第2話 さっちゃん

さっちゃん(1)

 高円寺の駅前にある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。

 古めかしいけれど、どこか温かい雰囲気のある店で、学生時代はよく通っていた喫茶店だった。

 いつも同じ席に座り、コーヒーを飲みながらおしゃべりをしたり、本を読んだり、勉強をしたりして、何時間も居座ったりしていた。


 その日は、ミドリとふたりで喫茶店にいた。

 ケーキセットを注文して、飲み物をブラックコーヒーにする。コーヒーが飲めないミドリは、いつものようにダージリンティーだった。


 ミドリは付き合っていた頃と、なにも変わっていなかった。

 いつも着ているロックバンドのTシャツは、痩せすぎなぐらいの体型であるミドリには似合っていなかった。

 ミドリは大食いなのだが、その食べたものはどこへ行ってしまうのかと聞きたくなるほどに痩せていた。それでもって色白で高身長だから、もやしというあだ名がよく似合っており、本人もそのあだ名を気に入っていたりした。


「ねえ、さっちゃん。おれは『さっちゃん』っていう呼び方が好きだな」

 ミドリは少し照れくさそうにいう。


 でも、その表情はどこか寂しそうであり、泣きそうでもあった。

 なんでそんな表情をするのよ。佐智子もつられて泣きそうになってしまう。



「おい、高橋。高橋佐智子。高橋佐智子巡査部長」

 自分の名前を連呼された佐智子がはっと顔を上げると、そこには同僚で先輩の二川ふたがわ巡査部長が立っていた。


「お疲れのところ、申し訳ない。もう勤務時間は終了したんだから、休むならここ以外で休んでくれ」

 まるで能面のように表情のない顔で二川がいう。それが逆に怖かった。

 彼に悪気はないことは、わかっていた。元からこういう顔なのだ。感情があまり表には出ない。二川はそういう男なのだ。


「すいません。ありがとうございます」

 佐智子は慌てて帰り支度をはじめる。

 きょうは夜勤明けの勤務だった。前の晩から午前10時までぶっ通しで働いていたのだ。


 午前10時以降は残業時間となるわけだが、佐智子はまだ終わっていない書類の整理をしようとパソコンの画面を見ていた。そこまでは覚えている。

 どうやら、そこで力尽きたらしい。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 それにしても、変な夢を見たものだ。

 なんで、いまさら元カレのミドリが夢に出て来たのだろうか。

 もしかして、わたしは寂しいのか。

 佐智子は自嘲気味に笑うと、ビジネスタイプのリュックサックを背負って立ち上がった。


「お先に失礼します」

 デスクワークに励む同僚たちに声をかけて、刑事課の部屋を出る。


 帰る前に寄った洗面所で鏡を見たとき、佐智子は自分の顔を見て苦笑いを浮かべた。

 くっきりとおでこにパソコンのキーボードの跡が残っている。


「あーあ、こりゃダメだわ」

 ひとり言を呟くと、佐智子は前髪をおろして額を隠した。


 どうせ家に帰っても何も無いし、どこかでお昼を食べてから帰ろう。

 そう考えた佐智子は、新宿中央署の建物を出ると、駅とは逆の方向へと歩きはじめた。

 駅前には色々な飲食店があることは知っている。しかし、それはどこもチェーン店ばかりなのだ。

 いまの佐智子の舌はチェーン店の安定した食事よりも、個人経営の店の突出した味を求めている。その店でしか味わえないものが食べたいのだ。


 佐智子には何軒か行きつけにしている店があった。その中から、老舗の洋食店を選んだ。なんだか無性にオムライスが食べたくなったためだ。


 店は11時に開店だったが、11時10分現在の時点で店の前にスーツ姿のサラリーマンたちの行列が出来はじめていた。

 佐智子は足早に進むと、その最後尾につく。この店のオムライスは並んででも食べたい一品だった。


 待つこと10分程度で、店の中に案内された。

 ランチメニューは、オムライスとハンバーグ定食、カレーライス、ハヤシライスなどがあったが、一番人気は断然オムライスであった。ソースはデミグラスソースで、中にケチャップライスが入っている。


 カウンター席に腰を落ち着けた佐智子は、スマートフォンを取り出してニュースサイトの情報を見ながら、注文したオムライスが来るのを待っていた。


 隣に座ったスーツ姿の初老の男性が、カツカレーの大盛りをおいしそうに食べている。人が食べているものはおいしそうに見えてしまうもので、佐智子はカツカレーもアリだったかと心の中で呟いていた。


 オムライスが届き、佐智子は銀色のスプーンでそれを堪能した。

 とろとろになった半熟の卵におおわれたケチャップライス。そして何よりも、かかっているデミグラスソースの味が絶品なのだ。何度食べても飽きない味。ひと口食べる毎にやってくる、幸せなひと時。

 米つぶひとつ残さず、綺麗にオムライスを食べ終えた佐智子は水を最後にひと口飲んで、紙ナプキンで口の周りについているであろうケチャップライスの色を拭き取る。

 ごちそうさまでした。


 昼食を終えた佐智子は、そのまま駅へと向かった。

 あとは自宅に帰って、シャワーを浴びて、寝るだけだ。

 明日はまた夜勤である。たくさん寝て、体調を整えておかねばならなかった。

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