第08話 岩清水

「――水場がある」


 光輝こうきさんの話には半信半疑だったけど、彼が私の手を引いてぐんぐん進んでいくので黙ってついていった。それにしても足取りに迷いがない。まるで彼の両目は闇の中を見通せているようだ。


「ねえ怖くないの? 壁にぶつかったり、谷底に落ちちゃうような不安ってない? 私、爪を折っちゃってそれから怖くなって進めなくなっちゃったんだけど」


「視覚に頼るのをやめたんだ」と光輝さん。「耳を澄ませると、いろんな情報が耳に届いてくる。不思議なんだけど、空気の流れみたいなのが音で分かるんだよ。行き止まりのあるところは空気が止まっているし、道のある場所は空気が動いている。谷底みたいなところがあれば、空気の動き方が激しくなるだろう。うまく感覚を伝えられているか不安だけど、聴覚的に進むべき道が分かるということだけは分かってくれればいい」


 耳を済ませてみた。ぼんやりと耳鳴りのような音がするだけで、私にはよく分からなかった。


 ただ、光輝さんの足取りは迷いというものがなくて、それでいて壁らしきものにもぶつからない。彼の感覚は正しいのだろう。


「目が使えなければ耳を使うんだ。目に向けているリソースを、今度は耳に向ける。視覚障害者は聴力が極めて発達しているという話は聞いたことがあるだろう。あんなイメージだよ。洋ドラの『デアデビル』みたいな。そうだ、『座頭市』って映画みたことない?」


「知らない」


「知らないとは。古い映画好きなんじゃないの?」


 呆れたような口調で光輝さんは言った。


「古い映画といっても洋画しか見ないんだもん。『麗しのサブリナ』とか『風とともにさりぬ』とか」


 反論する私の顔は明るいところで見たら赤く火照っていたに違いない。


「それもいいけどね、日本映画もいいよ。黒澤明とか小津安二郎とか」


「今度見てみるよ。『ディズニープラス』とか『アマプラ』とかにある?」


 映画を勧められたら『今度見てみる』が私の定番の返しだ。実際に見る確率は半々くらい。でも、この状況下にあってはもう完全に見ることは叶わないのだろう。


「ディズニープラスってなに?」


 光輝さんが尋ねた。


「知らないの? ネットフリックスみたいな動画サイト」


「ああ。俺にとって未知の動画サイトかな。君は何年から来たんだっけ?」


「2023年」


「俺にとっては近未来になるな。とても興味深い。さっきもちらっと言ったけど俺は2017年。六年後の未来をたっぷり教えてほしいな」


「2023年と言っても、私は2月以降を知らないけれど」


「じゃあその前の年でいい。何が起こるか教えてよ」


「うーん。何から話したらいいんだろう。いろんなことがありすぎて頭のなかで渋滞を起こしちゃう」


「ちょっと待って」


 急に彼の身体が歩みを停めたので、私は彼にぶつかって岩の上でたたらを踏んだ。


「どうかした?」


「聞こえないか、水の音だよ」


「水……」


「ほら耳を済ましてみて」


 やっぱりぼんやりとした耳鳴りしか聞こえない。でも、耳鳴りの向こうになにかがあると信じてさらに聞き耳を立てた。


 


 なぜかその単語が頭に浮かんできた。私は古いオーディオのラジオチューナーを想像する。水はきっとこんな音で流れているはずだ――ちょろちょろ。じょろじょろ。ざばざば。どぼどぼ。とぷとぷ、さらさら。つまみを回して周波数を合わせるように、さまざまな様態の水の音を耳鳴りの中に聞き出そうと努めた。


「あっ。聞こえた」


「だろう? 聞き取ろうと頑張れば大抵のことは聞き取れるんだ。為せば成るってやつだよ」


 その音は『さらさら』と表現するにふさわしかった。ひそやかに、それでも確かに流れる水流。やさしく、控えめに、岩の上を流れている。


「こっちだ」


 光輝さんが私の背中に回って手を取った。彼の胸板に背中が密着する形になり、心臓が高鳴った。


 光輝さんは私の手を暗闇の中に運んだ。ゆっくりと。重ね合った指先はごつごつした岩の上を這う。そしてそこを流れる水分を確かにとらえた。


「水だ……水がある」


 水音はいまやはっきりと聞き取れるまでになっていた。『さらさら』ではなく、『ちょろちょろ』と言ったほうがいいかもしれない。岩壁にそって地面をたどっていくと、やがて水たまりに差し掛かった。それは大人の靴底程度の大きさしかなかったけれど、たしかに水たまりだった。


「飲んでみよう」


「毒が含まれていたりしないよね、悪いバクテリアとか?」


「心配性だな」


 光輝さんはまたも呆れた声。


「ほら、心配なら手にとって臭いをかぐといい」


「冷たいっ」


 手に浸すとかじかむような冷たさだった。


 手が水に濡れた瞬間、閉じ込めていた気持ちがワッと溢れてきた。水を飲みたい。がぶがぶと飲みたいと。


 私は飲んだ。急激に口にしたものだから、むせ返って光輝さんに「焦るんじゃない」という瞬間もあったけれど、なんとかして切望していた水分を接種することができたのだ。


 水分を満足にとると、今度は別の欲求が頭をもたげてきた。食欲だ――さっき聞いた話がずっと頭に引っかかっていた。


「野萩さんって人だけど、その人は食料とか松明たいまつとかを持っていたみたいだけど、どこで手に入れたのかしら」


「『拾った』って聞いた」


「拾った? 食料が? 松明が? こんなところに?」


「ああ。僕は話に聞いたその場所を尋ねて歩き回っているんだ」

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