第8話 二週目③
頷きながらも、彼がなにを言わんとしているのかよく呑み込めない。
「実際の生活の中では、本当は必要だったものをどれだけ見過ごしながら生きてるんだろうね」
「本当は必要だったものって?」
「例えば、芸大に入ることを目標にしていた受験生だって、芸大に行かれなくてもとりあえず違う大学に入れるよね。よくドラマや小説なんかでも、本当に好きだった人と結婚できなくても、生活のためにとりあえず違う人と結婚したらなんだか幸せになっちゃいましたってあるじゃないか。
自分が本当に必要だと思っているものでも、代用品なんていくらでもあるんだ」
この人、この高校は第一志望ではなかったのだろうか、などと思う。
「そうして妥協して進むうちに、本当はなにが欲しかったのかわからなくなっていくんだ。必要なものを入手しないと次に進めないようにできていれば、迷わなくてすむのに」
間もなく誰かがやって来て、その会話はそれで終わった。その後も、そのことについて彼と話す機会はなかった。
そうこうしているうちに、気づけば十五分休みの開始時間を過ぎていた。貴重な休憩時間を忘れそうになるとは、迂闊だった。さっさとコーヒーでも飲んで目を覚ました方が良さそうだった。
平日は、仕事をして、必要最低限の家事をすると一日が終わる。前職と比べて残業はないし職場も近くにある。やることもほぼ単純作業なのに、不思議なことにこのところ日々ぐったりしている。おかしいなあと思っていると、
――あなたのお仕事は、どういったお仕事なのですか。
――同僚の方はどんな方なのですか。
そんな具合に、猫に絡まれるのである。猫は、日中は寝ているだけでひまだから、私がいるときはなにかとちょっかいを出したくなるようなのだ。
「大沢さん、猫って、帰宅するとじゃれてきますか?」
大沢さんは大きく首を縦に振る。
「猫って、一人が好きだってどこかで読んだ気がするんですけど」
「そういうときもないとは言えないけど……特に、私の家みたいに日中家に人がいないと、帰宅した瞬間はすごくすり寄ってくるよ。私は夫より帰宅が早いからか、歩けないくらいまとわりついてくる。安藤さんの猫もそうなの?」
「まあ、そんな感じなんです」
大沢さんは、にっこりした。微笑ましいなあとでも思っているようだった。
そんな我が家の猫さんが、金曜日に帰宅すると、珍しく玄関マットの上にかしこまって座り、私を見上げていた。
「なにかありましたか?」
――お帰りが遅かったですね。
「外食してきましたので」
私は門限が厳しい家の箱入り娘か。
「あ、もしかして、タミさんもなにか食べたいんですか?」
――今更そんなこと言われても。タミがもし食料を必要としている生き物であれば、とっくに餓死しています。
「普通、餓死する前に言うでしょう、お腹すいたって」
――世の中そういう人ばかりではありません。あなたと一緒にしないで下さい。
「そういう人ばかりですよ、普通は」
そうだった、普通じゃないんだな、この猫もこの状況も。文句を言っても仕方がない。
――それより、あなた。今夜はまたあの場所へ行くことになります。心して寝て下さい。
あの場所って……、訊くまでもない、きっとこの間の夢のことだろう。
「どうやって、そういうことを知るのですか?」
――虫の知らせです。
聞いた私が馬鹿だった。
普段よりゆっくりお風呂に入り、ふろ上がりにゆったりしたクラッシック音楽を聴きながらストレッチをする。リラクゼーションだか自己啓発だかわからない曖昧なジャンルの本をぱらぱら捲り、十時半になると同時に消灯した。
気がつくと、そこはもう川の向こうだった。目の前には見渡す限りの草原が広がり、微睡むような薄曇りの空には無数の扉が浮いている。私が前回開けた扉は、もうどれだかすっかりわからなくなっていた。
「いらっしゃいましたね」
振り返ると、No2がいた。
「この間はお茶もお出しせずに、失礼致しました。お上がり下さい」
彼が言うと同時に、アウトドア用のプラスチックでできたテーブルと椅子が出現する。テーブルの上にはカップが二つ置かれている。一つには緑色の液体が、もう一つには茶色の液体が入っている。
「どっちが毒入りなの?」
No2は微笑んで、緑色の液体が入ったカップを手に取る。「ミドリムシ?」と尋ねると、顔をしかめて、カップを机に戻した。
「悪い冗談はやめてもらえませんか? 私が虫が得意でないことは知っているでしょう」
「知らない。町田君が虫嫌いなことは知ってるけど」
「私は、町田君なんですけどね」
彼はすっと品の良い笑みを浮かべる。なにも知らなければ、感じのいい好青年に見えるかもしれないが、今の状況ではなにか裏があるのではないかと勘繰らせるだけだった。
「それって、抹茶ラテ? 町田君は、甘いもの飲めないはずだけど」
彼はカップを持ち上げると、一気に飲み干した。
「なにを根拠に、人を偽物呼ばわりするんです?」
「だって、確かに見た目はそっくりだけど、違う人と話してる気がするんだもん」
「それは、私が敬語で話しているからではないですか。ほら、これならどうでしょう」
No2は、幹事会のときに町田君が話していたのと同じ口調で話し始める。
なんとも結論が出せないまま、なす術がない。ぼーっと突っ立っていても仕方ないので、コーヒーカップを手に取り、飲んでみる。なんと、おいしかった。
「あの、ところでこの間訊き忘れたんだけど、いったいこれはなんなの?」
「これ、と言いますと?」
「ここはどこ? なんで私はここにいるの……?」
このようなセリフは、記憶喪失の人しか口にしないものだと思っていたけれど、この状況ではそう言わざるを得ない。
「ここは、私の夢の中です」
No2は辺りを見回す。
「そして、なぜあなたがここにいるのかは、私の方が知りたいくらいです。私はただ、平日の仕事が終わり、ゆっくり原っぱでピクニックしようと思っていただけなのに。せっかく淹れたコーヒーはあなたに飲まれてしまうし、その辺にいた小鳥たちはあなたを怖がって逃げてしまったし、あんまりですよ。私の方こそ、お尋ねしたいくらいです。あなたはなんでここにいるんですか?」
「私は、猫、タミさんに連れられて来たからここにいるだけだし」
「猫のせいにしちゃって。自分の意志で来たんでしょう」
また「だって」と言おうとして、ふと違和感を覚える。
「あれ? タミさんは?」
「タミは、小鳥たちを追って向こうへ行ってしまいましたよ」
「じゃあ、小鳥を追っ払ったのは、私じゃなくてタミさんじゃない」
「あなたに驚いて小鳥たちが逃げて、タミはそれを追って行ったんです。まあ、いずれにせよ小鳥たちがいなくなってしまったことに変わりはありませんが」
名残惜しそうな様子が、なんだか白々しい。
「小鳥好きだったの?」
「べつに」
「だったら、そんなことで文句言わないでよ」
「目の前にあるときには気づかなかったけど、去ってしまってからその価値に気づくものって、あるじゃないですか」
話すのも疲れてきたので、コーヒーを飲みながら景色を眺める。
この間渡った川の支流があるのか、小川のせせらぎが聞こえる。
名前はわからないけど、小さくて可愛いらしい様々な種類の花が一面に咲いている。心を落ち着けると、ほんのり花の香りが漂ってくる。このまま昼寝でもしたくなってしまうような……ああ、忘れていた。既に夢の中にいるんだっけ。
「あの、レクリエーションとか言ってたのはなに?」
「ああ、もう一度やりますか?」
「その前に、ルールを説明してよ。いきなり始められたって困るじゃない」
「あなたも、ルールなんて気にするんですね」
No2はあざ笑うかのように口角を上げる。
「あなたはここで、三回まで扉を開けることができます。正しい扉を選ぶことができたら、めでたく彼に会うことができるというわけです」
「なんで三回なの?」
No2はいい質問ですねとつぶやく。
「ハンデですよ、あなたは、あまりに短絡的なので」
なんですってと言おうとすると、
「タミが戻ってきましたね」
お花畑の向こうから、猫が走ってきた。家にいるときにはいつものそのそしているので、俊敏に走る猫がまぶしく見える。
「そろそろ、あなたも戻ったらどうですか」
No2が言うと同時に、目の前の景色が遠ざかっていった。
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