第37話 エピローグ①

 朝起きると、頭がくらくらしていた。

 この感覚、もしやと思ってゴミ箱を見ると、中には睡眠薬のパッケージがあった。前職を辞してから、こういうものを飲まなくても寝られるようになっていたのに、どうしたのだろう。昨日の私は、なぜにそこまで寝られなかったのか。まったくもって思い出せない。

 とりあえず水を飲みたかった。台所まで行こうとすると、突然、なにかに躓きそうになった。見たこともない四十センチほどの籐の籠が、床の上に置かれていた。

 なんなんだ、これは。まるで記憶にないけれど、新しそうにも見えない。雰囲気からして、私が選んだものではないようなのが余計に怖い。

 なにか大事なことを忘れている気がして、手帳を開く。今日は昼から幹事の集まりがあるらしい。すっかり忘れていた。危ういところだった。重要なことはあらかた決めてしまったので、今日は予備日のようなものだ。当日幹事は料理を味わっているひまがないかもしれない、料理目当てで選んだ店なのにそれはあんまりだからということで、事前にお店に行き、ゆっくり食べてから本番に臨もうということになったのだ。確か全員来るはずだ。みんなひまだなと思う。私もだけど。

 余裕をもって家を出たら、待ち合わせの時間より二十分ほど早く到着してしまった。町田君だけは既に来ている。この人は、待ち合わせの時間より後どころか、ぴったりやぎりぎりに来ているのすら見たことがない。なんだか大変そうだなといつも思う。

 私を見つけると、彼はなぜだか、はっとした様子を見せた。

「私が早く来るの、そんなにおかしい?」

「ううん、そうじゃないけど、なにか言わないといけないことがあった気がしたんだけど……忘れちゃった」

「もしかして、お金貸してたかな?」

「相変わらず、ずうずうしいなあ、安藤さんは」

 この人とこうしてなにかの用事で待ち合わせる機会も、これからは、多分もうないのだろう。そう思うと少し寂しい気がした。

 高校生のころは、この人ともそれなりに仲良くしていた気がするけれど、卒業してからつい最近まで、なぜか全然会う機会がなかった。文芸のメンバーで定期的に集まってはいたものの、私たちはことごとくタイミングが合わなかった。高校を卒業してから、地方の大学へ行っていた彼は、年末年始くらいしか帰省していなかったようだし、私は私で年末年始は旅行やら他の集まりと重なるやらで、文芸の集まりには行かなかった。だから、彼と再会したのはここ一、二か月の話だった。

「今更なんだけど、高校生のとき、町田君って、いつの間に加奈子さんとつきあってたの? ほら、私そういうの全然知らなかったから、びっくりしちゃってさ」

 なぜ今こんな話題を持ち出したのか、自分でも、言ってしまってから驚く。

町田君は静止した。

「本当、今更だね」

 しばらくしてから、ようやくぽつりとつぶやく。

「加奈子さんとつき合ってたのは、夏休みに入ってからだよ。でも、けっきょく一月くらいでほかの人から告白されたって言われて、別れを告げられたけどね」

 私が黙ったままでいると、

「いや、実はほっとしたんだよ。なんだか彼女に僕は合わないような気がしてたし、一緒にいても、彼女の時間を無駄にしてるみたいで申し訳なくて」

などと言う。

「夏休み前からじゃなかったっけ? 私の勘違いかもしれないけど、そのころから、なんか二人が仲良くしてるように思えててさ」

「それくらいのころから、なんというかアプローチされていた雰囲気はあったけど。でも、ちゃんと告白されたのは終業式の日だった」

 それを聞いたとたん、どういうわけか、心臓のあたりからなにかが沸き上がってきた。激しくて、いい感じのするものではないものだった。これをなんと呼べばいいのか、とっさのことに感覚が追いつかない。

 これはなんだ? 怒り? 悲しさ? もしくは、後悔……? いずれにせよ、すべて、今の状況ではなんら感じる必要はない気持ちだ。どうしたのだろう、睡眠薬なんて飲んだせいで、まだどこか寝ぼけているのか、体の機能がちぐはぐになっているのか。

 どう受け止めていいのかわからないままではあったけど、一瞬のことだったようで、やがてその感覚は去っていった。

 私が静かになったせいか、町田君は携帯を開いてなにやら操作を始めた。

「また、彼女とメールでもしてんの?」

「またって、どういう意味?」

「この間、確か、初めの集まりのときにも、誰かとずっとメールしてたじゃない、話し合いそっちのけで」

 町田君の顔から一瞬表情が消えたのを、私は見逃さなかった。

「もしかして、私、なんか悪いこと言っちゃった?」

「安藤さんにそんなこと言われると、気味悪いよ」

「はぐらかさないでよ、傷ついたなら傷ついたって言えばいいじゃない」

「なんで僕が傷ついたと思うの?」

 こういう質問は、この人にしては珍しい。

「もしかして、親御さんの具合が悪い、とか?」

「あのときは、ずっと一緒にいた猫が死にそうだったんだ。だから気になって、弟に猫の様子を逐一聞いていたんだ」

「そうだったの? もう猫さんは大丈夫なの?」

「他界したって、言わなかったっけ」

 なぜだか突然涙があふれて、ハンカチを取り出すひまもなく、涙が地面に落ちた。地面を叩く小さい音まで聞こえたような気がした。

 私が突然泣きだしたので、当然ながら町田君は戸惑っている。

「見たこともない猫が死んだことが、そんなに悲しいの?」

「うん、なぜか……」

 なにかがおかしい。やはり、まだ寝ぼけているのだろうか。

 町田君は携帯電話を取り出すと、「これがその猫だよ」と写真を見せてくれた。待ち受け画面にしているようだ。よほど大切な猫だったのだろう。

 画面には、凛とした出立ちの三毛猫が写っていた。目は見開かれ、体格もよく、可愛いというよりも堂々とした自身たっぷりな雰囲気が醸し出されている。

「私……、この猫、知ってる気がする……」

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