第二章 墨殺し③

 ◆

 鐵は麻耶に住所を聞いて後日向かおうと言ったのだが、


「でしたら私がご案内いたします。自動車で来ておりますので、私も今日はこの村の民宿に泊まります」


 翌日迎えに来てもらう約束をしてその日は別れた。

 彼女の家はここから車で五時間ほどの距離にある町らしい。問診や、言いたくはないが拒否の説得をすることを踏まえると宿泊は想定しておいた方がいいだろう。

 遠征なんて久しぶりだ、と鐵は旅行鞄に着替えや洗面用具を詰めていると、


「どうした、眞白?」


 眞白が不満げな顔をして近づいてきた。年の割には幼い顔立ちの妻が、こういう顔をすると一層子供のようだ。

 眞白は無言で鐵の胸に飛び込んでくると、どんどんと胸を叩いた。それほど強い力ではないが少々息苦しい。


「な、なんだ?」

「……」

「何怒ってんの?」


 眞白はどうやらご立腹の様だ。鐵の胸に顔を埋める彼女の頬に手を添えると上を向かせた。眞白は今にも泣きそうになって、鐵をうるんだ瞳で睨みつけている。


「泊まるって言っても一泊だよ。どうせ依頼を受けられないのは目に目見えてるし」

「……、……」

「俺だって寂しいけど、仕方ないだろ。仕事なんだから。旅行ならまたの機会に一緒に行こう、な?」


 だが、眞白はまだ納得がいかないのかフルフルと首を横に振った。眞白と暮らすようになってから、言葉を発さない彼女の思考はある程度理解できるようになったつもりなのだが、それでも未だに完璧にくみ取れない時がある。そういう時、鐵は眞白に掌を差し出す。すると眞白は小さな指でその掌に言葉をつむぐ。


『浮気したら許さない』


 鐵はポカンとほうけた顔になった。


「浮気なんかしねぇよ。あの人人妻だぞ」

『でもデレデレしてた』

「デレデレなんてしてないだろ」

『泣かれてほだされてた』

「……まあ、それはな」


 否定はできない、と言って笑うと、眞白はまた胸をとんと叩いた。

 そんな眞白が鐵はいつだって可愛くて、愛おしい。

 胸を叩き続ける眞白の身体ごと抱きしめると、鐵は彼女の頬に口付けた。


「すぐに帰ってくるから」


 こうしていると観音寺麻耶の事を狂人だなんて言えなくなる。

 ――もし、眞白が彼女の夫と同じような境遇になれば。

 多分鐵は、彼女と同じことをするだろう。


 ◆

 翌日、真っ赤なセダンを診療所に横付けした麻耶が訪ねてきた。寂しそうにする眞白に後ろ髪引かれる想いで車に乗り込むと、麻耶は静かに車を発進させた。

 車が遠ざかるのをジッと見送る眞白をミラー越しに見ながら、鐵は小さなため息をつく。


「あの子、一人にして大丈夫ですか?」

「平気ですよ。ああ見えて貴女と同年代です」

「え、……妹さん、ですよね?」

「妻です」


 麻耶はあからさまに目を泳がせた。まあ眞白が年相応に見えないのは今に始まった事ではないので、こういう反応には慣れているが。


「そうだったのですね。……あ、でしたら悪いことをしてしまいましたわ。旦那さんを連れだしてしまって」

「そこはお気になさらず」

「何か言われたんじゃありません?」

「昨日はなだめるのに苦労しました」


 結局眞白を説得するのに深夜まで時間を要してしまったため正直寝不足だった。大きな欠伸あくびをする鐵を見て麻耶は目を細めて笑う。


「俺の事より、貴女のご主人の事を聞かせてくれませんか?」


 これ以上話を広げさせてはいけないと、鐵は顔を引き締めて麻耶に問うた。麻耶はハンドルを切りながら、ふっと暗い顔をして口を開く。


「主人は観音寺家という、押川おしかわという地域では有数の名家の出身です。寝たきりになる前は水墨画家として多くの作品を生み出しておりました。東京の美術館で個展も開かれた事があるのですが、御存じありませんか?」

「……すみません、美術界隈にはうとくて」

「いいえ、お気になさらず。芸術家として名は知られていましたが、当の本人は生まれてからほとんどの人生を観音寺の屋敷で過ごしていたそうです。彼が咲人である事が判明した時、彼のご両親が彼を化け物扱いし家に閉じ込めたのです」

「ご主人は咲人と言っていましたが、何の咲人か聞いても?」

「――墨汁です。主人の身体からは墨があふれ出てきます。幼い頃、自分の身体から出る墨でふすまに絵を描いたのが最初だと。特に母親の拒絶が酷くて、幼少期は学校にも通わせてもらえなかったそうです。唯一できる事といえば、自身から溢れ出る墨で絵を描く事くらいだったと」


 思いの外重い話だった。鐵は聞いたことを内心後悔しながらぐっと奥歯を噛む。


「その後ご両親が他界し、彼の弟の真人まさと様が家督を継ぎました。成人しても正明様は相変わらず家の奥深くに閉じこもりひたすら絵を描き続けていたのですが、ある時真人様の御友人が家にいらした時、正明様の絵をご覧になったそうです。彼はその絵に美術的価値を見出し、ぜひ売るべきだという後押しから正明様の絵は世に出る事となりました」


 その友人の目利きは的中し、観音寺正明は水墨画家として名をせる事になった。彼の作品は多くの評論家たちをうならせたが、彼自身が表舞台に出る事はなかったという。


「それから三十年近く正明様は絵を描き続けていましたが、五年ほど前肝臓の病をわずらい、見る見るうちに衰弱していきました。三年ほど前、とうとう歩くことも出来なくなり寝たきりとなって、それ以降画家の活動も途絶えた、と聞いています」


 麻耶の目には涙が浮かんでいた。


「貴女とご主人が出会ったきっかけは?」

「私が主人と出会ったのはちょうど寝たきりになった三年前です。私は元々観音寺家で働いていた女中でした。女中の間でも正明様は触れてはいけない存在となっていて、私は彼のお世話係を命じられたのです。恐らく面倒事を押し付けられたというのが正しいでしょう。……今となっては、それでよかったのだと思いますが」


 彼のお世話をするうちにかれ、そして結婚したという事だろうか。恐らく同情に近いものだったのかもしれないと鐵はひそかに思った。咲人は世間から迫害され不遇な人生を送る者が多いが、その不遇さに同情的になる人間も多い。


 鐵はよく知っている、今まで色んな咲人の死を見てきたから。


『同情はあかん。咲人と多く接する五帝ならなおの事、そんな感情は切り捨てるべきや』


 ふと、鐵の脳裏に懐かしい声がよみがえった。


『情は捨てや、洸輔。俺たちは、咲人に愛情なんか持ったらあかん』


 残念ながら鐵はそのいましめを破り続けている。麻耶の今の姿を見ればそれは正しい事だったのだと思う。

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