第四章 鱗剃り⑥

 ◆

 ――忘れもしない、二年前のあの日。


『洸輔刺されたんだ。今附属病院にいる』


 受話器越しに葵がそう告げた瞬間、眞白は受話器を取り落とした。


 洸輔と出会ってから五年が経ち、牢獄の外で少しずつ普通の人間らしい日常生活を送れるようになっていたはずだった。それなのに、葵の電話を受けて、眞白はまた人形の様に固まった。一度も一人で外に出た事がなかった眞白は、愛する人の元に駆けつける事が出来なかった。

 心配になって様子を見に来てくれた葵が電話台の前で放心している眞白を発見し、葵に手を引かれ何とか洸輔の搬送された病院に辿り着くと、


「遅かったじゃない、葵」


 眞白たちを出迎えたのは見知らぬ女性だった。人目をく華やかな顔立ち、すらりとした完璧な体躯たいく。色香を纏わせるその女を眞白は直感で天敵だと思った。


「焔、どうだ。洸輔の様子は?」

「たった今集中治療室に運ばれたわ。一命は取り留めたそうだけど、いつ意識が戻るかわからないって」


 薄暗い蛍光灯に照らされた病院の廊下は物寂しく、真夜中の時間帯のせいか周囲には誰もいなかった。その女は近くの椅子に座ると安堵したように息をついた。眞白はその女の一挙一動から目が離せなくて、


「彼女五帝なんだ。緋猩ひじょう帝、鏡雛焔。昨日五帝の会合の帰り、彼女がストーカーに襲われそうになってその時鐵が庇って怪我したんだよ」


 事情を説明してくれる葵の言葉は全然耳に届いていなくて、目に入る情報だけが脳を支配して動けなかった。


「彼が怪我をしたのは私のせいだわ。迂闊だった、本当にごめんなさい」

「洸輔を刺した奴は?」

「警察に連れて行かれたわ。洸輔が反撃したの。おかげで取り押さえられたって」

「そうか、なんにせよよかったな。お前随分悩まされてただろ、そいつに」


 葵とその美女は互いにほっと息をつく。事態の理解に追いついていないのは眞白だけで、


「それで、貴女は誰?」


 その美しい女が眞白を見た。鋭い視線、眞白の旋毛つむじからつま先までを撫でつけるその視線は痛く、眞白は委縮した。


「彼女は洸輔の恋人だよ」

「恋人?」


 焔があからさまに唇を歪めた。眞白を見る視線がますます鋭くなって、それから彼女は、あざけりの笑みを浮かべた。


「――恋人なのに、なんですぐに駆け付けなかったの?」


 身体を袈裟懸けさがけに斬られた気がした。焔の言葉には間違いなく敵意という名の刃物が仕込まれていて、


「その肌と髪、あんたなんかの咲人でしょ? 五帝の恋人が咲人の子供って何の冗談?」

「……」

「黙ってないでなんか言いなさいよ」

「やめろ焔。なんで眞白ちゃんを責めるんだよ」


 葵が二人の間に割って入った。庇われながらも、眞白の身体は焔にざくざくと切り刻まれていく。

 彼女の言う通りだった。洸輔が病院に搬送されて連絡を受けてからもう五時間以上たっている。葵の連絡は迅速だったのに、そこから動けなくなったのは眞白だ。どうしてもっと早く駆けつけてあげなかったんだろう。どうして襲われた時洸輔の側にいたのが自分じゃなかったんだろう。眞白の鱗の肌なら洸輔を庇ったって平気だったのに。

 黙ったまま動かない眞白に興味を失ったのか、焔は鬱陶うっとうしそうに髪をかき上げた。


「私今日は病院に泊まるわ。幸い明日はオフだし、洸輔の側についてる」


 それがさも当たり前のように告げる焔にもやもやがつのる。


 なんで? どうして貴女があの人の側についている必要があるの?

 それは私の役目なのに。この五年間、あの人と一番一緒にいたのは私なのに。


「俺も今日は病院に待機しとくよ。眞白ちゃんはどうする?」


 葵がこちらを振り返った。眞白は二人の視線に息が詰まる。

 どうするって、そんな答えは一つしかないのに。――声に出せない。


「俺が普段使ってる咲人科の宿直室が空いてるからさ。心配なら今日はそこに泊まりなよ」


 言葉に出せなかった眞白に葵は優しく声をかけてくれた。



 あの時、眞白は自分の無力さを痛感した。自分は生まれた時から出来損ない。人間の形すら保っていなかった化け物。『女郎花』で琥珀と出会って変わった。人としての感情を知り、誰かと同じ時を共有するとうとさを知った。

 そして洸輔に出会って、普通の人間の女として暮らすことを覚えた。誰かを愛し思いあう事を知った。


 眞白は人間になったつもりでいた。つもりになっただけだった。洸輔にとって眞白は、何にも出来ないお荷物でしかない。


『私の最愛の人です』


 久しぶりに目にしたあの女が鐵に抱き着いて堂々と宣言した。その瞬間あの日病棟で責められた事がフラッシュバックして、眞白は腹の底からマグマが湧き出るみたいに怒りに震えた。


 そんなのあり得ない。洸輔君の妻は――私。


 二人に群がる群衆にそう叫びたかったのに、声は出なかった。声が出せなくなった事に憂い目など感じたことがなかった眞白が、この日初めて声を出せない自分を呪った。


 言いたい、言ってやりたい。

 それなのに声は出ない。眞白の怒りは不完全燃焼を起こして沈んでいく。


 そうしたら心のどこかで、これが正しいんじゃないかとさえ思ってしまった。

 本当に洸輔の隣にいるべきなのはあの女で、眞白はただ洸輔に付きまとっていただけの寄生虫に過ぎなかったんじゃないかって。

 眞白は怖くなった。怖くて逃げ出すしかなかった。全速力で走って目に焼き付いた光景を否定したかった。引き留める葵を突き飛ばして、一目散に逃亡した。


 走り続けていたらいつの間にか人通りの多い商店街にまで来てしまっていた。立ち止まって見てもまったく見覚えのない周囲の景色に眞白は顔面蒼白になる。


(ここはどこ?)


 入り組んだ路地。折り重なる高架と電線。天空に続くビル。どこを見ても眞白が知った景色がない。

 だが眞白はどこか懐かしさを感じていた。見慣れないはずの街並みに潜むかすかな郷愁きょうしゅう


 ――匂いだ。町の匂い、眞白はこの匂いを幾度となく嗅いだ。


 その理由が眞白のすぐ目の前に立ちふさがっていて、それを目にした瞬間眞白は呼吸を止めた。


『女郎花』


 忌まわしき名が刻まれた看板が、蛍光灯に照らされ掲げられている。


(どうしてよりによってここに辿り着いてしまったのだろう)


 ただ闇雲に走っただけで、自分のかつての古巣に、凄惨な記憶が残るあの忌まわしい場所に辿り着くなんて。

 眞白は足が地面に根を張ってしまったみたいに動けなくなった。そこに、


「――貴女、鶫眞白さんですか?」


 一人の青年が現れる。金に染めた髪に、耳や鼻に無造作に空いたピアスが光っている、見ず知らずの青年。だが、眞白はその姿を見た瞬間何故か怖気おぞけが走る。

 ――彼の視線からむき出しの敵意の色が見えていたから。


「ああ、突然声をかけてすみません。貴女は僕を知らないんでしたね」


 その青年は白々しいほど感情の無い声で挨拶した。


「僕は芥と言います。貴女と同じ咲人です。貴女は僕の事をご存じないと思いますが、僕は貴女の事をある人から聞いていました」


 眞白の心臓がドクドクと早鐘を打って、


「……きみしろ琥珀を覚えていますか?」


 心臓をギュッと鷲づかみにされた心地がした。初めて会った通りすがりの人間から、眞白が昔呼び続けた人の名が出る事に、酷く違和感を覚える。眞白は無意識にポケットに入っていた物を握りしめた。鐵が琥珀から譲り受けた彼女の『琥珀』だ。


「貴女はここで彼女と一緒に働いていたはずです。忘れたとは言わせない」


 芥が側の女郎花の看板を睨みつけた。親のかたきを見るような激しい怒りをその目に宿して。


「僕は、……琥珀姉さんの用心棒をしている者です。貴女が烏羽帝に買われあの店を去った後で、僕は黄蘗によりあの店に連れてこられました。琥珀姉さんがいつもあなたの事を話していました。いつも一緒にいてくれるかけがえのない存在だったと、悲しそうに」


 芥は眞白を睨んだ。軽蔑を隠しもしない。


「琥珀姉さんに会いに来たんですか?」

「……!」


 何も喋らない眞白に、芥は畳みかけるようにこちらを糾弾する。


「琥珀姉さんは貴女がいなくなった後も、この店で働き続けていました。二年前、スパイの任務を受けて黄蘗の命令で観音寺家の当主と結婚させられ、一か月ほど前にここに戻ってきました。今は『女郎花』で女郎の管理をする立場に付き、店を経営しています」


 それは眞白の知らない現在の琥珀の話。琥珀の欠片が熱を持ったみたいに蠢いた気がした。


「会いたいなら呼んできてあげますよ。彼女はこの店にいます。以前みたいに牢獄に捕らわれている事もないので、すぐに出てきてくれるでしょう。――どうしますか?」


 琥珀に会える。眞白はそのために鐵についてきたはずだった。だが、いざ琥珀を目の前にしたらと思うと怖くなる。

 再び眞白の心臓が早鐘を打ち始めた。頭が真っ白にある、どうしていいかわからない。


「……会うのが怖いんですね」


 そんな眞白の心を見透かすように、芥は憐れめいた目を眞白に向けた。


「そうですよね。だって、貴女は琥珀姉さんを捨てたんだから」


 違う、捨てたりなんかしてない。なんであなたにそんな事言われなきゃいけないの、と心の中で叫んだ。


「まだあの男に縛られている姉さんを置いて、別の男のもとで幸せになろうとしたんだから」


 違う、違う違う!


 眞白は心の中で叫び続ける。琥珀を忘れた事なんてない。彼女の存在はいつだって眞白の支えになってくれていた。


 ――でも、置き去りにしたのは事実じゃない。


 否定する言葉の奥でもう一人の自分が囁いた。そのたった一言だけで、眞白は心の中ですら言葉を発せられなくなる。


「……『女郎花』はもうすぐ潰れますよ」


 黙り続ける眞白に芥はふと呟いた。


「僕が潰します。琥珀姉さんを解放してやるんだ」


 強い宣言にも、確信めいた予言にも聞こえた。芥と言う青年から、琥珀に対する強い愛情と何かに向けられる憎悪が見て取れる。


「姉さんは僕が守る。もう姉さんに貴女は必要ないんだ」


 そう言い放った芥は、眞白を無視して『女郎花』という闇の巣窟の中に消えていった。

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