第34話 七週目⑥

 No2は、沈黙を守ったままだ。意識があるのか、顔の前で手の平を上下に振りたい衝動に駆られるけど、ふざけている場合ではない。

 彼が自分の意思で誰とつき合おうと、知ったことではなかった。私たちは特にお互いが特別な存在だと確認し合ったわけではなかったし、何かしらの約束を交わしたわけでもなかった。私がなにも言わなかったからといって、一般的見解からして私に非はないだろうし、返って怒り出すほうが不自然だっただろう。

 しかし、彼はどう思ったのか。普段は、瞬間湯沸かし器のように、なにか気に入らないことがあるとすぐかっとなる私が「堂々と無視した」というのは、彼にとってはそれなりの出来事だったのではないか。

 結果的に加奈子さんを利用するかたちになってしまった自分への不信感が募り、自分は特別だと思われているとの思い込みは打ち砕かれる。なんだったのだ、あの思わせぶりな態度の数々は。やがてそれは、ああ、本当のことを言ってなくてよかった、という安堵に変わる。もしかしたら、私がしたのと同じように、彼もまたあのときの記憶を深く掘った穴に埋めて、その上で何度もジャンプして踏み固めて、用意周到に野草の種まで撒いて、すっかりなかったことにしたのかもしれない。

 No2はなんの反応も示さない。このままでは埒が明かない。やはりこういうときは年の功、猫に意見を求めるしかないのか。

 しかし、猫はいつの間にか私の脇から姿を消している。慌てて辺りを見渡すと、すぐ後ろにいた。

「もう、町田君ってば」

 うっかりして、猫に向かって「町田君」などと呼びかけてしまった。

 その瞬間、BGMがストップした。またなにかやらかしてしまったのだろうか。よりにもよって、猫の陰に町田君が隠れているだなんて……、

 猫に町田君が隠れている……だって? 

 この突拍子もない思いつきを、もう一度反芻してみる。

 私はなぜ、今猫に向かって「町田君」と呼びかけたのか。それは、あのドーナッツ屋でかくれんぼの話をしたときに、彼が「鬼の後ろにいてすぐに見つかるようにした」と言っていたことを、無意識のうちに思い出したのだろう。しかし、多分彼はあのときも本当の理由は言っていなかった。めんどくさいからと言っていたけど、本当は鬼の背後にいれば真っ先に見つかるから、そうしたら忘れられて一人取り残される心配がないから、そうしていたのではないか。あれは、もしかしてNo2が秘かにヒントを与えるために私に言ったことだったのではないか。

 猫が町田君だとすると。

 猫は、町田君の事情を色々知っていた。時間がたつにつれて、最初は知らないと言っていたことも、実は知っていたということもあったけど、あれは当初は猫の記憶しかなかったのが、時間が経つにつれて町田君の記憶が表に出てきたものだったのかもしれない。

 だいたいおかしいと思っていたのだ。いくら化け猫だからって、人間の気持ちをあそこまで時系列で理解して説明できるものだろうか。

 以前No2が話していたことを思い出す。あの時彼は自分と町田君とのことを話していたけれど、それは猫と町田君に対しても当てはまっていたのではないか。猫がパソコン本体だとすると、その中に町田君というメモリーカードが差し込まれた、そんな状態だったのかもしれない。カードの中からどんな情報を選ぶか決めるのは猫だったとしても、町田君の半生の記憶は、あのでっぷりとした体の中に隠されていたのではないか。猫は度々「あなたが訊かなかったから言わなかったんです」とか、「質問してみて下さい」というようなことを言っていた。今思うと、自分の本来の記憶ではないので、質問されないと記憶を引き出すのが難しかったのかもしれない。

「町田君」

 今度は、確信を持って呼びかけてみる。猫はじっとしたまま動かない。

 静止していたNo2が、さっと両手を上げる。その手を胸のあたりまで持ってくると、突然拍手を始めた。

「おめでとうございます、正解です」

 今度こそ腰が抜けて、地面の上にしゃがみ込む。つぶされた草の臭いがもわっと湧き上がる。地面に近くなったせいか、かすかに花の香りが漂ってくる。

「どういうこと……?」

 猫はそのとき初めて「にゃあお」と猫の鳴き声を発した。

 思わず抱き上げると、すっぽりと私の腕の中に納まった。しかし、その体は透けてきている。恐る恐る頭を撫でると、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。

「タミさん、どうしちゃったんですか? 猫になっちゃったんですか?」

「ちょっと気が抜けただけです。お気になさらず」

 甘えているのにいつもの調子で話されると、不思議な気がする。

「タミは初めから猫だよ」

 あれ、No2が敬語じゃない? と思って目を上げると、No2の隣で静かに微笑む人物が目に入った。

「安藤さん、久しぶりだね」

「久しぶりって、突然言われたって……、どれくらい久しぶりなのよ」

 驚きのあまり声が上ずってしまう。

「二か月ぶりくらいかな、まあ、それほど久しぶりってわけでもないか」

「そのあとは、タミさんの中にいたと」

 彼はこっくり頷いた。

「なにが起きているのか、僕も、観ながら考えて行くしかなかったんだ。悪かったね、こんなわけのわからないことに巻き込んでしまって」

「まあ、仕方ないよ、そっくり人形展覧会のCDを貸したのは、私だったんだし」

 自分でも、話しながらわけがわからなくなる。これが夢の中でなければ、騙されているとしか思えない。でもなぜか、今自分たちは「本当のこと」を話しているのだなと素直に思えるから不思議だ。

「あと何分残ってる? どう説明してもらえばいいのかな?」

 No2は腕時計を見た。そしてそっと首を横に振った。もうほとんど時間はないらしい。

 こうなったら、と思い、最後の力を振り絞り、町田君の顔を見る。

「町田君は、私のことを、本当はどう思っていたの?」

 町田君の口元が動きかけたときだった。

「もう時間です、今すぐ戻らないと、戻れなくなってしまいます」

 タミさんの声が響く。

「え、でも、これだけ教えてもらってからでも……」

「そんなの、起きてからになさい。さあ、早く!」

 それこそ首根っこを掴まれた動物のように、私はぽーんと放り出された。以前流されそうになりながら必死で渡った川の上を、今度は放物線を描きながら飛んで行く。タミさんと、そして二人の町田君が遠くなっていく。

 時報のように、ピッ、ピッとカウントの音が聴こえてくる。

ピーッという強い音とともに、目の前が真っ暗になった。


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