第五章 戴冠式④

 三皇が神宮内を先導する。ここには普段神宮を管理する宮司ぐうじや巫女らがいるはずだが今は誰もいない。五帝の儀式時は皆出払っているのだ。今、この神宮にいるのは鐵たちと三皇だけ。冥界に引きずり込む精霊の類にも見える彼らの姿に、鐵は息を呑む。


 表参道を渡り手水舎で身を清めると門を潜り抜けた先に豪勢な拝殿が構えられていた。そう大きくないはずの拝殿だが、圧巻の造りに眩暈めまいがしそうになる。だが、鐵たちが向かうのは拝殿ではなくその裏に佇む本殿。拝殿よりも一回り小さく質素な建物だが、こここそが創造神御橋皇尊の顕現する神門のある場所だ。

 二十メートル四方程の狭い空間は小さなろうそくしか灯されていないのに何故か目も眩むほど明るい。入って正面には内座ないざこしらえてあり、壇上は薄い天幕に覆われていた。その奥にうっすらと厚い御簾みすに閉ざされている扉が見える。あの入り口が神が出入りする神門だ。


 神は天界、すなわち鐵たちのいる遥か上空にいるというイメージが強いがそれはあくまでもイメージでしかないらしい。実際の神は鐵たちと同じ高さ、同じ地に暮らす。だが、決して人間が通り抜けられない関門を抜けなければそこに辿り着けない。現世と冥府。そう区別されるその境は本来どこにも存在しないはずなのだが、


 御簾が少し揺れた。

 あの奥に間違いなく、神はいる。


「五帝の皆さま、各人の位置にお座りください」


 台座の前に大きな座布団が置かれている。赤・黄・青・紫・黒の五色。紫の座布団は離れたところにもう一つある。鐵は迷いなく黒の座布団に座った。それぞれの定位置へ、しかし斜め向かいにある黄色の座布団は空席だ。

 最後に一番前の紫の座布団に菫が座った。三皇が音もなく台座のかたわらに立つ。


 ドン ドン


 他に誰もいないはずの空間から鼓の音がした。


「五帝の冠をたまりし者、ここにあり」


 三皇の澄んだ声が天井に響く。


「紫苑の名を受け継ぎしもの、名を北条菫と申す」

「紫苑帝、北条桔梗より力を受け継ぎしもの、清き名を持つ者ここにあり」


 等間隔で鳴らされる鼓の音が徐々に間隔を狭めていく。追い立てられるような焦燥に鐵の心臓は早鐘を打つ。御簾がまた揺れた、あの後ろに誰かが立っている。


「召しませ、神よ。宵の権化よ」

「勇猛なる我らの父よ」

「召しませ、召しませ、――召しまする」


 台座の向こうから風が吹いた。突風と言っても過言ではない強い風が、そこにいた者を煽る。鐵は細く目を開けた。


 御簾は開いている。台座には白い影が立っていた。

 姿が見えない、輪郭はある。そこに確かにいるはずなのに脳が姿を認識できないのだ。

 間違いなく、そこにいるのは――神だ。


 光の影が揺れると、それと共に空間全体に音が響く。ボーン、という低い音。密閉空間に入った時に聞こえる、小さな耳鳴りの様な音。

 これは神の声だ。

 音として認識は出来る。だが聴こえない。神が何を言っているのか、人間の鐵たちでは認知できない。

 ボーンとまたしても声が響く。脳に直接呼びかける声は鐵の意識をかき乱し、混濁こんだくさせる。


「新たな紫苑帝、冠を」


 三皇が菫に手の冠を掲げるよう命じた。意識の朦朧もうろうとしている菫は顔を歪めながらも、まばゆいその光に向かって冠を掲げる。

 光と耳鳴りの音が少しやわらいだ。だが、新たに出現したのは花の香りだ。 

 一面花畑に包まれたかのような強い芳醇ほうじゅんな花の香りにむせ返りそうになる。広い空間にあっという間に充満し、そこにいた者の嗅覚を奪った。


(――これが紫苑帝の能力の源か)


 五帝の力はそれぞれに違った形を持っている。紫苑帝は『香り』、烏羽帝なら『明暗』、以前参列した焔の時は強い鐘の音に鼓膜を破られそうになった。これらは本来神の身体に宿っていた神通力。神がそれを五帝に分け与えることで、五帝は初めてその力を行使できる。

 花の香りは渦を巻き、菫の持つ冠に収束し始める。目で見えない香りという物質がそこに寄り集まっていくのを確かに感じた。


 ボーン ボーン


 神の声が響く。その瞬間、空気が弾けて花の香りは霧散した。

 シンと静まり返る本殿。前かがみに身体を折っていた菫が自身の掌にある冠を見つめた。

 冠は先ほどと何も変わらない、だが、その内には確かに先ほど放たれた神の力が宿っている。


「五帝の力は神の啓示」

「神の啓示は五帝の摂理」

此度こたびより汝は神の名の下に生まれ」

「神の名の下に集い」

「神の名の下に死ね」


 三皇の言葉と共に菫がその冠を被った。床に三つ指を立て、神に向かって首を垂れる。


「五帝が一、紫苑帝の任、――つつしんで、拝命いたします」


 時が再び動き出した。白い影は大きく揺らいで消えていく。気が付くとそこにはゆらゆらと揺れる御簾だけが残っていた。


「――これにて紫苑帝、北条菫様の戴冠式を閉幕いたします」


 三皇が音もなく下がっていく。台座を覆う垂れ幕の向こう、あの神が消えた御簾の中に彼らもまた姿を消した。


「――っ、終わった」


 最初に息をついたのは葵だった。まるで儀式の際中ずっと息を止めていたみたいに、ゼイゼイと呼吸を繰り返し汗をぬぐう。


「……全く、何回経験しても慣れないもんだね、神の降臨ってもんは」

「桔梗さんが慣れないなら俺たちは一生慣れませんよ、な、鐵」

「ああ……」


 かくいう鐵もようやくちゃんと息が出来たみたいに脱力して天井を仰いだ。


「菫さんは大丈夫ですか?」


 神に一番近い位置で一番余波を受けただろう菫は首を垂れたまま動かなくなっていた。まさか死んではいないだろうな、と恐る恐る覗き込んでみると、


「――寝てる」


 あまりに健やかな寝顔だったので鐵は面食らった。それを聞いた葵と桔梗が可笑しそうに笑いだす。


「寝てんの⁉ 寝てんの菫さん⁉ いや、神の玉座の前で疲れてそのまま寝ちゃうってありなの⁉」

「……まあ、ある意味大物になるかもね」


 笑っている場合かと鐵はため息を漏らしつつ、菫の身体を抱き起した。


「とにかく戻りましょう。いつまでもここにいては罰が当たりそうだ」


 菫を横抱きにして、二人に引き返すよう促した。その時、


「――どうせ神様の道楽よね」


 一人黙っていた焔がぽつりと呟いた。彼女も他の五帝と同じように疲弊した顔をしていたが、どこか不満そうな腑に落ちない顔をしていた。


「焔、どうした? もう行くぞ」


 鐵が呼びかけると焔は渋々立ち上がって、


「なーんでもない」


 大きく背伸びすると鐵の隣に寄り添って歩き出す。


「いいなー、お姫様抱っこ。私してもらった事ないんだけど」

「誰かしてもらえる人探せよ」

「貴方がそんなこと言うの、酷くない?」


 焔はいじけるふりをして見せた。相変わらず調子のいい奴だと思う反面、どこか気伏せた様子して鐵は眉を寄せる。そして、


「……洸輔、私――聴こえちゃったんだ」


 不意に焔が、鐵にしか聞こえない声で呟いた。


「聞こえた? 何が?」

「――神様の声」


 鐵は目を丸くした。鐵にはボーンという重く大きなノイズでしかなかったあの神の声が、焔には理解できたのか。


「なんて言ってたんだ?」

「……知りたい?」


 勿体ぶる彼女の仕草、いつもの事のはずなのに、心がざわめく。鐵は「知りたい」と頷こうとした。――その時、慌ただしい足音が近づいてきて本殿の扉が乱暴に開かれた。


「――⁉」


 血相を変えて入ってきたのはこの宮の宮司だった。今日は五帝以外の人間は皆宮外の詰め所で待機している手筈で、儀式が終わるまで本殿はおろか境内に入る事すら許されないはず。

 だが、宮司の様子が明らかにおかしい事から、何か危急の事態だという事は瞬時に理解した。


「何事だい?」

「た、大変です! 神宮の周囲一帯が……火に――」


 宮司は喉を詰まらせた。息を整え、大声で叫ぶ。


「火事です! 神宮の周囲一帯に火が放たれて、逃げられないんです!」


 そこにいた全員が言葉を失った。鐵は慌てて本殿の外に出た。その瞬間、明らかな異常を察知する。


「熱っ……!」


 今日は元々天気も良く気温も高かった。だが、今の気温は『天気が良い』の域を超えていた。肌を直接焦がされるような熱気、空気を吸い込んだ瞬間喉が焼けそうになってせき込む。さらに、空に濛々もうもうと黒煙が立ち上っていた。神宮内にもすでに煙が立ち込め視界を悪くする。

 鐵はたまらず本殿に引っ込み扉を閉める。絶望的な状況に思わず身体が震えた。


「「「無法者の襲撃です」」」


 先刻神と共に消えたはず三皇が再び鐵たちのもとに姿を現す。


「無法者? いったいどういう事だ⁉」

「何者かがこの神宮を包囲し、火を放ちました」

「数は三十名程度、武器を所持」

「すでに火は山の中腹一帯に広まり始めています」


 淡々と語る三皇は全く動じていなかったが想像以上に深刻な事態だ。


「他の人たちは⁉」


 宮司が鐵に知らせに来たという事は、他に待機していた者たちもいるはずだ。


「拝殿に逃げ込んでいます。あそこが一番広いですから。ですが……」


 退路はない、その事実が益々鐵の焦燥を煽る。焔が宮司に掴みかかった。


「ちょっと! 非常の抜け道とかないの⁉」

「あ、ありません……! それに山にまで燃え広がっている以上、神宮を脱出したところで逃げ場は……」

「なら救助は⁉」


 すると葵が難しい顔をした。


「霊山の山道は元々狭く消防は入れない。それにこの黒煙じゃヘリもすぐには無理。仮に着陸できたとしても、僕たちの神宮の人間全員を一度に運べない。どちらにせよ積みだ」


 焔が苛立たし気に舌打ちをして宮司を突き放した。


「落ち着け、焔。この人にあたってもしょうがない」

「わかってるわよ! でも、このまま火にいぶされて死ぬのを待てって言うの⁉」


 焦っているのは焔だけではなかった。ここにいる皆が絶望の中で活路を必死に探している。鐵も頭を必死で回転させた。考えろ、考えろ。もう残された時間はない。その時、


「雨でも降れば――」


 静謐せいひつな声が本殿内に響いた。

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