いのうえ食堂(2)

 高橋佐智子は、警視庁新宿中央署刑事課に所属する強行犯きょうこうはん捜査係そうさかかりの刑事だった。階級は巡査部長。刑事になって五年目だ。


 なぜ刑事である佐智子が、いのうえ食堂で働いているかといえば、それは現在追っている事件の容疑者が、このいのうえ食堂へとやってくるという情報があったためだった。

 そこで、佐智子はいのうえ食堂の店員となり、容疑者が姿を現すのを待っているのである。


 飲食店で働くのも悪くないな。潜入9日目にして、佐智子はそんな気持ちになっていた。


 元刑事のやる飲食店。看板メニューは、もちろんカツ丼だ。取調室のカツ丼。そんな風な冠をつけて売り出せば、大ヒット間違いなしだろう。

 食事の終わったお盆を下げて、テーブルを拭きながら、佐智子はそんな妄想を抱いていた。



 その男がやってきたのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 夜のピーク時間も終わって、客足が途絶えはじめた時だったため、店内に他の客はひとりもいなかった。


 やせ形の体型でぼさぼさの髪。目は伏目がちで目が合いにくく、鼻の脇に小さなホクロがある。ヒゲが濃いのか、顔の下半分を覆うように無精ひげがびっしりと生えていた。

 見た目からして、この男がビジネススーツを着て仕事をするような人間ではないことは確かだった。


「いらっしゃいませ」

 佐智子が店の入り口に佇んでいる男に声をかけ、壁際の一番奥の席へと案内する。


 男は壁に貼られたメニューを一瞥してから、瓶ビール1本と餃子、醤油ラーメンを注文した。


 薄汚れたカーキ色のコート。その下に灰色のTシャツとジーンズという姿は、以前、佐智子が男のことを防犯カメラの映像で見たときの格好と同じだった。


 男の瓶ビールの中身が半分ほど減ったころに、新しい客が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 佐智子は新しい客に声をかける。


 入ってきたのは背の高い男で、紺色のスーツを着ていた。

 この店に来る客は、大抵は作業着かTシャツ、ジーンズといった格好が多い。

 そう伝えていたはずだろ。佐智子は心の中でやってきた客のことを罵った。


 その客は店の出入り口に近い席へ腰をおろすと、テーブルに置かれているメニューを眺めた。

 なにか迷っているのか、なかなか注文は決まらない。


 いつの間にか厨房が静かになっていた。

 いつもであれば、井上さんが鍋を振る音が絶えることなく聞こえている。


 男も妙だと気づいたようで、食事が半分以上残っているにも関わらず、席を立ちあがろうとした。

 そこに透かさず後から入ってきた長身の男――富永が立ち上がり、男の行く手を阻んだ。


及川おいかわ明彦あきひこだな。警視庁新宿中央署だ。お前に逮捕状が出ている。罪状は……」


 身分証を提示しながら富永が言ったところで、及川が富永のことを突き飛ばした。

 あまりに突然のことだったので、富永は不意を突かれた形となり、後ろによろける。


 そのチャンスを逃さないといわんばかりに、及川が走り出そうとした。

 しかし、次の瞬間、及川の体は一回転してコンクリートの床に転がされていた。

 なにが起きたのかわからないといった顔で、及川は床に這いつくばっている。


 及川のことを見下ろす佐智子の手には、掃除用のモップが握られていた。

 そのモップの先が、走り出そうとした及川の足をすくったのだ。


 これは、薙刀なぎなた脛払すねばらいと呼ばれる技だった。

 佐智子は学生時代に薙刀部に所属しており、いまでは免許皆伝めんきょかいでんを持つほどの腕前だった。


公務こうむ執行しっこう妨害ぼうがいの現行犯で逮捕する」

 倒れた及川の首元にモップの先を突き付けた佐智子が告げた。


 及川明彦は連続婦女暴行事件で指名手配されている容疑者だった。

 前科二犯の札付きで、先月の10日に大学の女子寮へ侵入しようとしたところを警備員に見つかり逃亡している。

 その後、防犯カメラの映像で及川の行動範囲が特定され、この『いのうえ食堂』へ犯行前に腹ごしらえをしに来るルーティーンがあることまで判明した。

 そこで及川が行動を移すところを逮捕すべく、佐智子はいのうえ食堂にパートとして潜入していたのであった。


 作戦は成功し、佐智子と富永は及川を逮捕することが出来た。

 及川には、婦女暴行罪、住居不法侵入罪、そして今回の公務執行妨害がつけくわえられたのだった。


 及川の身柄は、富永の連絡でやってきた捜査員たちに引き渡され、パトカーで新宿中央署へと送られた。この後、屈強な刑事たちからの取り調べが待っているのだ。


「それで、ごっちゃんっていうのは、何者だったんだ」

 新宿中央署へ戻る捜査車両の中で、富永が聞いてきた。

「聞いてくださいよ。それがですね」

 待っていましたとばかりに、佐智子がいう。


 ごっちゃんの正体。それは、漫画原作者などで有名な小説家だった。

 週に一度のアルバイトは、取材も兼ねた執筆活動の一環だそうだ。どうしても、リアルな食堂の風景を描きたいということで、編集者に頼み込んで、いのうえ食堂でのアルバイトを認めてもらったのだとか。


「ごっちゃんが、あの『対メシテロ特殊部隊555』の原作者の郷号剛ごうごうごう先生だったとはな。さすがに、そこまでは推理できなかったな」

「作家先生っていうのは、変わり者が多いって聞くけれど、やっぱりごっちゃんも変わっていましたよ。あ、いい意味でですけれどね。いつも、まかないは大盛りのごはんで――――」

 佐智子はハンドルを握りながら嬉しそうに富永へ伝えた。



【いのうえ食堂:完】

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