第15話 四週目②

 家に帰り、あまり元気が出なくて、猫のようにごろごろしてしまう。暗くなってお腹がすいてきたので、棚にストックしてあったカップラーメンを食べる。

――珍しいお食事ですね。

 猫が覗き込んでくる。

「ああ、カップラーメンっていうんですよ。町田君は食べてなかったんですか?」

――お坊ちゃまは、きちんとしたお食事を好まれるお方なので。

 猫が見ても、即席の食事だとわかるようだ。責められているのだろうか。しかし、私からきちんとした食事をとる時間を奪っている責任は猫にもあるのだ。

 町田君が弱っていることを、猫に話したものだろうか。それとも、余計な心配をかけるだけなのか。

 猫ベッドで丸くなっている猫に話しかけてみる。

「タミさん、町田君、私たちのこと薄々勘づいてましたよ」

 あまりダイレクトに言うのもなんなので、言いやすいことから言ってみる。

――不倫でもしているような言い方はよして下さい。

 どこからそういう発想が出てくるのだ。冗談にもほどがある。

――もう少し丁寧に説明して下さらないと、わかることもわかりません。

「タミさんが他界されたのは実は勘違いで、タミさんは私の家で幸せに暮らしている夢をみたんですって」

 猫はしばらく黙っていた。どうしたのだろうと思うと、すすり泣いているようだった。

「ねえ、タミさん、町田君のところにも行ってあげればいいじゃないですか」

――初めにここに来たとき、言いませんでしたか? お坊ちゃまは、起きているときにはタミに気づいてくれなかったのです。夢の中では、あなたもご存知のように、あの者に邪魔されて……。

「なんで私にはタミさんが見えるのでしょう」

――それはきっと……。

 猫は言いかけはしたものの、そっと口をつぐむ。

もしかして、そうなのだろうか。実は私は町田君にとっては、かなり重要な人物なのかもしれない、そういうことなのだろうか。私が思う以上に、もしくは彼が思っていた以上に、つまりは……。

――あなたは、なんと言いますか、他の多くの方々と比べると、時間が有り余っていますよね。

 私が口をあんぐり開けているのに気づきもせず、猫は続ける。

――扶養義務のある家族がいるわけではなく、定期的に通う趣味のサークルがあるわけでもない、残業もないし、病気もない、介護や育児をする必要もない……つまり、ひまなんです。それゆえに、タミのように生活に直接関係のないものの気配を敏感に察することができたのではないかと、タミは考えております。

 ものすごく馬鹿にされている気がする。本当に私に力を貸してもらいたいと思っているのだろうか、この猫さんは。

――だからタミは、あなたに話していいものかどうかずっと決めかねていたのです。あなたが単なるひまな人で、それでタミを見ることができる。そんなあなたにお坊ちゃまの秘密を打ち明けてしまうだなんて、そんな無責任なことは、いくら死にかけた猫だからといって許されることではありません。

 死にかけたではなく、もう死んでますよね、と言いたいのをぐっとこらえる。

――しかし、ここ数週間あなたの様子を見てきてわかりました。少なくとも、あなたはお坊ちゃまのことをどうでもいいと思っているわけではないし、単に好奇心旺盛なだけでもないようです。なので、タミは決意しました。

 ごくりと生唾を飲み込む。

――あなたに、お坊ちゃまの秘密を一つ、お話ししましょう。

 猫は自分を納得させるかのようにこくりと頷くと、話し始めた。

 猫がまだ中年と呼べたころとでも言おうか。今より動きも俊敏で、少しは外に出る習慣もあり、紐で遊んでもらうと喜んでいた、そんなときが、この猫にもあった。そのころ、町田君は高校に入る直前だった。中学校を卒業してからの春休みはやや長くて、彼は普段よりも長いこと家にいた。

 その日はたまたま、着ようとしていた黒い長袖シャツが見当たらなかった。母の婦人用のそれとよく似ているので、何気なく母の引き出しを開けてみた。案の定シャツはそこにあったのだが、その付近で服に紛れ込む白い封筒が目に入った。差出人の名前は母の女友達のようだが、なにかがおかしい。こんなことはよくないと思いながらも、お約束のように、彼は中身を見てしまう。

 それは、明らかに男性から女性へと書かれた文章だった。同窓会で再会したのち、二人は度々こそこそ会っていたことが記されており、さらには、離婚して自分と一緒になって欲しい旨が綴られていた。シーズンが終わればたちまち忘れ去られるドラマに出てくるような、月並みな内容だった。そうして、最後はこう締めくくられていた。

――あのとき僕は君と別れるべきではなかった。僕は間違った相手を選んでしまったのだ。

 なぜ母はこんな手紙を取っておくのか。もしかすると、母もまた父のことを、間違った相手だと思っているのか。

 一年前に喧嘩をしたときに、「あんたなんて生むんじゃなかった」と言われたことがあった。母は他の友人の母親よりも比較的若かったが、もしかすると結婚する以前に自分が宿り、それでやむを得ず父と生活をともにすることになったのではないか。ちょっと前に、そんなドラマがテレビで放映されていたことが思い出される。あのドラマでも母親役の女優が、父親役の俳優に言っていなかったか。「あなたと結婚したのは間違いだったわ」と。

 母親は、自分を生んだのは間違いだったと思いながら、せっせと育ててきたのだろうか。様々な間違いが複雑に入り組んだ結果、今こうしてここにいるのが自分なのかと思うと、わけがわからなくなってきた。

 母親は手紙を見られたことも知らないまま、やがてその同窓生とは疎遠になったようだったが、彼の母親に対する、わずかに残っていた愛着のようなものは、それ以来消えた。

 そんなある日のことだった。たまたま気が緩んだのか、一度だけそのことについて他人に話そうとしたことがあった。

「そうして妥協して進んでいくうちに、本当はなにがほしかったのかわからなくなっていく。必要なものを入手しないと次に進めないようにできていれば、迷わなくてすむのに」

 個人的な事情が特定されるようなことは話せなかった。ゲームにたとえて話すのが、彼にとっては精一杯だった。

――お坊ちゃまは、辛抱強いお方です。弟さんは、自分の分まで無邪気に過ごせるようにと、精いっぱい気を使われておりました。

 ご自身は高校を卒業するとすぐに家を出られましたが、弟さんは就職した今でも家でゆるりと過ごされております。まあ、お母様とも仲がよろしいですし。

「タミさんは、町田君が大学へ行くために家を出た後、どうしていたんですか?」

――お坊ちゃまがいなくなってしまったことは、身を切るように寂しいことでした。しかし、たまには帰ってくることがわかりましたし、猫の脳みそは、悲しいことを覚え続けていられるほど大きくはないのです。美味しいキャットフードを日々食べているうちに、すぐにそんな生活にも慣れました。

 どちらともなく会話が途切れ、やがて猫が眠りに着いた気配が感じられた。

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