第35話 未定稿4①

 タミが死んでしまった。

 物心ついたときからずっと一緒にいた猫。一緒にいないときも心の支えであり続けてくれた猫。僕にとって、子供であり、友人であり、乳母であり、そして母親であった猫。僕の時間も、そのとき止まってしまった。

 それから数日後、夢をみた。タミの声が聞こえた気がして、僕は霧の中を必死で走り続けていた。どれくらい走っただろう、突然霧が晴れて、そこにはもう一人の僕がいた。夢の中とはいえ、どきっとした。これが噂のドッペルゲンガーというものなのだろうか。

 普段鏡で見ている自分の姿は平面だけど、三次元の姿はやけにリアルで、案外黒子が目立つだとか、なんだか猫背気味だなとか、最近散髪していないから髪が乱れつつあるだとか細々したことが気になる。自分と同じ姿かたちの人間が、目の前で予測できない動きをするのは実に奇妙だ。なにを話し出すのか、なにを企んでいるのか全然読めない。そして一番気になるのは、僕も間もなくこの世を去るのだろうかということで……、

「なにもリアクションしてくれないなんて、寂しいですよ」

彼は言った。

「すみませんが、どちら様でしたっけ?」

「そうきますか。昔はよくこうして夢の中で話していたじゃないですか。すっかり忘れられてしまったようですね」

 言われてみると、小さいころ、夢の中で彼とよく会っていたことを思い出した。確か、幼稚園に通っていたときだった。いじめっ子にタミをさらわれ助けようと必死になっていたとき、僕は初めて彼の存在を知ったのだった。それから彼は、度々夢の中に現れてくれるようになった。日々の生活について、色々と相談に乗ってくれたことを思い出す。他人とどう接していいのかよくわからず、日々悩んでいた僕。助けてくれたのは、母親でもなければ担任の先生でもなく、身近にいる級友でもなかった。彼とタミだった。そして彼とは夢の中でしか話ができなかったので、僕はいつも夜九時を過ぎると喜んで布団に入った。彼と会うことが、一日の中で一番の楽しみだった。

 昼間あったことを逐一話して、彼からアドバイスをもらっていた。言われた通りに振る舞うと、自分だけでは対処できなかった問題も片づいた。これくらいなら自分でも思いついたのに、と思うこともあったけど、彼から裏づけをもらえると、不思議と安心できた。

 いつの間にか彼とは会えなくなってしまっていたが、彼は大事な友人だった。忘れていただなんて、どうしてしまっていたのだろう。

「久しぶりだね。今までどうしていたの?」

「それはこっちのセリフですよ。私は夢の中で、あなたにこうしていつも話しかけていた。しかしあなたは全然気づかなかったんです」

「なんで僕は、今君に気づいたんだろう」

「まあ、あえていうなら、タミのおかげでしょうか」

 懐かしい鳴き声に振り返ると、そこにはタミがいた。

「お坊ちゃま……」

 タミが、話している。思っていた通り、落ち着いた中年の女の人のような声だった。

「ああ、タミ! 夢の中だと、タミとも話ができるのか……!」

「いいえ、夢の中だからではなく、タミが他界して、猫の体を離れたから、お話ができるのですよ」

 そう、タミはつい数日前、僕を一人残して他界してしまったのだ。あのときの、この世が終わってしまったかのような衝撃が再び蘇る。

「タミ、どうしてタミは死んでしまったんだ?」

「寿命ですよ、お坊ちゃま」

「お前が死んでしまったから、僕はもうどうしていいかわからないよ……」

 屈んで、タミの背を撫でる。首の辺りも撫でる。タミはごろごろいいながら、しばらくじっとしていた。

「あなたは今、タミがいなくなってしまって、けっこうショックを受けていますよね」

「そんなの言うまでもないだろう」

「皮肉にも、そのことで再び、本気で私に助けを求める気になったということです」

「君に、なにを助けてもらえるのかな?」

そのとき、どこからともなく、以前よく聴いていた歌が聴こえてきた。もう何年も聴いていなかったものだった。

 改めて聴いてみると、なんだか僕の今の心境をそのまま歌っているようだ。リピートになっているようで、僕は三回くらい、タミと一緒にその歌を聴き続けた。

「僕は、間違えた道を選んでしまったのかな?」

 タミも、もう一人の僕も、なにも答えない。

「あなたは、不幸なんですか?」

「少なくとも、その質問に対して否定する言葉は浮かんでこない」

「今のあなたは、経済的に安定していて、意地悪な上司がいるわけでもなくて、親の介護の必要も今のところないし、借金があるわけでもない」

「相変わらず、意地悪だね。全然充たされてないのはわかってるんだろう。君の方が僕のことをよく知ってるんだから」

「本当はゼロ階から百階まであるビルの、四十五階から五十五階付近をずっとうろうろしているような、そんな空虚な日々」

 僕は頷くしかなかった。彼はいつも的を射たことを言う。

「僕のどこかに穴が開いていて、溜めても溜めても、そこから水が漏れているような、そんな気がするんだ。でも、どこに穴があるのかわからない」

 

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