第24話 六週目②

 私はそんなに忘れっぽかったのか、けっこう前のことだから、忘れていても仕方ないのだろうか。

「町田先輩が注文したメニューだけこなくて、安藤先輩が激怒したんですよ」

 西本さんが淡々と説明する。

「ああ、そんなことも、あったような、なかったような……」

 段々と思い出してきた。そうか、町田君に関することだから、あえて忘れていたわけか。みんなどういうわけか覚えているようだけど、だとするとこの間ファミリーレストランへ行ったときも、幾人かは腹の中で笑っていたのだろうか。

 アルバイトの態度が目に余った。自分のせいじゃない、こんな大勢でああでもないこうでもない、やっぱりこれもだの、やっぱりあれはいらないだの、混乱するような注文をしたこの世間知らずのガキどもがいけないんだ。バイトもしてないようなやつらが、親からもらった小遣いでファミレスに来るんじゃないよ、とでも言いたげな様子に(実際は『申し訳ございません』としか言っていなかったにも関わらず)、腹がたった。

 これから作ってもらえばいいだけだし、大丈夫だよ、と言った町田君に対しても、それでいいのか、と詰め寄った覚えがある。

「自分がそれだけ軽く扱われてるってことだよ? 不愉快じゃないの?」

「いいよ、日常的に関わっている人でもないし、向こうにとってだって、僕は単なるその他大勢の客の一人なんだし」

「私は許せないな、あの態度、見た? バイトもしてないようなやつら、親からもらった小遣いでファミレスに来るんじゃないよ、とでも言いたげじゃない」

 みんなクスクス笑っていた。静香さんが「面白いけど、もう少し小さい声で話そうよ」とささやいた。

「こんな店、出ようよ」

 しかし、町田君以外のオーダーは全部来てしまっていたので、張本人の町田君が私をなだめ、遠慮がちな他の人たちに先に箸をつけるよう促すという、よくわからない状況になってしまった。そういえば、あのとき町田君の隣に座っていた加奈子さんは、ちゃっかり「このパン、一個どうぞ」などと自分の食べ物を勧めていなかっただろうか。もしかするとあの段階から、既に印象づけようと動いていたのかもしれない。

「あのとき、安藤さんは、普段から自分を大切にしてる人なんだろうなって思ったんだ」

 町田君の声に、我に返る。

 馬鹿じゃないの。自分のことだったら、面倒くさいし黙ってるに決まってるでしょう、そう喉元まで出かかったものの、そこで失速してしまう。

 大勢の前で言うセリフではないとわかってはいるけれど、それでも今言わなくてよかったのだろうか。そうしている間にもどんどん話は別の方向へ進んでいき、二分も経ったころには、もはや言い直す隙間なんてどこにもなかった。

 帰りの電車では加奈子さんと一緒になり、してもしなくてもどちらでもいいような世間話を続けた。本当に話すべきなのは違うことのような気がしながらも、お互い話題を変える気はないようだった。

「町田君が、高校生のときにどういうことで悩んでたか知ってる?」「あのころの彼も、自分はビルの四十五階から五十五階までの中でしか生きられていない、なんて言ってたの?」「タミさんっていう飼い猫の話を聞いたことある?」「町田君って、本当はどんな人なのかな?」

 次々と質問を思いつくけれど、どれも、騒がしい電車の中で話すような内容ではない。

「先輩、住所教えてくれませんか?」

 我に返り、加奈子さんに目を向けると、「昼下がり、送るので」と言われた。

「後でメールするね。着払いでよろしく」

 この人ともう少し話したいといえば話したいような、もう会いたくないといえば会いたくないような、そんなことを思うと電車の揺れが気になって、思わず手すりをしっかり握る。

 それでも彼女が降車する駅に着き、閉まるドアの向こうにその笑顔を見たときには、やっぱりこの子は可愛いなと思った。

 月曜日は筋肉痛を言い訳に、また十時くらいまでだらだらと寝ていた。美術館なども閉まっているし、張り切って早起きしても、どのみちすることが限られている。どうせなら、水曜日など、他の日が休みだったらいいのにと思うこともある。

 猫がこちらにいられるのは、あと十日間ほどしかない。いるとは言っても、もはや姿を見ることはほとんどない。私が猫のためにできることはなんなのか。高級なキャットフードを買っても仕方ないし、猫のおもちゃを飼っても、無駄なエネルギーを消費させるだけだろう。

 火曜日にはほぼ筋肉痛も治り、いつも通り仕事に復帰する。

「猫さん元気にしてる?」

 大沢さんの言葉に、一瞬うっときた。

「……最近あんまりいないんですよ」

大沢さんの動きが止まり、私の顔をじっと見る。

「自分で部屋から出られるんだっけ?」

「ええと、仕事に出る前に、出たい出たいっていうから、外に出すんですね。で、夜は帰ってきたり、来なかったり」

「おばあさん猫だから心配だね。でも、大丈夫なの? 預かってる猫に万が一のことがあったら……」

「好きにさせといてって言われてますので」

 元々猫を束縛する権限など私にはないのだ。撫でることすらできないのだし。

「でも、猫さんがいなくなると寂しくなるね」

「そうですね」

 素直に肯定の言葉が出てきたのには、我ながら驚いた。

 水曜日の夜、加奈子さんから宅配便が届くことになっていて、お風呂に入るのを我慢して待っていた。一人暮らしの勤め人は、これだから大変だ。

 時間ぎりぎりの八時五十七分に荷物はやってきた。案の定着払いではない。入浴が先か、荷物を開封するのが先か。迷った末、即急にシャワーを浴びてから開封することにする。

 普段より部屋着を一枚多く重ねて、カッターナイフでガムテープを切る。開けたら三毛猫の子猫が五匹くらい現れるのではないかと、おかしな想像をしてしまう。

 箱を開けると、当然ながら昼下がりがぎっしり詰まっている。その上には、封筒に入った手紙らしきものがぽんと置かれていた。

 恐る恐る開封したものの、中には便箋一枚しか入っていない。事務的な文章で、昼下がりを同封します、新居には置くスペースがないので差し上げます、といったことが書かれている。そして最後はこう締めくくられている。

「いろいろとご迷惑をおかけしました」

 これは、どう解釈すればいいのだろうか。あの帰り道で、彼女もまた、世間話をする振りをしながらも、他に話すべきことがあるのにと思っていたりしなかったか。別れた後、家に着いてから彼女宛にメールで住所を送ったとき、今日は楽しかったです、ありがとうございます、との返信があった。もし「ご迷惑をおかけしました」と伝えられたのがあのときだったら、「なにが?」「実は……」と話が続き、わだかまりが解決できたかもしれなかった。もし彼女が本気でなんらかの解決を望んだのであれば、そのとき言えばよかったはずだ。なぜ今更こんなことをするのか。私は試されているのだろうか。

 つまり加奈子さんから見て、自分は私と町田君との間に割り込んだという思いを抱かなければならない程度に、我々は親しい仲に見えていたということなのだろうか。とはいったものの、勘違いだった場合も想定されるので、私の意見も聞かないまま「すみません」、あるいは「ごめんなさい」などと言うのは、さすがに失礼だと思ったのか。

――おや、懐かしいものをお持ちですね。タイムカプセルですか。

「これが古いものだとわかるのですか?」

――だってあなた、それは、その紙はいかにも古そうではありませんか。

 安いわら半紙を使っていたこともあり、確かに実に古そうに見えた。

「それよりタミさん、お久しぶりです。お元気でしたか?」

――ええ、気づいたら、こちらではかなりの時間が経っているように思えますが。例の日はそろそろですか?

「あと三日後です」

――そうですか、では、タミはまた少し休ませていただきます。

 猫はすっと猫ベッドに入る。自分の寝床は格別なのか、気持ちよさそうにすやすや寝ている。今なら触れるかも、とそっと背中を撫でてみたけど、やはり手は猫の体をすり抜けた。やがて猫の姿は見えなくなった。

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