明の盾とを装備していた。背中にもあったように、盾にも白い字で「POLICE」とある。ただ、画面からは盾のそれしか確認できない。映像はカウンター側からのもので、全隊員がそのカウンターたちのほうを向いていたためだ。
動画を撮影し、SNS上にアップロードした人物が、同時に激しい怒りを表明していた。
「なんだ、この装備は。まるで我々カウンターが暴徒といわんばかりじゃないか。悪いのは、ありもしない被爆者特権を叫んで被爆者の方たちを二重三重に傷つけるヘイターどものほうだろうが!」
同光景は、三日後、長崎の平和祈念像の前でも繰り広げられた。
「個人的に賛同はしないが、核武装を呼びかける自由があること自体は認める。が、この場所でそれを唱えるな。ここは祈りの場だ。核廃絶を願う場だ。こいつらを重装備でがっちり守る機動隊も同罪だぞ。警察は、いや、国は何を考えているんだ。」
その問いの答えだろう。
二つの街宣と前後して、カウンターとその身内の逮捕者が全国で何件か相次いだ。側溝に痰を吐いたという軽犯罪法違反、ビラを新聞受けに投函したがための住居侵入罪、ほかにも俗に「車庫飛ばし」と呼ばれる違法行為で捕まった者や、職務質問中、警官に体をぶつけたとのことで公務執行妨害となった者もいた。
極めつけは、凶器で腹を突き刺されながらも、加害者の腕に爪を立ててしまったために傷害罪をとられた事件だ。
終戦の日、靖国神社で旧日本軍兵士のコスプレを楽しんだ男が、帰りに立ち寄った喫茶店で顔に見覚えのあるカウンターと偶然にも鉢合わせし、二三、緊張感のはらんだ挨拶を交わしつつ、収納袋に納めていた軍刀をおもむろに取り出す。その切っ先を相手にしばらく向けたのち、いきなり「朝鮮人」と叫んでその腹部を突き刺したのだ。もちろん模造刀のため、本人は脅し程度に考えての行動だったのかもしれない。が、刀身の重量と、それなりに鋭利な先端から、切りつけるならともかく、突く分には十分な殺傷力があった。
被害者の男性は、そのあと搬送先の病院で内臓出血をしていることが明らかとなるのだが、突かれた瞬間は興奮状態にあり、素手で激しく抵抗。そのために両者とも傷害罪で逮捕されたのだった。男性の正当防衛は認められなかった。
なお、男性は生まれも育ちも家系も生粋の日本人とのことで、実際、姓も名も、おまけに体つきや顔だち、事件時の服装に至るまで、日本ではごく平凡な中年のそれだった。とはいえ、軍服の男が相手を朝鮮人と見なして刺した以上は、男性の出自が何だろうと関係ない。事件は紛れもなく朝鮮人を標的としたものであり、それは日本社会において発生した。つまりは在日コリアンというマイノリティへのヘイトクライムに違いなかったのだ。にもかかわらず、事件はごく一般的な喧嘩の範疇で処理された。差別の要素など初めから何一つなかったかのように。
公権力によって差別が黙認された瞬間だった。
国は、今や明らかに差別の側に立っていた。ヘイトスピーカーたちを守る側に。既存の法律や行政の中に差別的要素が潜むという指摘の話ではない。国家当局が具体的な個々の行動でもって、ほの暗い本心をカウンターたちに突き付けたのだ。
また、国だけではなかった。どうやら地方も同様らしい。先の傷害事件は警視庁の管轄ということもあって都知事が定例会見で軽く触れたのだが、ひどいことに、およそ次のようなものだった。「ヘイトクライムではないか」との一記者の質問に対する回答だ。
「民主主義社会におきましては話し合いこそが至上であり、どのような主義主張も尊重されなければなりません。しかしながら、当事件は一方が暴力を振るい、もう一方も暴力で応えたとのことです。甚だ遺憾と申し上げざるをえません」
分かる者には分かる。
これもまた差別の黙認だ。
なお、当回答を含むこの事件については夜九時からの某ニュース番組も報じたが、おおむね警察発表をなぞるばかりで、キャスターの締めくくりのコメントさえも、「いろいろと考えさせられる事件ですね。われわれ一人ひとりが答えを求めていかなくてはなりません」という、何の主張もなく、単に体裁を整えるだけの空虚なものだった。結局は何も考えていないのだ。おそらく今後も考えることはないだろう。
同じ終戦の日には、別のヘイト案件もあった。
数人のレイシストたちが、横浜中華街に程近い一角で街宣をしたのだ。戦争放棄をうたった憲法九条を改正するとの名目のもと、連中は中国脅威論を小一時間にわたって繰り広げた。が、これが国会や大使館の前ならともかく、わざわざチャイナタウンの目と鼻の先で行ったのは、その行為自体がすでに在日中国人に対するヘイトスピーチといえる。それでなくとも街宣は中盤から「中国政府」に加えて「中国人」をも標的としはじめ、結局はあからさまなヘイトスピーチと化してしまったのだった。
そのような彼らを、またしても重装備の機動隊員を含む総勢百人近い警官たちが警護した。そこにカウンターの姿はもはや乏しく、ヘイターのわずかに倍ほどしかない。その数少ない正義の人々もただちに警官隊に強制排除され、最後まで抵抗した一人はやはり逮捕、勾留された。
一連の異常事態と危機感は、ネットを介してカウンターたちに広く共有された。
「しばらくはヘイトの現場から離れるしかない。」
「来月頭に新宿でヘイトデモがあるみたいですけど?」
「またか」
「ふざけやがってな。ただ絶対にカウンターに行くなとまでは言わないが、いつものように広く参加を呼びかけるってのは、よしたほうがいい。」
「逮捕されにいくようなものだからね。とても人は誘えない。」
「誘えない誘えない」
「しょうがない……。いっちょ火炎瓶でも投げて抵抗したいところだけど……こっちは非暴力だ。」
「海外のカウンターは投げるけどね」
「警察も平気でバンバン発砲するだろ 日本はどっちもおとなしい」
「何にせよ、警察も暴力装置ってことよね。今更ながらに実感したよ。くそったれめ・・・」
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