第二章 墨殺し①

 ◆

 鐵が『烏羽からすば帝』の帝冠をたまわったその日、その男は鐵に声をかけてきた。


「初めまして、カラス。俺は黄蘗おうばく帝、本名の方はあまり好きじゃねぇんだ。黄蘗って呼んでくれ」


 その男は初めて会った時から鐵の事をカラスと呼んでいた。肥え太った身体に派手な色のスーツ、首と腕に巻かれた悪趣味な宝石類。一目で彼に対する不信感がつのった。


「この度は五帝就任おめでとう。まだ若いようだが、幾つだっけ?」

「今年で二十歳です」

「へぇ、大学生か?」

「いえ、専門学校に通ってて、来年の春からは義肢装具士として都内の病院で研修の予定です」

「玄一郎とはまた随分畑の違う奴が来たな。まぁ、五帝としてもしっかり勤めてくれや」


 偉そうな物言いに少し眉をひそめつつも、鐵は素直に激励げきれいを受け取った。


「このあと少し時間はあるか? お近づきのしるし、君に見せたいものがあるんだ」


 黄蘗の目は明らかに何かを企んでいるそれだった。若輩者じゃくはいもの甚振いたぶるのが心底楽しいという視線、鐵の眉間のしわはますます深くなる。


 連れてこられたのは都内で有名な繁華街『柄噛えがみちょう』。いわゆる夜の店が多く立ち並び、客引きの男たちが通行人を手招きし、時に明らかに堅気でない連中が堂々と道の中央を闊歩かっぽする。


「こういう街には来た事があるか?」

「……いえ、初めてです」

「ははっ、だよなぁ。君真面目そうだし、玄一郎は人間捨ててるレベルの禁欲主義者だったからなぁ」


 通りに響く不快な笑い声。やはりこの男とは相容れない。鐵は目の前を大股で歩くこの男に密かに不信認定を下した。


「さあついたぜ、ここだ」


 柄噛町の大通りを突っ切った大きな交差点、一番高くそびえたつビルを前に黄蘗はにやりと笑みをこぼした。

女郎花おみなえし』と書かれた看板は夜の店というより高級な料亭のそれに近い気がした。

 中に入ると、暗く照明を落とした怪しげな回廊がありその両側に木の格子で仕切られた個室が並んでいる。その部屋の中から、着物を着崩した妖艶ようえんな女性たちがこちらを見て手を振った。


 クスクス


 耳を舐めるような小さな笑い声が四方八方から反響する。一つ一つは微細な音なのに、折り重なって建物中に反響しているようで、鐵はくらくらした。


「戦前の遊郭ゆうかくを再現して作った店だ。勿論牢はただの演出だが――」


 黄蘗は顔を歪める鐵の目の前にくすんだ木札をちらつかせる。


「これで目当ての遊女の牢を解錠するんだ。そうすりゃあとはそいつが奥座敷まで連れて行ってくれる。そこまでいけば後は何するか、わかるよな?」

「……」


 悪趣味だ、と鐵は心の中で吐き捨てる。


「ここは女の従業員ばかりだが、最近は女や同性愛者向けってのも需要があってな。今若い男連中ばかり集めた陰間いんま茶屋をコンセプトにした店も企画していて、そっちも興味あるなら――」

「どうして俺をここに連れてきたんですか?」


 たまらなくなって鐵は黄蘗の話をさえぎった。一体全体、鐵は何のためにここに連れてこられて、下世話な話をされなくてはいけないのか。


「見せたいものがあるって言っただろうが。言っておくがこいつらの事じゃないぞ」


 黄蘗は牢の中でこちらを誘う女たちを指して言った。


「五帝の君にとって価値のあるものだ。――さあ、着いたぞ」


 回廊の途切れた先にもう一つ扉があった。従業員の勝手口の様だが、鐵はその奥に潜む何かおぞましい雰囲気を感じ身震いする。


 黄蘗が扉を開いた。暗い、深淵しんえんの向こうに広がっていたのは、先ほどと同じ回廊だ。

 だが照明は一段と暗く、そして両側に取り付けられている格子はさっきの真新しい偽物とは明らかに異なっていた。

 錆びた鉄に厳重に鎖の巻かれた牢。――本物だ。

 中に閉じ込められているのも老若男女様々だった。そしてそのほとんどが、生気を失った光の無い目を向けてじっとこちらを睨んでいる。


「これ、は……」


 鐵は声がかすれていた。目の前に広がる凄惨せいさんな光景に言葉を失い、立ち尽くす。


「ここにあるのは俺が保護した咲人共だ。特別な客にしか出さない、この店の目玉さ」


 鐵の様子を見て黄蘗はにやりと笑った。


「俺は金になる咲人が好きだ。美しいもの、珍しいもの。醜いものでも魅せ方を間違えなければ金を落とす連中は大勢いる。美しいものをはべらすのは紫苑しおんの婆さんの専売特許だが、俺が欲しいのは単純に金だ。金になる奴が欲しいんだ」


 そしてここに閉じ込められているのは黄蘗の資金源。生き物としての尊厳を奪われ、物として扱われるあわれな種族。

 鐵は堪らず目をそむけた。喉から大きな空気の塊が音を立ててこみあげてくる。胸を圧迫し息を詰まらせ、脳への酸素を途絶えさせる何か。


 この感情は――、怒りか。


 激しいいきどおり、もはや目の前で笑いを浮かべる醜悪な男に対するものだけではない。もっと大きな、人間という枠を超えた強力な理不尽に対する怒りだ。


「五帝は思い思いに咲人を管理する。お前は今まで玄一郎の爺さんの背中だけ追ってりゃよかったんだろうが、正式に五帝に名を連ねた以上、他の五帝がどういう想いで咲人に向き合っているかを知らねぇとな」


 恐らく黄蘗はわかっていた。この光景を見て鐵が怒り狂うだろうという事も。黄蘗に対し憎悪の感情を抱くことも。


 わかったうえで、これを鐵に見せつけた。


 鐵は何も言えなかった。ここで黄蘗を非難しても彼は決して堪えないし、新参者の鐵が何を言ったところでこの惨状は変わらない。

 鐵に出来ることは何もない。それを突き付けるためだけに、鐵をこの場所に連れてきた。

 ――鐵に屈辱を与える、ただそれだけのために。

 鐵は怒りと悔しさで奥歯を噛む。拳を握り屈辱に耐える事しか今の鐵には出来ない。だが、


「……?」


 視界の奥で何かが光った。向かいに立つ黄蘗の背後、回廊の最奥の牢で何かがキラキラと光っていた。

 鐵は吸い寄せられるかのように光源に近付いた。黄蘗が呼び止めても構わずに、そして、


 ――最奥で美しく光を放つ生き物を見つけた。


 それはかろうじて人の形をしているが、全身が七色に光り表面は鋭利なうろこおおわれていた。手足の先はとがっており、髪の毛の生えていない頭部はつるりとしているがびっしりと生えた鱗が逆剥さかむけだっている。まつ毛もまぶたもない目は玉虫色に光り輝いており、その大きな輝きに吸い込まれそうだった。

 その小さな鱗の塊は近づいてきた鐵に反応した。微かに磯の香りが鼻腔を刺激する。寝そべっていたその鱗の塊は、ゆっくりと身体を持ち上げて鐵を見た。


 ――化け物だ。


 ただ人間の鋳型いがたにはめられただけの、人間ではない生き物。十人が見れば十人が、その醜さに顔を歪め目を逸らすに違いない化け物に、鐵は――目を奪われた。


「なんだ、そいつが気になるのか?」


 背後から黄蘗が鐵の見ている化け物を覗きこんだ。


「そいつは鱗の咲人のめすだが少々特殊でな、生まれた時にはすでにその姿だった。全身に刃物のような鱗を生やしている。その鋭利な刃で、母親の胎内をズタズタに引き裂いて殺し産まれてきた」


 化け物が口らしき部分を開く。ぽっかりと空いた虚空から、鋭利な歯が覗き頼りない吐息が漏れた。


「父親に虐待されていたが、がした鱗が高く売れるんで俺が買い取った。客も取るがこいつの一番の仕事はその貴重な鱗を生み出す事だ」

「……まだ幼い」

「幼いように見えるが二十歳は越えてる。咲人の身体成長は人間のそれとは異なる事も多いからな」


 化け物はどう見ても十歳にも満たない少女だった。服を着ていないせいで細い腕と細い腰が露骨に分かる。

 化け物だ、これは人間じゃない。化け物なんだ。そう自分に言い聞かせても、鐵はもはや彼女から目が逸らせなかった。ここが憐れな咲人たちの吹き溜まりだという事も、後ろに嫌悪しか感じない男が立っていたという事も頭から吹っ飛んで、


 ――彼女に見惚みとれていた。


「……いくらだ?」

「は?」


 素っ頓狂な顔をする黄蘗に、鐵は低い声で告げた。


「こいつを貰う。いくらで売る?」


 同情か、あるいはこの男に対するせめてもの反逆心か。


『咲人に好意なんて持ったらあかん』


 鐵はかつて師に言われたいましめを五帝になったその日に破った。

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